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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(179) 生石神社炎上

2015-04-09 07:32:12 |  ・高砂市阿弥陀町

   生石神社炎上

 三木合戦のおさらいです。

 三木の籠城戦は、1年10ヵ月つづきました。

 三木城へのほとんどの食糧補給のルートが止まってしまいました。

 秀吉は、三木城に降伏をせまりました。

 三木城から返事が来ました。

 「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面でした。

 天正8年(1580)年1月17日、別所氏一族が自害し、三木合戦は終わりました。

    生石神社の宮司は、神吉頼定の弟

           秀吉に反抗し、生石神社焼失

 この戦いで、三木城に味方した近隣の多くの寺院は、ほとんど焼かれました。

 生石神社もその一つです。

 宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟でした。

 神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠で、この時秀吉は竹田城で毛利の軍のこうさくをしていました。

 生石神社は秀吉に対して非協力的な態度を取っていました。

 神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出たが、宮司は当然のごとく断りました。

 秀吉は、大いに怒り、弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めました。

 神社の四方から火をかけました。

 おりからの強風に、神社はたちまちのうちに灰と化し、領地も取り上げられました。

 生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されましたが、昔の威容は失われました。

 以下は、余話です。

 焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いに西軍・石田三成の方の大谷吉継の陣鐘として使用されました。

 徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進しています。

 鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれています。(no2756)

 *写真上:生石神社の前殿と本殿

  〃 下:元生石神社の鐘(現:大垣市安楽寺)

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高砂市を歩く(178) 石工・仲右衛門

2015-04-08 08:37:48 |  ・高砂市阿弥陀町

   石工・仲右衛門

 『はりま(埴岡真弓著)』で、石工・仲右衛門を紹介しています。

 その一部をお借りします。

 「・・・現在、観涛処へは加茂神社(伊保町)から登りますが、かつてはもっぱら生石神社の写真の場所から観涛処へ登りました。(*危険ですから、必ず加茂神社横の道から登るようにしてください)

 その大型の石碑に、観涛処を製作したと思われる石工の名前が「生石村雲根室仲右衛門」と刻まれています。

 彼は、江戸時代末に活躍した石工の一人で、巨大な石材の細工を得意としたといいます。

 これ以外にも、天川橋(姫路市御着)が彼の作品として知られています。

 天川橋の架橋は文政11年(1828)です。

 仲右衛門は山から石を切り出す「山取」の技術に秀でていたといいます。

 6日(月)の午後、天川橋の写真を撮りに出かけました。

 「天川橋」というのですから、天川の中心地に架かる橋のようです。

 御着城の西に天川が流れており、そのあたりで、西国街道と交差しています。

 たぶん、そこが天川橋だろうと見当をつけ車を止めると、バッチリでした。

でも、仲右衛門の影がありません。

新しいコンクリートの特徴のない橋に変わっていました。ここでも歴史が一つ消えています。

   数多くの名工たち

 仲右衛門の他に名の知れた石工として、嶋村(高砂市米田町)の西邨(にしむら)一族がいます。

 生石神社拝殿前にある、宝暦8(1758)年の石灯籠もその作品の一つです。

 嶋村の石工の作品は、姫路にも散見されます。

 播磨国総社、射楯兵主神社にある宝暦12年の石灯籠も「石工嶋村平次郎」の作です。

 その他、近辺の神社等で、生石村の清兵衛、藤兵衛、塩市村の久七、米田村の捨吉の名を見ることができます。

 これら名前が伝わっている石工以外にも、生石神社周辺には無数の名工が存在したに違いありません。(no2755)

