ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川の味、かつめし(33) かつめし宣伝隊

2018-01-10 07:31:17 | 加古川の味、かつめし

    かつめし宣伝隊

     「うまいでぇ!加古川かつめしの会」

 平成18(2006)年4月に寺家町活性化委風会から「じけまちかつぬし探検マップ」が、同12月には加古川観光協会から「かつめしマップ2006」が発行され、加盟店増加に合わせて現在まで改訂が続いています。

 近年のB綴グルメプームで、メディアでの露出度が増え、大手コンビニチェーン4社ではコンビ二弁当として商品化されました。

 そのパヅケーヅにプリントされているのが、加古川かつめしPRキャラクター「かっつん」と「デミーちゃん」でず。

 二人は平成20(2006)年、兵軍大学短期大学笑術デザイン学科の学生たちによって考案され、加古川かつめしを全圏にPRするという使命を持って誕生。

 平成21(2009)年にはベルデモール商店街に石橡が、平成22(2010)年には着ぐるみが完成していまず。

 また、B級グルメプームにのって全国的に加古川のかつめしをPRレようと結成された団体「うまいでぇ!加古川かつめしの会」が、平成25年(2013)年に開催された「B-1グランプリin TSUYAMA」に出展し,5位人賞を果たしました。

 平成 26 (2014)年には「兵庫ご当地グルメフェスティパル」の他、様々なイベントで好評を博すなど、加古川かつめしが全国に知られるようになりました。(取材/田村俊行)(no3838)

 *写真:全国各地で加古川かつめしのPRを行う「うまいでぇ!かつめしの会の」のメンバー。(『かこ・スタイル2』より)

 ◇きのう(1/9)の散歩(13.141歩)

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加古川の味、かつめし(32) 誰もが認める加古川の味・かつめし

2018-01-09 08:27:26 | 加古川の味、かつめし

 「加古川の味、かつめし」は、no31でしばらくお休みをしていましたが、再開します。

 「うまいでぇ!加古川かつめしの会」が、結成され、「加古川のかつめし」もだんだん全国的に知られるようになりました。 

 「かこ・スタイル2」の記事から「かつめし」を紹介した記事を3回で紹介しましょう。

 きょうは、その(1)です。

    誰もが認める加古川の味・かつめし

 加古川の名物料理の代表といえは「加古川かつめし」です。

 平皿にご飯を盛リ、その上に牛力ツをのせて、たっぷりのデミグラスソース系のたれをかけ、ご飯の積にはポイルしたキャベツを添えて、なぜかお箸で食べる、このちょっと不思蟻で洒落たご当地グルメですが、その発祥は、戦後間もない頃、加古川駅前の洋食店で考案されたものだといわれていまず。

 誕生から50年以上が経過した現在、加古川市内で加古川かつめしを提供する店舗は150店を超えました。

 学校給食や学生食堂のメニューにもなり、市内のコンビニでは、コンビニ弁当や専用のタレも販売されるほど加古川市民にとってのソウルフードとして愛されているのです。

 戦後から加古川市民の間では秘かに親しまれてきた加古川かつめしですが、市外にも知られるようになったのは、平成9(1997)年に関西のロ-カルテレピ番組で紹介されたことがきっかけでず。

 その後平成11(1999)年に東播磨かつめし連盟が結成され、かつめし愛好家カツメシアンたちの活動が活発になりました。(文・田村俊行)(no3837)

 *写真:かつめし(インターネットより)

 ◇きのう(1/8)の散歩(10.644歩)

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加古川の味、かつめし(31) かつめし外伝(3)・牛さんたちに感謝

2017-11-21 09:05:11 | 加古川の味、かつめし

   かつめし外伝(3) 牛さんたちに感謝

  (第5景) 農家の牛たち(2)

 牛B:次は私の番や(処理される)、ホンマに人間は残酷や、そうやろ、みんな。

 (農家の主人出てくる)

 農家:みんなゴメンやで、本間に感謝している。

 農家:本間に人間は勝手や。

 最近は「かつめし」言うて新しいメニューも出たけど、それもお前たちの牛さんたちの肉なんや。

 私たちはお前たちのお陰で、毎日おまんま食べさせてもろてんねん。(泣く)

