ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:一里塚(一里松)

2009-05-21 11:16:48 |  ・加古川市上荘・平荘町

1a6cfc10 一里塚と言えば、次の一休さんの作だといわれる狂歌が浮かぶ。

  門松は冥土の旅の 一里塚

   めでたくもあり めでたくもなし

 もちろん一休さんが生きた時代(1392~1481)にまだ、一里塚は造られていない。

 したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品である。

 一里塚は普通、道の両側に周囲が5間(9.24㍍)、高さ一丈(約3㍍)の土を盛りあげ造られている。

 そして、目印に榎や松が植えられた。

 兵庫県にあった一里塚は、ほとんど松が植えられていたという。

 やがて、木は茂り、旅人の疲れを癒す場所を提供するようにもなった。

 しかし、交通路の少ない一里塚の中には早い時期に崩れて、江戸時代の中ごろには分からなくなってしまったところも多かったようである。

 播磨地方では西国街道などのほか、姫路城下を基点とするその他の街道にも一里塚が造られた。

 これは、幕府の指令を前提にして姫路藩主・池田輝政が領国支配の一巻として交通整備したものと推定される。

 慶長播磨絵図には、山角の集落のすぐ西に一里塚(一里松)の記載がある。

 この道は、姫路から大坂・京都に通じる湯山街道である。

 明治新政府は、明治9年に一里塚の廃止を許可した。

 そのため、その頃まで全国に残っていた一里塚もほとんど姿を消した。

*『加古川市史(第二巻)』参照

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上荘町・平荘町探訪:芝村(現:養老)から小畑西へ移住

2009-05-20 08:20:23 |  ・加古川市上荘・平荘町

5f21f890 きょうも、2006年8月12日のブログ「小畑村」の復習をしておきたい。

 万治元年(1658)、姫路藩は、藩をあげての升田堤(升田から船頭にかけての堤)の大工事を行った。

 工事がおおかた完成した時だった。この地を暴風雨が襲った。

 雨は数日降り続き、濁流は苦心の堤防を流してしまった。

 この工事は、藩の威信をかけた工事であり、厳しい命令が出た。すこしの遅れはあったものの堤は完成した。

 升田堤より上流の、上荘・平荘地区も同じであった。洪水はしばしば村々を直撃した。

 雁南新田(中島新田)のあった場所は、今の養老(平荘町養老)の一部である。

 (養老・・・明治10年、芝村と中村が合併して養老が誕生)

Taira_268  雁南新田にあった村は、洪水の直撃にあった。

 村を失った一部の人々は、小畑西へ移住し新たな出発をした。

 そこは未開拓の荒地であった。最初に開拓した土地は、現在の称専寺(写真)の北あたりだったと思われる。

 新天地には水が無かった。

 苦難の歴史は続いた。

 それから14年後のことである。またも、この地(雁南新田)を洪水が襲い、村は再び壊滅した。

 この時、雁南新田の6家族は蔭山(新田)に移住した。

 蔭山新田については、5月2日のブログ「蔭山新田誕生」をお読みください。

*図は「KAKOGAWA‐加古川とその周辺の歴史」(伊賀なほゑ著)参照

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上荘町・平荘町探訪:一本松(加古川市平荘町)

2009-05-19 09:06:25 |  ・加古川市上荘・平荘町

2033b2fa 2006年8月1日のブルグ「一本松」の復習をしたい。

 写真(右)の上の方に比較的大きな三つの池がある。

 そして、写真下に道路で分断されたような池と集落が広がる。

 その間の山すその集落が「一本松」(平荘町一本松)である。

 (下の地図と合わせてご覧ください)

 姫路市の「一本松村」の話からはじめたい。

 姫路市の国道2号線、市川橋東詰周辺に「一本松」(姫路市花田町)がある。

 この一本松について『姫路の町名』(神戸新聞総合出版センター)は、次のように説明している。

 この村(一本松村)は、元西南のところにあり、大きな一本の老木があったので一本松と呼ばれるようになっていたが、明暦年間(1655~58)に市川の本流が改修された時、川の中に没した。