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真上:「観涛処」入り口の石碑、下:現在の天川橋

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高砂市を歩く(177) 神々のイサカイ

2015-04-07 08:52:33 |  ・高砂市阿弥陀町

     生石神社の伝承

 『峰相記(みねあいき)』という本があります。

 著書は「峰相山鶏足寺(けいそくじ)」の某僧となっていて名前はわかりませんが、鎌倉時代末期から南北朝のころまでの播磨のようすを知る貴重な本です。

 さまざまな、話が取り上げられていますが、その中に高御位・生石神社の神様の話が登場します。

 湊神社(姫路市的形)の宮司、神栄宣郷氏が『郷土志(15号)』で、鎌倉時代の民衆の信仰としてこの話を取り上げられておられます。

 本稿では、さらに平易な文にさせていただきました。

 ちょっと、ユーモラスは神様たちの物語です。

   神々のイサカイ

 石の宝殿(生石神社)の神様は、むかしから、「生石子(おおしこ)神」と呼ばれていました。

 峰相記に「陰陽二神としてあらわれたまう・・・」とあって、生石子神は女神で、高御位の神様は男神で、この二人の神様は夫婦でした。

 ところが、ここに日向大明神という、それは美しい女神が美しい侍女をたくさん伴って、加古の浜辺へご上陸になりました。

 高御位の神様は、日向大明神やお供の侍女たちの美しさにびっくりして、とうとうご自分の所へ招待されました。

 このありさまを知った生石子神は、カンカンになり承知なさるはずがありません。

 “怒り”がおさまりません。

 美しい日向大明神を、川向うの山(日岡山)へ追いやると同時に、侍女たちを別にして泊神社(現:加古川町木村)へ押し込んでしましました。

  この高御位の神と生石子の物語は、どこか俗っぽい話で、およそ神様らしくない話です。

  こんな話からも神と共に笑い、共に泣いたむかしの人々の気持ち、考え方が伝わってきそうです。(no2754)

 *『郷土志(15号)』(神栄宣郷)参照

 (注)

 昔、日岡神社(加古川市)は、「日向神社」と呼ばれていました。現在の「日岡神社」に名前を変えたのは明治3年(1870)のことです。

 

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高砂市を歩く(176) 竜山1号墳

2015-04-06 08:47:41 |  ・高砂市阿弥陀町

 4日(土)、竜山1号墳の撮影に出かけました。

 昼すぎでした。雨は上がり、桜が覆いかぶさるような「竜山1号墳」でした。

  竜山1号墳

   被葬者は、石の宝殿の製作所事情を知っている?

 高砂市教育委員会の調査によれば、山腹斜面にずり落ちるばかりに置かれていた石棺身部分のすぐ上部に小形の石室が確認されました。

 石棺の大きさは、蓋の大きさで、幅0.6メートル、長さ1.18メートル、蓋と身の高さをあわせると0.62メートルです。

 この古墳は生石神社の境内でもあり、石宝殿と無縁とは思えない位置にあります。

 この古墳の時期について、棺形から7世紀中頃までとされていますが、長さが1メートル少々の小形棺で、場合によっては火葬骨が納められていても不思議のない大きさです。

 火葬でなくとも骨化した遺体でないと納まりません。

 この種の棺で、子供を納めた事例は知られていません。大人を納めた石棺です。

 場合によると8世紀に入っている可能性もある古墳とも言われています。

 とすると、すでに奈良においては都の作られていた時代です。

 この棺に納められ、この地にわざわざ葬られた人物は、とのような生涯を送ったのでしょう。

 小さくとも竜山の伝統的な石棺に納められ、竜山の地に葬られている以上、この人物は、この地方では中心的な人物の一族であろうと想像されます。

 この古墳が作られた時には、すでに「石宝殿」が放棄されて幾年か経っていますが、この人物は石宝殿製作時を記憶している人かもしれません。

 この人物の親か祖父があの石宝殿製作工人の中心的人物であった可能性は強と想像できるのです。

楽しい話です。(no2753)

 *『高砂史(第一巻通史編)』参照

 *写真:竜山一号墳の石棺と蓋

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高砂市を歩く(175) 算額(生石神社)

2015-04-05 09:17:13 |  ・高砂市阿弥陀町

 生石神社には何回も来ています。

 もちろん、絵馬堂の算額のことも知っていました。

 昔、近所の人が、「数学の問題が解けたのは、神の加護のお陰であると算額にして神社に奉納したのだろう」とぐらいに想像していました。

 あらためて調べてみました。

    算額

 この算額は、明治9年(1876)に奉納された算額で、高砂市の指定文化財となっています。

 絵馬堂の算額は、その複製です。

 算額とは、主に江戸時代に日本で発達した数学和算の愛好家が社寺に奉納した絵馬のことです。

 長く納屋に埋もれていたのですが、昭和52年文献をたよりに調査に来られた日本数学学会員の手で発見され、日の目を見ることになりました。

 絵馬に描かれるのは、今でいう幾何学の図形問題とその回答です。

 生石神社の算額(写真)に赤・白・黒の三色で描かれた図形は、モダンなデザインのようで、その色彩と形の美しさに思わず見入ってしまいます。

 この算額は、備中井原の佐藤善一郎貞次という高名な和算家が、播磨等の弟子5人に一問ずつ解かせたものです。

 例えば、「一辺が15寸の正六角形。交差する対角線が作る正三角形中に内接円を描く。その円心直径は・・・」とあります。

 こんな問題を見る時、数学に弱い私などは目がクラクラしてしまいます。

 全国に各地の残る算額の中でも水準の高さがきわだつそうです。

 加古郡国安に小山淳次というが、生石神社への算額奉納の仲介者となっています。

 算額は他にも、国安天満宮や尾上神社に一門の算額が掲げられています。(no2752)