 牛B:もう泣かんでええよ。

 牛C:これが我々の人生、いや牛の生きる道や。

 牛D:長い間かわいがってくれてありがとう・・・

  (第6景) いろはにほへと食堂

 牛A:ところであんた、「ごちそうさま」の意味知っているか・・・

 店員(ごちそうさまの意味を熱く語る)

 「ごちそうさま」を漢字で書くと「御馳走様 」で、昔は今のように冷蔵庫もスーパーマーケットもなかったので、食材を揃えるのは大変でした。

 「馳走(ちそう)」は走りまわるという意味で、そして、御つけた「御馳走様」は、もてなすという意味が含まれるようになり、贅沢な料理指すようになったんです。・・・

 牛A:なるほどな・・・わいら、加古川に「かつめし」ができたことに感謝や。

 みんな:牛さんの命に感謝や!

 *『かつめし外伝牛さん、いただきますっ!』 

 脚本:演出  砂川一茂

 出演:綾南振起劇団員(no3787)

 *写真:農家の人、牛さんたちに感謝

 ◇きのう(11/20)の散歩(10.845歩)

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加古川の味、かつめし(30) かつめし外伝(2)・かくて、かつめしは完成した

2017-11-20 10:00:49 | 加古川の味、かつめし

  

   かつめし外伝(2)・陵南新喜劇団

 第3景 農家の牛たち(1)

 牛A:あぶないところやったわ・・・

 牛BCD:ほんまに、あぶないとこやったわ。

 牛A:でも、あした(処理場へ)連れていかれるのやろな。

 牛A:人間は残酷や。

 (農家の主人が出てくる)

 牛C:くそババア!

 牛A:ほんまに、この牛殺しババぁ!

 

   第4景 いろはにほへと食堂にて

 アシスタント:この前嫌がっていた牛、やっと処理できましたわ。

 (いろはにへと食堂の)主人:獣医さんのおかげで、良質の牛肉がでけました。

 加古川では、安く良い肉が手に入ります。うちで、牛肉をつかった洋食を出そうと思ってますねん。まずはカツレツを・・・

 店主:でも、洋食には問題があるんですわ。肉は美味しいんですが、加古川は田舎です。ナイフとフォークで食べるのは無理です。・・・

 獣医:そうですな。

 店主:(店主はしばらく考えてから)肉を小さく切って、箸で食べたらどうでっしゃろ。

 肉の上にデミグラスソースをかけますねん。もちろん、自家製のソースをつくります。

 そして、キャベツを添えます。

 獣医:グッド・・・・ですな。

 かくて、「かつめし」は、完成しました。(no3786

 *写真:上(牛たちの不満、このくそババア!)

    :下(かつめし用のデミタスソースつくり) 

 ◇きのうの散歩(11.189歩)

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加古川の味、かつめし(29) 牛さん たいへん!

2017-11-19 07:47:56 | 加古川の味、かつめし

 

 (二部)

 昨日(18日)綾南公民館で、加古川市内の市民劇団による「かつめし外伝:牛さん、いただきますっ!」の公演がありました。

 その内容を「二部」として再現させていただきます。

 *写真がボケています。後日、クリアーな写真と交換します。ご了承ください。

  (第1景) いろはにほへと食堂(現在)

 店員:いらっしゃいませ。

 客 :さすがに「かつめしの店やね・・・」

 店員:「お待たせしました、かつめしです・・・」

 子ども:はやっ。さあ、たべるで。

 父親:「いただきます」の前に意味のあること知っている?