64486fe0  村は原野だった現在の所に移って「一本松原田村」となり、のちに「一本松」と呼ばれるようになった。

 村人の一部は、印南郡平荘村(現:加古川市平荘町)に移り一本松新村を作ったといわれる。・・・・

 平荘町一本松は、姫路の一本松村の人が移住してできた村である。

 後に、牛谷(高砂市)から移住もあり、元禄10年の記録では、村高170石の大きな新田村となった。

 『印南郡史』には「・・・一本松村より移住せしは岸本家一統にして、玉岡家一統はその後、牛谷より来住せしものなり・・・」と書いている。

 たしかに一本松には、岸本姓・玉岡姓が多い。

 一本松は、上荘町の村々とよく似た斜面上にある。

 集落の南に西川が流れるが、水の得にくい土地柄である。

 地図を見ながら推測だけで書いている。

 地図・写真で確認して欲しいが、村の北に大きな三つの池(北から奥ノ池・土ノ池・中ノ池)がある。

 一本松村にとって、これらの池は悲願であったに違いない。

 後日、一本村人の水をめぐる歴史を調べてみたい。

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上荘町・平荘町探訪:寺谷新村(現:東磐)

2009-05-18 13:43:54 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_261_2 連休に続き、私用でブログをしばらく休んでしまいました。復活させます。

 平荘町磐の続きです。

 『印南郡史』から引用したい。(書き直しています)

 ・・・・磐村は、もと寺谷・蔭山の二村であったが、明治11年10月合併して一村となった。

 村の名・磐(いわお)は、村の北一帯につながる紅岩(べにいわ・写真)にちなみ磐村とした。

 (中略)寺谷村(現:東磐)の開発について、岸本家の過去帖には次のようにある。

 ・・・・岸本市右衛門源與は天正13年(1585)3月25日生まれで、・・・・慶長11年(1606)、見土呂村に来て、同14年から16年の間、寺谷(西磐)の地の水の状況を調査し、同17年(1612)3月のはじめ28歳で当村を開発した。

 なお、『印南郡史』には、「寺谷村と名づけたのは、この地に報恩寺の一院があった。

 地名に“寺所口”を言うところが残っているが村の名は、これによるものか?

 岸本市右衛門は、寛永9年正月の22日49才で没した」と書いている。

 寺谷新村は、「寺」に捉われた説話で、地名のテラは「平らな土地」と言う意味が多い。

 田畑の可能な平らな谷間の村という意味であろう。

*『古地名新解』(石見完次著)・『印南郡歴(前編)』参照

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上荘町:平荘町探訪:蔭山新田村(現:西磐)と池

2009-05-07 09:10:26 |  ・加古川市上荘・平荘町

4756893d 右の史料は、寛保二年(1742)の「蔭山新村明細帳」の最初の部分である。村の成り立ちを説明している。

 前回説明したように、蔭山新田村(現:西磐)は、万治元年(1652)、現在の養老(上荘町養老)前あたりにあった雁南新田から6軒が移住し開拓した新田村である。

 6軒とすると、一軒当たり5人としても、およそ30人の小さな村の出発であった。

 寛保二年の明細帳には、次のような数字がある。

  家数 34軒

  人数 193人(男101人、女92人)

 江戸時代は、人口の増減が少ない時代であるが、蔭山新田村は、万治元年(1652)の新田開拓後、多数の人口の流入があった。

 ◇池から村を考える◇

 明細帳から蔭山新田の池をひろってみた。

   前池・上池・東池・廻り立池・さき池・岩倉池

 説明に「享保七年(1722)御願申上新池被仰付候」(享保七年、お願いして、許可をもらって新しい池を造った)とあり、さらに「いも池、横大路池を享保元年(1716)に築いた」と続ける。

 その外にも中山新村と共有の蔭山池についても記している。

 ここからは、想像で書いてみたい。

 寛保二年(1742)蔭山新田村の人口は、開拓当時より約6.5倍に増加している。

 開拓後、すぐ十分な生産があったわけではない。苦しい生活がつづいた。

 当然、入植前から水の確保については随分検討されたことだろうが、十分でなかった。

 蔭山新田村は、傾斜地にある。水の確保が難しい。

 明細帳によれば、享保年間に多くの池が造られている。

 おそらく、これらの池が造られたことにより、水は安定し、蔭山新田村の生産は安定したのではないか。

 享保以後のことである。人口も急増した。

 村人は、先人の努力を感謝し、宝暦八年(1758)「開拓記念碑」をつくった。

 想像である。

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上荘町・平荘町探訪:蔭山新田(現:西磐・にしいわお)誕生

