なぜ野口城が最初に狙われたか?
天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。
早朝より攻撃が開始され、秀吉軍は、3000の兵で攻めたてました。
この戦いで糟谷武則は、初陣でした。
それにしても、「なぜ野口攻めから始まったのか?」と言うことが疑問でした。
理由として考えられるのは、①街道筋の城である、交通も発達しており経済に豊かな土地である。②城の規模が比較的小さく、比較的攻めやすく成果を上げるのに適当である、と考えていました。
いま、木内内則氏の作成された「野口城の復元図」を見ています。私も地元ですから、この辺りは何回も歩きました。この「野口城」の図を作成された木内さんはよく歩かれていることと、その熱意が伝わって来ます。
図をよくみてください。東西(東西)に並んだ屋並みの向こうあたりに川が流れています。
この川は、加古川大きな支流考えられます。少し横道になりますが、次の話題を付け加えておきます。
野口と後醍醐天皇
後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、元弘元年(1331)に討幕の計画しましたが、ともに失敗に終わりました。
後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになります。
京都を出発した一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の旧山陽道を通り、加古川の宿(守護所:後の加古川城)に入りました。
<増鏡の一部>
12日、後醍醐天皇が加古川の宿に着いたとき、讃岐(四国)に流される子供の宗良(むねなが)が少し遅れて加古川の東の野口に着きました。
「増鏡」の加古川の東の野口に着いたという記述に注目してください。
この川は勿論、加古川の大きな支流のことです。
とすると、当時は、加古川は後醍醐天皇の宿舎であった今の加古川町と野口の間に大きな支流が考えられます。
つまり、野口城は川東にあり川を通じて三木と直結する位地にあったのです。秀吉にしても目の上の「たんこぶ」だったのでしょう。
秀吉が、まず野口城の攻撃を命じたことが理解されます。(no3006)
*絵:野口城の図(木内内則作)
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