 1つ目は、食事に携っている方々への感謝。2つ目は、食材への感謝するのを。

 祖母:それでは、みんなで一緒に「い・た・だ・き・ま・す!」

 父親:ところで、この「カツメシ」って歴史があるんですよね。

 店員:えぇ、ありますよ。戦後の動乱期の昭和22年に、うちの初代がはじめました。

 祖母:へぇ、そうなの知りたいわ・・ねぇ、みんなも知りたいよね。

 

  (第2景) 加古川市内の処理場(昭和22年)

 昭和22年、加古川にあった食肉処理場には、安全な肉を届けるため、獣医が牛の健康状態をチェックしていました。

 獣医:ハイ、次の牛・・・

 牛A:悲しげに「モー・モー・モー」

 農家:こいつ、もうすぐお肉になるってわかるんやろか。

 獣医:そうかもしれません。

 農家:戦争で神戸があかんようになって、加古川が牛の生産地になって、わしら農家の牛もよー売れるようになってたすかってます。

 でも、牛が悲しがっていますわ。

 今日のところは、連れて帰ります。明日また来ます。(no3785

 *写真:牛が悲しがっています

 ◇きのう(11/18)の散歩(11.179歩)

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加古川の味、かつめし(28) 牛さんの嘆き(「加古川の味、かつめし(17)」の復習)

2017-11-18 08:27:58 | 加古川の味、かつめし

 今日、綾南公民館で、綾南新喜劇による「かつめし外伝」が上演されます。

 牛さんが、「肉」にされるのを嫌がる場面も上演されるようです。どういう演劇なるのでしょうか。楽しみです。

 今日の記事は「加古川の味、かつめし(17)」で取り上げた場面です。復習をしておきます。

    戦争で神戸肉の生産もストップ

  ・・・戦前から神戸ビーフは有名でしたが、戦争のため生産がストップしてしまいました。

  加古川は、神戸に代わる肉の生産地となりました。

  その一拠点が志方ともう一か所が加古川肉の生産拠点になりました。

  場所は、現在のシルバーセンター(加古川市加古川町)のある周辺です。・・・

     肉は、加古川で生産

 当時(戦後間もないころ)は、農業が中心で、農家は労働力の大切な一部として、たいてい牛を飼っていました。

 ですから、容易に牛肉の生産はできました。

 業者が農家から牛を買い、それを処理場に持って行き、製品にして神戸を中心に送り出しました。

 もちろん、食をあずから大切な仕事ですから、処理場には専属の獣医さんが常駐して、牛の健康状態、製品の品質、等級の分類など厳格に行われていました。

 当時の方に聞いた話では、処理場に連れてこられた牛は、自分の運命を察してか、処理場の入口に来ると「モー、モー」と声を出して鳴き、なかなか入ろうとしなかったそうです。

 業者の方たちが処理場の入口に慰霊塔を建立し、年に一度供養祭を行っていました。(no3784)

 *写真:戦後間もないころの加古川での放牧風景(前方の高い山は高御位山)

 ◇きのう(11/17)の散歩(10.668歩)

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加古川の味、かつめし(27) 「かつめし誕生話」を18日公演(陵南公民館で)

2017-11-17 07:46:58 | 加古川の味、かつめし

 明日(18日)、加古川市内の市民劇団「陵南新喜劇」が「かつめし誕生秘話」を新喜劇で紹介します。

 昨日(11月16日)の神戸新聞に大きく取り上げられました。楽しい演劇になりそうです。お出かけください。 (以下は、神戸新聞記事の転載です)

 

     「かつめし誕生話」を

          ギャグ交え劇に 18日公演

 兵庫県加古川市内の市民劇団「陵南新喜劇」が18日、陵南公民館(同市野口町水足)で、公演会「かつめし外伝 牛さん、いただきますっ!」を催す。地元の名物かつめしの誕生話をベースに、ユーモラスな物語に仕上げた。出演者らは本番に向け猛練習。「名物の“サイドストーリー”として楽しんで」と呼び掛ける。(本田純一)

 同劇団は大阪府枚方市の放送作家砂川一茂さん(58)の指導を受け、年1回公演する。公演は5回目で、10~70代の市民ら10人が、7月から練習を重ねてきた。

 舞台は1947年の加古川。戦争で食肉処理場が神戸から移ってきたのを契機に、「いろはにほへと食堂」の店主が「良質な牛肉を使い、食べやすい洋食を」と、かつめしを考案する。一方で、食べられてしまう運命を悟り、嘆く農家の牛たち-。アドリブを多用して軽快にやりとりし、食に対する感謝の心を描く。

 障害のある人たちも出演し、笑いを誘おうと奮闘。同市加古川町美乃利の女性(20)は「大好きな吉本新喜劇に負けないように頑張る。本番はどんなギャグをしようかな」と意気込む。