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:算額(生石神社)

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高砂市を歩く(174) 家紋石

2015-04-04 07:27:57 |  ・高砂市阿弥陀町

   家紋石

  生石神社にお参りする時、山麓の急な石段からお上りください。

 すると、山ろくの石の鳥居の両脇に矢羽模様の家紋を刻んだ大きな石塊を発見します。

 「家紋石(紋所石とも)」と呼ばれているものです。

 一方は「違い矢」、もう一方は「三本矢」です。

 この家紋石は、初めからここに置かれていたのではなく、元は観涛処(かんとうしょ)の北側の尾根上にありました。

 採石作業で崩れ落ちたため、昭和50年、ここに移されました。

 製作年代も制作者もはっきりしていません。何の目的で作られたのか定説はないそうです。

 ただ興味深いのは、姫路藩の竜山石専売制とかかわるものではないかと一いう説です。

 姫路藩の専売制といえば木綿が有名ですが、竜山石についても採掘に際して村々に石を上納させ、石切の許可を与える制度を敷いていました。

 寛延3年(1750)年と嘉永4(1851)年の石切鑑札が現存しています。

 「専売制になった象徴として作られたのでは」という説は説得力がありそうです。

     竜山石は藩の専売品

           勝手に砕石するべからず

 ここからは、全くの推量です。

 「ここの石は、姫路藩の許可をえている。勝手にとってはいけない。・・」と主張しているように思えるのです。

 姫路藩の専売制度というと「河合寸翁(姫路藩の家老)」が、思い浮かびます。

 河合家の家紋は鷹の羽です。

 つまり、「ここは姫路藩のご家老の許可を得ての砕石場である。勝手に砕石してはならない・・・」と主張しているようにも思えるのです。

 みなさんは、どう想像されますか。(no2751)

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:家紋石(参道正面に向かって左の三本矢)

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高砂市を歩く(172) 阿弥陀村誕生

2015-04-02 08:38:29 |  ・高砂市阿弥陀町

   阿弥陀村誕生(明治22年4月1日)

 この地区は、古くは「大国郷」に属していましたが、荘園制の発達とともに東阿弥陀、西阿弥陀、北池、南池、北山新、長尾新の地区は「雁南荘」に、魚橋、生石の地区は「平津荘」に属しました。

 地徳新村は阿弥陀村の住民が後に開拓して移住した村です。

 阿弥陀村の地名のはじまりは、もと「北原の宿」といわれていたが、伝承では文永十年(1273)六月、時光上人が日笠の海中より阿弥陀の尊像を得たので、この地に寺(時光寺)を建てて安置したことから「阿弥陀の宿」といわれるようになったといわれています。

 明治22年の村制施行にあたり、この地区の中心地である阿弥陀の呼称をとって村名としました。

 もう少し付け加えておきます。

 江戸時代、この地区には東阿弥陀村・西阿弥陀村・魚橋村・生石村(おうしこむら)・南池村・北池村・北池新村・長尾新村・地徳村の9ヵ村の村々がありました。

 その内、東阿弥陀村と西阿弥陀村は、明治9年に合併し阿弥陀村となりました。

 そして、これら8ヵ村は、明治22年4月1日に合併して阿弥陀村となりました。

    昭和31年9月30日、阿弥陀村高砂市と合併

  その後、昭和29年(1954)7月1日、高砂町・荒井町・曽根町・伊保町が合併し、高砂市が誕生し、2年後の昭和31年(1956)9月30日、米田町(船頭・平津を除く)、阿弥陀村は高砂市に合併し現在にいたっています。

 なお、北浜村が、高砂市に合併したのは昭和32年(1957)3月10日のことでした。(no2749)

 *『兵庫県市町村合併史』(兵庫県)参照

 *地図:阿弥陀村

 

