芭蕉の没後、播磨地方には芭蕉を敬慕する数多くの俳諧師が、きらぼしのごとく輩出した。
松岡青蘿(まつおかせいら)もその一人で、蕪村などとともに「芭蕉中興の六人」に数えられている。
青蘿は身持ち不慎のため、23才の時、姫路から追放された。
身持ち不慎の理由は、賭博とも言われている。
その後、諸国を遍歴し、好きな俳諧の修業をつんで、明和四年(1767)播州にもどったが、姫路には入れてもらえなかった。
そのため、加古川の大庄屋・中谷家の庇護のもとに居を構えた。
これが、栗本庵(幽松庵)である。
明和五年(1768)、加古郡福沢新村(現:神野町石守)の善証寺(写真下)の元へ参禅し、剃髪した。
*善証寺・・寛永四年(1627)創設
その日は芭蕉忌だった。
「青蘿」は、その時、和尚から授けられた俳号である。
けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな
これは、この時の句である。
福沢の善証寺のそばに、この青蘿の句碑(写真上)がある。
句碑は、昭和57年8月建立された。
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