 砂川さんは「出演者の個性が存分に発揮され、面白い舞台になった。多くの人に見に来てほしい」と話している。

 午後2~4時。入場無料、申し込み不要。かつめし弁当パック(500円、50食)も販売する。陵南公民館TEL079・456・7110(no3783)

 *写真:本番を控え練習に励む新喜劇のメンバー=加古川市野口町水足綾南公民館にて(神戸新聞から)

 ◇きのう(11/16)の散歩(11.481歩)

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加古川の味、かつめし(26) かつめし宣伝の自販機

2017-09-11 07:03:23 | 加古川の味、かつめし

     散歩のすすめ

 私事で申し訳ありません。

 「ひろかずのブログ」の最後に、迷惑な蛇足ですが、「きのうの散歩」の欄を設けています。

 この欄を設けたのは、私の散歩が三日坊主に終わってしまわないためです。

 今月から毎日の散歩の目標を「11.000歩」にしました。

 散歩のおかげで、この夏食欲は落ちていませんでした。それに快眠・快便です。

 ただ読書量は極端におちました。仕事をしていると眠たくなります。

 最近、散歩中に見つけた雑草「山野草」の名前を覚えるようにしています。名前を調べるのが大変ですが、脳トレになります。

 蛇足が長くなりました。

     かつめし宣伝の自販機

 街の中はあまり散歩はしないのですが、紀伊国屋書店へは散歩をかねてよく出かけます。自宅(尾上町今福)から往復3キロほどです。でも、11.000歩にはたりません。

 そこで、帰りは、少しコースを変えて距離を伸ばします。

 キョロキョロして歩いていると、いろんなものを見つけます。

 先日、帰りにプラザホテルの向かいの但陽信用金庫本店前で写真のような自販機を見つけました。

 やはり、加古川市は「かつめし」の町なんですね。

 でも、少し不満でした。もっとたくさんのかつめしの自販機ができるといいですね。(no3715

 *写真:「かつめし」を描いた自販機(但陽信用金庫本店前)

 ◇きのう(9/10))の散歩(11.554歩)

 

 

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加古川の味、かつめし(25) (現在の)いろは食堂(ビストロ)オープン

2017-09-10 08:33:04 | 加古川の味、かつめし

  

    厳しい修行でした(4代目・一角昌史)

 4代目の一角昌史は、料理好きで、高校を卒業後進学せず、大坂の辻調理師専門学校へ進み、1年間学習を終え、フランス料理の就業のため、京都のリバーオリエンタルに就職しました。

 調理師学校を卒業しているとは言っても見習いで、生半端な修行ではありませんでした。

 就業時間などはあってもないのと同じで、それに手は飛ぶ、足蹴りはくるで、見習い期間は人間扱いではありませんでした。

 しかし、好きな道なので家に帰ってきても、一切不満を言いませんでした。

 京都での3年間の修行の跡は、神戸のオリエンタルホテルで修業をしました。

 最後に、自分の店の出店のために神戸のお店で2年半ばかり修業をしました。

 12年の修行を終えて加古川へ帰ってきました。

      (現在の)いろは食堂(ビストロ)オープン

 昌史が、平成27年1月に結婚したのを契機に3代目から4代目にバトンタッチして、お店もフランス料理も出せるように出せるように大改装して、名前も初代の「いろは食堂・ビストロ」に戻し、同年8月15日にオープンし「かつめし」も牛・豚といろいろ品揃えをし、平成27年1月にフランス料理のコース料理も用意しました。

 これが評判となり多くの方々に好評をもらい、テレビ等でも紹介してもらえるまでになりました。

 「かつめし」のデミグラスソースだけは、70年前の創業当時の味を愛を守っています。

 現在、新しい「いろは食堂」は、遠方からの来店されるお客も増えるようになりました。(no3714)

 *「いろは食堂かつめし物語」(一角昌博)参照

 *写真:現在の「いろは食堂」(9月9日撮影)

 ◇きのう(9/9)の散歩(11.149歩)

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加古川の味、かつめし(24) 第2次かつめしブーム

2017-09-09 08:50:56 | 加古川の味、かつめし

 