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高砂市を歩く(171) 石の宝殿

2015-04-01 08:09:42 |  ・高砂市阿弥陀町

 今日から4月。あたらしい年度が始まりました。

 曽根について紹介したいことが残っていますが、しばらく地域をかえて、石の宝殿から阿弥陀町を散策します。

 1982年『兵庫歴史散歩(兵庫歴史教育者協議会著)』(草土文化)が出版されました。

 その内、高砂市・加西市の記述を担当しました。

 そこで、「石の宝殿」をスケッチ風に紹介しましたので、再掲します。

 石の宝殿は、あまりにも有名で、『日本史の謎・石の宝殿(間壁忠彦・間壁葭子共著)』(六甲出版)、その他多くのすぐれた書籍が出版されています。詳しくはそちらをご覧ください。

  石の宝殿(『兵庫県の歴史散歩』・草土文化)より

 JR宝殿駅で降りて、南西の方向へ徒歩で30分、やがて岩肌を見せている山に出る。

 これらの山の山頂近くに生石神社(おうしこじんじゃ)がある。

 この神社の神体は、高さ5.7㍍、幅5㍍、奥行きは突起の部分も入れて7㍍もる大きな石の塊(写真)である。

 この岩塊は、「石の宝殿」と呼ばれており、宮城県塩竈神社(しおがまじんじゃ)の塩竈、宮崎県高千穂蜂の天の逆鉾(あめのさかほ)と並んで日本三奇の一つに数えられ、古代から、さまざまに想像されてきた。

 『播磨風土記』には「・・・作り石あり、形屋のごとし、長さ二丈、広さ一丈五尺、たかさもかくのごとし、名を大石と言う。

 伝えていえらく、聖徳の王の御世、弓削(ゆげ)の大連(おおむらじ)の造れる岩なり・・・」としている。

 『風土記』のつくられた8世紀には、すでにこの大石はつくられていたことになる。

 よほど人びとの興味をひいたらしく、広重は浮世絵に、シーボルトは銅版画に、司馬江漢はスケッチにこの大石を残している。

 この大石は何か?

 決定的な答はまだなく、神殿説・古墳説・石棺説などさまざまである。

 松本清張氏は、小説『火の路』でこの大石をとりあげ、これはゾロアスター教の拝火壇であるとの説を主張している。

 果たしてどんなものであろうか。(no2748

 *『兵庫歴史散歩』(兵庫歴史教育者協議会)参照

 *写真:石の宝殿(『日本史の謎・石宝殿』より)

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高砂市を歩く(96) 時光寺②・官兵衛と秀吉

2014-12-17 08:58:18 |  ・高砂市阿弥陀町

   阿弥陀の宿(しゅく)

 天正5年(1577)10月19日で、季節は秋に向かっていた。秀吉は播州に向かった。

 秀吉の家臣が中心で、ざっと4000人にすぎなかった。

 信長軍としても兵力に余裕なかったのである。このことが、秀吉や官兵衛の播州工作を困難にした大きな原因となった。

 当時の寺光寺(高砂市阿弥陀町)のあたりの風景を『播磨灘物語』からお借りしたい。

    秀吉、阿弥陀(高砂市阿弥陀町)に到着

 官兵衛がもっとも待ちかねているであろう、と秀吉は思った。織田家としては兵力を他に使うことが多く、播州入りはまだ早かったのだが、官兵衛がせっつくために、とりあえず秀吉が手兵をひきいて乗りこんだのである。

 官兵衛は、秀吉を出迎えるべく、阿弥陀ケ宿(高砂市阿弥陀町)という在所の道路わきまで出ていた。

 阿弥陀ケ宿とは、(姫路から)8キロばかり東へ行ったところにある。宿場である。

 街道のまわりは、5分も佇んでいれば退屈するほどの平坦な野で、ところどころに岩肌の丘陵がある。阿弥陀ケ宿は宿場といっても粗末な伏屋(宿屋)が十軒ばかりある程度で、路傍に馬をつなぐ杭、馬の足を洗う溝が流れているのが、かろうじて宿場の設備といっていい。

 宿場の南側に、時光寺(じこうじ)という小さい寺がある。この境内に阿弥陀堂がある。そのために、この地名が興ったという。

 官兵衛は、供を50人ばかり連れて、この寺で秀吉の軍列の来るのを待っていた。

 「筑前どのの御人数に馳走せよ」と、すでに宿場の長者に心くばりを命じてある。旅塵をおとさせるために、軒下々々に大きな水桶を出させ、また空腹しのぎのために握りめしも用意させた。