2009-05-02 09:03:25 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_259

 昔、加古川は、もっと東の方を流れていたようで、今の薬栗の辺りから升田(現西神吉町升田」にかけて大きな村があった。

 それが、鎌倉時代の嘉禄元年(1225)年の大洪水で流されてしまい荒地になっていた。

 この地は、その後も開墾しては流され、また開墾をするという歴史を繰り返した。

 『村翁夜話』に「・・・山角村前は往古の大川筋なり、今字に雁南と言う所ありて九十石の高あり・・・」とある。

 山角・養老(もと芝村)前あたりを雁南新田といったらしい。

 万治元年(1652)、この地を大洪水が襲った。村は流された。

 村人は困り果て、翌年6軒が移住を決めた。そして、蔭山(現:西磐)の地に移住し蔭山新田を開いた。

 その後、収穫も安定した村になったのであろう。

 100年後、村人は、蔭山新田(現:西磐)の歴史を後世に伝えるため、「開拓紀念碑」(写真)をつくった。

 文面は、次のようである。(一部元文を書き改める)

 「印南郡蔭山新村は、多田吉左衛門・高橋新兵衛・井上与右衛門・同市兵衛・同惣兵衛・同八兵衛の六人が開発した。

 姫路藩主・忠次様のご命を受け、新しい村をつくることができた。

 (蔭山新田は)万治元年に雁南新田(古くは中島新田)より移ってきた。

 今に至る百年、藩に感謝すると共に祖先の功績をあらわすため、この碑をつくる」

 この記念碑は、現在西磐の墓地の入り口にある。

 元文は、『印南郡史』に記録されているのでご覧願いたい。

*このブログもゴールデンウィークとしたい。再開は7日(木)の予定。

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上荘町・平荘町探訪:磐(いわお)と紅山(べにやま)

2009-05-01 10:20:23 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_249 一度登ってみたい山があった。紅山(べにやま)である。

 パンフレットでは、小野市の観光スポットになっているが、184㍍の山頂は加古川市と小野市の境界である。

 登山口が小野市側にあるので、加古川市としては観光地になりにくかったのであろう。

 4月29日の午後、山頂からの南側(加古川市側)の風景(写真)を撮りに出かけた。

 「30分ばかりで降りてこよう」と考えたのが間違いだった。結構きつい。

 何回も休憩をとった。

 その分、山頂での気分は爽快だった。

 南側に降りるとスリル満点であるが、年を考えて来たコースを引きかえした。

  ◇加古川市平荘町磐(いわお)◇

 紅山の南側の山麓に磐(いわお)の集落がある。

 写真では、山陽自動車道の南に谷があるが、その両側の小さな山塊に隠れている。

 集落は見えない。東(左)側の山塊の向こうが東磐(寺谷)であり、西に西磐(蔭山)がある。

 2006年7月30日のブログで、「磐」について復習しておきたい。

 「・・・明治11年12月、寺谷新村と蔭山新田が合併して磐村が誕生した。

 蔭山新村(現:西磐)は、もと里(平荘町里)にあったが万治元年(1658)年の洪水で流出したため、この地に移住し開拓した。

 寺谷新村(現:東磐)は、慶長17年(1612)、岸本市右衛門らが開拓に当たった新田と記録にはある。

 これら二村が、明治12年に合併し、村名を山肌が赤い紅山にちなんで磐村(いわおむら)とした。・・・・」

 単純な村名であるが、下から眺める紅山はどうどうとしている。村人の心意気が伝わってくるようである。

 紅山に登って、その思いが強くなった。磐は、紅山が壁になり北風を防いでいる。

 水は岩肌を流れ、あるいは地下水となり村に集まった。

 最近、東磐からミネラルをいっぱい含んだ天然水が湧き出す場所がみつかっている。

 *山頂で、明石市から来られたご夫婦にであい、スシをご馳走になった。美味しかった。

ありがとうございました。

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上荘町・平荘町探訪:畑平左衛門(応親)と亀之井用水

2009-04-30 09:58:37 |  ・加古川市上荘・平荘町

E88dd361 右の図の美濃川から国包村に流れるのは「亀之井用水」である。

 2007年4月6日のブログ「亀の井用水」の復習しておきたい。

 「・・・国包は、5日も日照が続くと、ツルベで朝・夕灌漑をしなければならず、他の村からの嫁入も嫌われたという。

 そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門(応親)が、美濃川(みのがわ)が加古川に注ぎ込む手前から取水する用水をつくった。