      テレビ・新聞等で「かつめし」が紹介される        

 平成4の月のことでした。

 2代目の一角昌博が大阪での研究会に講師として出席していた時のことでした。

 家から電話があり「すぐに帰ってほしい・・」とのこと。事情を聞くと「かつめし」のことでした。

 「テレビの方が私(一角昌博氏)に聞きたいとカメラを据えて待っている」とのこと。

 加古川には、珍しい食べ物「かつめし」があると聞いて取材をしていたら、その食べ物の発生のお店は「いろは食堂」の一角さんだということが分かり、発症の店を取材せず人放送できない」と私をまっておられたのです。

 そして、その年(平成11)6月に放送がありました。

 また、その年の9月に今度は毎日テレビが「甘辛アベニュー」という番組で、夜のゴールデンタイムに「かつめし特集」(1時間の番組)を放送しました。

 これで、「かつめし」の名前は一挙に全国に広がり、「かつめしの店」に多くのお客が殺到するようになりました。

    第2次「かつめしブーム」

 これといった名物がなかった加古川市も、これに目をつけ、観光協会を中心に「かつめし」に力を入れ、宣伝しました。

 「かつめし」を提供する店は飛躍的に伸びました。

 現在、かこがわしには200軒を超える店で「かつめし」が販売されています。

 

 3代目の時にテレビ・ラジオ・新聞でずいぶん「かつめし」は取り上げられましたが、その主なものは以下のようです。

   19996月  関西テレビ

   19999月  毎日テレビ「甘辛アベニュー」 

   20015月  毎日放送ラジオ

   20017月  読売テレビ

   200310月  朝日テレビ

   20052月  毎日テレビ

   20066月  朝日テレビ

   200612月  毎日テレビ

   20072月  朝日テレビ

   20074月  NHKテレビ *この影響は絶大でした

   20088月  関西テレビ(no3713

 *「いろは食堂かつめし物語」(一角昌博)参照

 *写真:かつめしを提供している市内のある喫茶店(ウィキペディアより)

 ◇きのう(9/8)の散歩(12.498歩)

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加古川の味、かつめし(23) 父の助言

2017-09-08 00:31:45 | 加古川の味、かつめし

 

   「いろは食堂」の再スタート

 「いろはのかつめし」が消えて16年が過ぎました。

 息子の一角辰宏氏が3代目を引き継ぎ、平成7年に加古川町溝口に喫茶・軽食の店「パラーディオ」をオープンさせました。

 もちろん、開店と同時に「いろはのかつめし」も復活させました。

 しかし、店の名前が変わってしまったせいで「いろはのかつめし」を知ってもらうのに時間がかかりました。

    (父)昌博から(息子)辰宏への言葉

 平成11年の正月のことでした。家族がそろいました。

 その時、辰宏は、父・昌博に切り出しました。

「 お父さん、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるねん」「実は、商売がうまくいってないんや・・・」「どうすればいいやろ」と。

 よほど困っているようでした。

 父はあえて、直接店の経営の子とは話しませんでした。

 ・・・・

 「お前は、今まで生きた33年にいろんな人にお世話になっているが、これだけはお返しした(感謝した)といえるものはあるか」と。

 辰宏は、しばらく考えてから答えるのでした。

 「いいえ」

 そこで父は息子に一つの提案をしました。

 「それでは、今日からお世話になった人・7人を選んで、一日一通の近況報告の手紙を書いてみなさい。話はそれから・・」というばかりでした。

 この時ばかりは、辰宏はうなずき父のいうことを実践しました。

 1年がたち手紙が届きました。

 内容は「お父さんが言われた通り、お世話日なった方に手紙を書きました。そうしている内にこんなことが起こりました」と、手紙に書いてきたのです。

 ・3月:29日の妻の誕生日に二人目の子の妊娠が分かった。 

     初めて、テレビでお店「かつめし」が紹介された。

 ・10月:毎日放送のアベニューで「かつめし」が夜のゴールデンタイムに放送された。

 ・11月:念願であった駐車場をつくることができた。

 あれほど経営に困っていた辰宏でしたが、「考え方や心の持ち方が変われば人生は変わる」と確信したようでした。

 それ以後、お店の経営も順調になっていきました。(no3712

 *「いろは食堂かつめし物語」(一角昌博)参照

 *挿絵:Y

 ◇きのう(8/7)の散歩(12.230歩)