 やがて、「筑前どのの御人数、見えたり」と呼ばわり声があがり、官兵衛はすぐさま騎走して宿場の東のはずれまで出た。秀吉は、中軍にある。・・・

     時光寺(浄土宗)

 以上が『播磨灘物語』(司馬遼太郎)からの引用である。阿弥陀町の時光寺へ出かけた。

 小説の「小さい寺」というイメージがあったが、あたりは平地で、そこだけは小高く石がけの上に聳えている寺であった。城跡のような地形である。

 境内は檀家の方であろうか、落ち葉を集めて燃やしておられた。煙が薄くただよい、本堂は小説のような雰囲気のなかにあった。

 「ここで秀吉と官兵衛があった」ことを想像している。どんな、話をしたのだろうか・・・

 *写真:時光寺(浄土宗)の本堂

 *『播磨灘物語(司馬遼太郎)』参照

 

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高砂市を歩く(95) 時光寺①・朱印領の寺

2014-12-16 08:49:46 |  ・高砂市阿弥陀町

 話題が十輪寺でとまっている。少し話題を変え、阿弥陀町の時光寺の話をしたい。

   時光寺・朱印領を持つ寺

 西阿弥陀村の時光寺は、高砂町の十輪寺と共に浄土宗西山派の寺院である。

 寺領の点では十輪寺より多い20石を所持していた。

 また、慶安元(1648)8月、徳川家光から朱印状を拝領して以降、引き続き寺領の朱印状を拝領する寺院としての寺格は十輪寺より上にあった。

 史実はとも角、建長元年(1249)に創建され、元弘建武の騒乱で焼失した際にも足利尊氏によって再建されたという伝承を持つように、もともと源氏と縁が深い寺院である。

 一方、天文4年(1535)には後奈良天皇から住職の更衣着用が勅許されている。

 こうした由緒と伝統が、将軍家からの朱印状拝領に繋がったのではないかと考えられる。

 しかし、時光寺は、西山派教団内の寺格面では十輪寺の下位にあった。

 寺格の昇進には由緒や伝統に加え、本山への多額の献金が必要であり、こうした点で時光寺は劣っていたためではないかと考えられている。

 十輪寺には、高砂町の富裕な町衆(壇家)の経済力があった。

   曽根天満宮との関係

 また、時光寺を特徴づけるものに曽根天満社との関係がある。

 時光寺は、縁起では曽根天満社の西に堂宇を建立したものを前身とするが、近世にも例年9月1日に初穂を持参し曽根天満社に参詣している。

 当寺は、西阿弥陀村周辺地域に圧倒的な伝統と権威を誇った寺院であり、村の名称も、寺光寺の本尊「阿弥陀如来」から来ている。

     地蔵院の独立

 が、未だ寺檀関係が流動的であった近世前期(寛文期)には、寛文六年(1666)8月26日、西阿弥陀村の三 人・東阿弥陀村の二人・中筋村の三人は、連名で京都の浄土宗鎮西派本山知恩院に対して、西阿弥陀村内に存在した地蔵堂という名の小庵に寺号を付けて欲しいという願書を差し出した。

 彼らは、時光寺の旦那(檀家)で、あったが、詳細は不明なものの時光寺との問に何らかの寺檀争論が生じ、結果、西山派を抜け鎮西派への転派を求めた。

 本山知恩院はそれを許諾した。

 *『高砂市史(第二巻・通史編近世)』参照

 *写真:時光寺(高砂市阿弥陀町)



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高砂市を歩く(83)  佐々木すぐる

2014-12-06 07:53:54 |  ・高砂市阿弥陀町

    佐々木すぐる

 神戸新聞朝刊(2014・5・14)は、「童謡月の沙漠」などを作曲した佐々木すぐるの功績を顕彰するため、生誕地の高砂市阿弥陀町魚橋の佐々木すぐるの生家の前の道を「青い鳥・童謡どおり」に決まったことを報じている。