 この用水は、国包村・船町村、それに宗佐村の畑地を潤し、水田化するための用水だった・・・・」(2007年4月6日のブログより)

 ◇国包村の石高◇

  正保  3年(1646)    310石2斗4升5合

  元禄15年(1702)    310石4斗7升1合

  天保  5年(1834)        535石5斗7升8合

 天保5年の国包村の生産高は急増している。これは、亀の井用水の開削に伴うものである。

007  亀之井用水の開削は、国包村の畑平左衛門(応親)が、願主となった。

 開削には、工事費の捻出・用水路の確保などの問題が山積していた。

 美濃川から水を引くとなると他藩の川から水を引くことになる。

 美濃川は、明石藩に属している。

 姫路藩主としても他藩から水を引くことを命令・許可することはできない。

 平左衛門は、粘り強く関係の村々と話し合いをした。

 厳しい条件も課されたが開削にこぎつけた。

 開削は思いのほか難工事となった。それに伴い工事費も増え、開始から8年目の文政7年(1824)に完成をみた。

 さいわい、この普請は姫路藩の御入用普請(藩の工事)としておこなわれた。

 平左衛門(応親)は、亀之井用水堰の完成後も明石藩北部の灌漑にも携わった。

 資金のめどもついた頃であった。病(中風)に倒れ、15年の闘病の末、嘉永2年(1849)没した。

 嘉永7年(1854)、国包・船町・宗佐村の百姓は、平左衛門(応親)の功績をたたえる記念碑(写真)を建てた。

 この記念碑は、現在弁天さんの横に移されている。

*『加古川市史に読む・わがふるさと国包』(畑偕夫著)参照

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上荘町・平荘町探訪:小野(上荘町小野)薬師堂の石棺

2009-04-29 07:28:16 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_211 きょうも、小野(上荘町小野)の薬師堂に来ている。

 きのう紹介した大西吉兵衛知雄の顕彰碑のすぐ東に、五輪塔の残欠が集められている。

 その中に、この石棺(写真上)はある。

 一見して、「これ石棺の蓋?」疑ってしまう。それほど他の石棺と形が違っている。

 小さい割りに、背が高い。

 加古川市では、この形式の石棺はこの一例だけである。

 説明には「・・・この家型石棺の蓋の形式は、一般的な石棺と多少ことなり、棟の部分がつくられており、数少ない貴重な資料です・・・古墳時代後期の石棺・・・」(加古川市教育委員会)とある。

 おそらく、この近辺の古墳のものであろうが、詳しいことは分からない。

 明治時代には、既にここにあったらしい。

Taira_230  この外に、薬師堂の境内には、いずれも後期古墳の石棺材が数基見られる。

 境内に入って、石棺の説明板の前に、組み合わせ式石棺の蓋石(写真下)が地中からニョキッとその一部を見せている。

 その左に底石が、そして五輪塔の残欠の中に底石がある。

 先日、この薬師堂を訪ねたのは、暖かい日の午後だった。

 おばあさんが、草を引いておられた。

 お孫さんであろう、可愛い女の子が、突然のおっさん(私)の出現に驚いたのであろう、向こうへ走っていった。

 そして、説明板の前の石棺にちょこんと腰をのせて、じっとこちらのようすをうかがっている。

 赤い服が印象的だった・・・・

*『郷土の石彫』(神戸新聞)参照

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上荘町・平荘町探訪:長池(上荘町小野)の話②

2009-04-28 08:23:30 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_219 両荘中学校の東方500㍍地点に小野(上荘町小野)の薬師堂がある。