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加古川の味、かつめし(22) 「ニューいろはのかつめし」消える

2017-09-07 08:24:04 | 加古川の味、かつめし

    「ニューいろはのかつめし」消える

 約20年ちかく、地域にごひいきいただいた「ニューいろは」でしたが、あまりの忙しさに追われている間にご夫婦は体をこわされました。

 そのため、奥さんのお父さんの忠告でいろはの総合ビルを貸しビルにし、「ニューいろは」は、加古川から姿を消すことになりました。

 当然のこととして「いろはのかつめし」も、加古川から姿を消すことになりました。

 その後は、他の数店で細々とかつめしは残っていましたが、元の味も消えだんだん愛好家も少なくなっていきました。

     加古川の商店街激変

 社会情勢も激変しました。

 車社会になり、郊外型のスーパーマーケットは非常な勢いで誕生し、寺家町の商店街は時代の波に翻弄されることになりました。

 しかし、この間も一角昌博氏は、デミグラスソースのレシピを保存して、年に2回ほど「いろはの味のかつめし」を作って、親しい人に提供し、「いろはのかつめし」の味を守り続けていました。

    余話として:大型のスーパー加古川へ進出

 東加古川のスーパーマーケット進出に強く反対し、ニッケ跡地のショッピングセンター構想にも反対していた商連協が、昭和54年9月に提出していたニッケショッピングセンターに反対する陳情を、翠55年3月に取り下げました。

 また、日岡廉売市場商店会会長などから日毛ショッピングセンター建設反対の陳情が提出されたが、すぐに3月議会で不採択とされてしまいました。

 そして、商工会議所主導型と呼ばれる方式で、地元商業界との事前調整を図っていくことになりました。

 結果としては、その後怒涛のように大型スーパーが加古川に進出し、地元小規模商店をなぎ倒すことになりました。(no3711)

 *「いろは食堂かつめし物語」(一角昌博)・「ひろかずのブログ」参照

 *写真:「ニューいろは」での宴会場風景

◇きのう(9/6)の散歩(17.313歩)

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加古川の味、かつめし(21) 昭和34年、「ニューいろは」オープン

2017-09-06 07:48:15 | 加古川の味、かつめし

 

     昭和34年、「ニューいろは」オープン

 一角昌博氏は、父久雄を引き継ぎました。

 昭和34年、大学を卒業すると同時に、従来の平屋建ての「いろは食堂」を地下1階、地上3階の総合ビル(1階:食堂、2階:喫茶、3階:和食)とし、名前も「ニューいろは」としてオープンさせました。

 そのころには、国鉄(現:JR)も記者から電車が走るようになり、交通は格段に便利になり、駅前の商店街も徐々に整備され、時代にあったビルが建つようになり徐々に活気を取り戻してきました。

 「かつめし」も当初の「牛かつめし」だけから「豚かつめし」もレパートリーにくわえました。

 「かつめし」は、だんだんと他の店でも提供されるようになってきました。

 「デミグラスソース」は、一子相伝で、70年後の今日も最初の味を守り続け、今日に伝えています。

 その後も、多くの方にご贔屓をいただいた「ニューいろは」は順調に業績を伸ばし、200人近い宴会場も増設し、屋上にビアガーデンも開設し、シーズンになると目の回るような忙しさでした。

      余話:電化公式試運転 明石~姫路間

 明石-姫路間の電化公式試転運は(昭和33年)2月27日関係市町村の歓喜に湧きかえるうちに行われました。

 この日早春の播州路をついて午前11時10分新装をこらした電車は小、中学生のブラスバンドに迎えられ、すべるように加古川駅に到着しました。

 まさに当地方交通史上画期的な一瞬でした。

 このように、国鉄電化の実現は市をあげて歓迎され、喜ばれましたが、しかし、商店街の一部には神戸や姫路方面に従来の客層が吸収されるのではないかという不安もみられました。(no3710)