 「佐々木すぐる」について紹介しておきたい。

    (童謡)お山の杉の子

 童謡「月の砂漠」の作曲で知られる、佐々木すぐるは、明治25年、高砂市阿弥陀町魚橋で生まれた。

 彼は、東京音楽学校(現:東京芸大)を卒業すると、子供の歌の作曲と青い鳥合唱団を主宰した。

 しかし、大正デモクラシーの運動と軌を一にした童謡運動もやがて、軍国主義の前に、そのエネルギィーを失い、すぐるは、童謡運動からはなれ、戦争に協力させられた。

 敗戦も近い昭和20年、彼は「お山の杉の子」を作曲した。

 この歌は、戦後歌詞の一部が改作されて今に残るが、元の6番は次のようであった。

    今に立派な 兵隊さん   忠義孝行 ひとすじに   

    お日さま出る国 神の国 

    この日本を 護りましょう 護りましょう

 昭和20年、日本はポツダム宣言を受諾し終戦。新しい憲法が作られ、日本は戦争の放棄を世界に高らかに宣言した。

 先生たちは、戦前戦争に協力したことを反省し「教え子を再び戦場に送らない」ことを誓い、日本教職員組合を結成させた。

 佐々木すぐるは、この時「日本教職員の歌」の作曲を引き受けた。

 *写真:童謡「月の砂漠」の記念碑(高砂市阿弥陀町魚橋正蓮寺の山門横)と「青い鳥・童謡どおり」に決まった旧西国街道(神戸新聞より)

 

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高砂市を歩く(82) Tenjiku Tokube in English

2014-12-05 09:47:46 |  ・高砂市阿弥陀町

     Tenjiku Tokube

    The Figure of Tokube which was Formed in Sakoku (National Isolation)

 

   Tokube’s first voyage to a foreign country was in the autumn of 1626. The ship carried 397 people amd departed from Nagasaki.The destination was southern Siam (modern day Thailand). The voyage at this time was 140 days, and he came back to Nagasaki after staying about one year. Tokube went to Siam again in 1630 and he met Nagamasa Yamada(1) (a leader of a Japanese town in Siam) at this time.

   Tokube was an avid reader since childhood and he was excellent at writing. His father was a salt merchant and he often went to Osaka together with his father. At the age of 15, he was hired as a secretary of a Shuinsen ship(2). It was 10 years before Sakoku (the National Seclusion).

 

   In those days, there were only nine Shuinsen ships(2). So very few people had any knowledge about the outside world during this time. The destinations of Shuinsen ship were Taiwan, Macau, Luzon and Siam. These southern countries were called Tenjiku at that time in Japan.

   Tokube compiled interesting stories which heard into two books. These books were Tenjiku Mononagari (the stories about South-East Asians) and Tenjiku Tokai Monogatari (the stories about sailing to South-East Asia). The stories in these books startled people. In these books, there are following stories:

 

   `The Southern Cross was impressively beautiful. I met Nagamasa Yamada in Siam. Three rice harvests in a year are possible. The palm water is delicious` and so on.

   These were the stories which nobody believed at that time. However, Tokube was fairly troubled by the heat in Siam and wrote it as follows. `It is too hot in Siam. If a man falls down from a car in Siam, the man dies in the flames and becomes a mummy.`

 

   Then, taking advantages of his overseas experience, Tokube started a store selling foreign goods in Osaka. At an advanced age, he became a priest and called himself Soshin. It was said that he died at the age of 83. But, the exact years of Tokube`s birth and death remain unknown. It is said that he was born in 1610 and died around 1700.

   Tokube’s grave is located within the precincts of Zenryu-ji temple in Takasago City, and there is an inscription dating to August 7th 1695 on his grave stone. Moreover, a piece of Pattra which was brought home from Tenjiku is left in Jurin-ji temple. Pattra is a sutra printed on cloth made from Basho (a kind of banana plant). Only two pieces of Pattra are left in Japan.

   Tokube became famous after his death. In the Edo period, professional storytellers talked amusingly about his experiences. His story was taken up by Kabuki(3) in the middle of the Edo period. Tenjiku Ikoku Monogatari (the story based on his experience in Tenjiku) in Kabuki became a great success and his name came to be known all over Japan.

  Notes

  (1) ? ~ 1630. He flourished at the beginning of the Edo period as a leader of a Japanese town in Siam (Thailand). He contributed to trade with Japan.

  (2)  The ship which has an authorization (Shuin-jo)for trade is called a Shuinsen ship. This trade was begun by Hideyoshi Toyotomi, but this trade stopped with the adoption of Sakoku (the national isolation).

  (3)  A style of drama which originated in the Edo period. At the beginning of the Edo period, Okuni in Izumo (Shimane Pref.) began.

  *picture:The Tomb of Tenjiku Tokube

 

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