 *「いろは食堂のかつめし物語」(一角昌博)参照

 *写真:「ニューいろは」オープン(昭和34年)

 ◇きのう(9/5)の散歩(11.303歩)

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加古川の味、かつめし(20) 誓文払い(せいもんばらい)

2017-09-05 07:12:56 | 加古川の味、かつめし

 加古川市に、かつて「誓文払い」という、商店がこぞって参加する年末の大バーゲンセールがありました。その時は、狂おしいほどの賑わいがありました。

 買い物客は「いろは食堂のかつめし」を食べることが楽しみの一つでした。

 そのため「誓文ばらい」の話をしておきましょう。

    誓文払い(せいもんばらい)

 「誓文払い」は、もともと京都に始まった行事らしく、広辞苑は「・・・一年中、商売上の駆け引きで嘘をついた罪を払い、神罰の赦免を請う行事。この日、呉服店は特に安値の売出しをする・・」と説明しています。

 もとの意味はともかく、姫路では12月1日から5日間、加古川ではその後日曜日を中心に5日間が「誓文払い」でした。

 地元商店だけでなく、遠くは大阪からも商人が大挙して押しかけるほどの大セールでした。

 寺家町・本町商店街は、写真のように満員電車なみの人混みでした。

 そのはずである。三木・小野・西脇など東播磨一円から人が加古川に集まったのです。

 姫路・明石は空襲で焼け野原になったのですが、加古川はほとんど無傷で戦後から7・8年の盛況は今からは想像もできません。

 誓文払いと一緒にサーカスが町にやってきました。

 『新・かこがわ事典』は「・・・(誓文払いで)こまったことは公衆便所がすくなく、路地はどこもかしこも“臭い臭い小便路地”になっていた・・・今ではとても想像すらできないことですが、ご婦人方も結構立小便をされていた・・」と、こんな話も取り上げています。(no3709)

 *『新・かこがわ事典(新・かこがわ事典編集委員会)』参照

 *写真:線払いの風景(「人形の店・陣屋」から、10メートルほど西の本町商店街の「誓文払い」時の風景。西の方向を撮っています)

 ◇きのう(9/4)の散歩(16.363歩)

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加古川の味、かつめし(19) 「いろは食堂のかつめし」を食べることが楽しみでした

2017-09-04 07:36:23 | 加古川の味、かつめし

       物資の不自由な時代

 戦後間もないころ、洋食はまだはじまったばかりで、実はカツレツに使うパン粉が手に入りにくく、近所のニシカワパンのご協力でパン粉を砕いて、パン粉をつくっていただいたこともありました。

 

  「いろは食堂のかつめし」を

        食べることが楽しみでした

 当時、近くの町で商店らしいのは加古川の町ぐらいでした。

 農家の方たちの一番の楽しみは盆と正月のお休みと、そして6月の田植えが終わった後の「さなぼり市」と、秋の収穫が終わった後の「せいもん払い」に加古川の町に出て買い物をして「いろは食堂のかつめし」か「かさよしのうどん」、そして寺家町の「まるまんのうどん」を食べるのが何よりの楽しみでした。

 せいもん払い・さなぼり市の時は、近在から山のような人が加古川の町に集まり黒山の人だかりで、商店街は押すな押すなの人だかりでした。

 今では想像すらできない人出でした。

 それをあてこんで、阪神方面の商人も進出して大いに賑わいがありました。

 日本毛織のグラウンド(現在のプラザテルあたりにあった大きなグラウンド)ではサーカス、相撲や様々な見世物とか、いろんな興行があってそれらも皆の楽しみでした。

 〈用語説明:さなぼり〉

 「さなぶり」ともいいます田植え終了後の祝いまたは休日。

 本来は、田の神が,田植えが終るのを見て帰る日と信じられ、この日に田の水口やあぜ,または床の間などに,苗を供えて田の神を祀る風習が日本各地にみられた。

 「せいもん払い」については次回に説明をしましょう。(no3708

 *「いろは食堂のかつめし物語」(一角昌博)参照

 *写真:さなぼり市(昭和41年撮影:このころになるとかつての賑わいが消え始めていました)

 ◇きのう(9/3)の散歩(13.809歩)

 

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