 薬師堂のすぐ東側にある石塔(写真上)に、「本法壽覺居士」と戒名がある。

 この戒名は、塔池(とうのいけ)にある石塔(写真下)にある戒名と同じである。

 塔池の石碑は、この池を造った見土呂村の大西吉兵衛知雄の功績を記念して、見土呂・都染・井ノ口村の者が建立した石碑である。

 *塔池については、4月17日のブログをご覧ください。

 小野の薬師堂の石碑の左右の側面に文がある。

 なんと、この石碑も大西吉兵衛知雄を顕彰するもので内容(概略)は、次のようである。

 「播磨国・小野村というところに長池という池がある。よく水がたまらない。

Taira_200  そのため、吉兵衛は天保元年(1830)に池を改修した。

 長池からの水は、小野村の田畑を潤るおした。

 村人は、その恵に感謝して、この記念碑を建立する・・・」と野之口隆正の文で記している。

 塔池の石碑も野之口隆正の筆による。

 隆正は、小野藩(現:小野市)の高名な攘夷論者である。

 この石碑に、次の名を刻んでいる。紹介しておきたい。

  庄屋(小野村)  甚太夫

  組頭( 同 )   清太夫

  世話人      吉兵衛

   同        傳右衛門

 上記の世話人・吉兵衛は大西吉兵衛知雄の嫡子・大西吉兵衛親賢であろう。

 傳右衛門は、はっきりとしないが、吉兵衛知雄につながる人物と想像される。

 なお、塔池の石塔の文は『印南郡史』にまとめられている。

 小野の薬師堂の吉兵衛の方は、発表されたものが見当たらない。

 史料として整理して、後日紹介することにしたい。

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上荘町・平荘町探訪:長池(上荘町小野)の話①

2009-04-27 07:13:26 |  ・加古川市上荘・平荘町

B97dc959  きょうは長池(写真)の話です。場所を確認ください。

 長池は、両荘中学の北にある。ゆっくり20~30分の散歩になります。

 4月17日のブログ「新池・塔池・下池」の一部をもう一度読んでみたい。

 ・・・上荘地区は、北が高く山地になっている。

 平地に出てからも土地は階段状で徐々に低くなり、川に落ち込む。

 土地は水が少なく、たまりにくい。しばしば旱魃に見舞われた。

 高いところに、水さえあれば水は水路をつくり美田になる。

 この地域では、昔から小さな池を造り灌漑していたが、水は常に足りなかった。大規模な池を計画した人がいた。

 見土呂村の大西吉兵衛知雄である。

 彼は通称、吉兵衛と呼ばれていた。

Taira_237  塔池(とうのいけ)は、文政10年(1827)ごろ完成した。

 池の水は見土呂村・都染村・井ノ口村の田畑を灌漑した。(4月17日のブログより)

 上荘地域の耕地は、山地から長慶寺(上荘町薬栗)をめがけて舌のような山塊が伸びて、土地は東西に分断されている。

 塔池から流れ出した水は、その東部の田畑を潤したが小野村には流れてくれない。

 やがて、見土呂・都染・井ノ口村の田では豊かな実りがあった。

 ここからは、想像である。

 小野村の百姓たちは、歯ぎしりをした。

 「悔しいの・・・・」

 「わし等の村にも水さえあれば・・・」

 「何とかして、水がいっぱいある大けな池はできないものか・・・」

 こんな会話が続いた。

 村人は、毎夜寄り合いを重ねた。そして、見土呂村の吉兵衛さんに相談することにした。

 吉兵衛も日ごろ、小野村のことを考えてのか、「塔池のような池を造ったらどうですか」「あなた方の村にある長池を、広げるんです・・・」と助言した。

 「できますやろか」 「できますとも」

 吉兵衛には、塔池を完成させた自信があった。

 小野村の百姓たちに希望がでてきた。計画は実現に向けて一挙に動きだした。

 史料に基づく百姓たちの会話ではない。

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上荘町・平荘町探訪:都染(つそめ)

2009-04-26 12:57:41 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_205 「薬栗の明細帳」と同じ年(元文二年・1737)に書かれた「都染村の明細帳」がある。

 内容・形式とも薬栗の明細帳とよく似ている。

 書き出しの部分も同じである。

 ・・・・都染村は、何時の頃に村が始まったかのかは分からない。

 もと、今の村から二丁ばかり南にあったが、姫路藩主・榊原忠次の時に、現在の場所へ移った。

 これは承応年間(1652・9~55・4)のことである。

 以上の明細帳の書き出しは、まるで薬栗村の明細帳を読んでいるようである。

 都染村に“古屋敷”という小字があるが、もと都染村があった場所である。

 “古屋敷”の小字名まで、薬栗と同じである。

 ◇都染村の免(年貢率)◇

  高 百久八拾四石九斗五升    免四つ取

 都染村の年貢率も薬栗村と同じく4割で高くない。

 この免(年貢率)については、昨日のブログをご覧願いたい。

 ◇江戸時代の都染村◇

 都染村は、幾度となく洪水に悩まされた。都染の語源は、洪水を防ぐ堤(ツツミ)の音が変化した名称であるともいわれている。

 薬栗・都染村の明細帳については、後日詳しく分析したいが、きょうは次の数字から元文二年(1737)頃の都染村を想像して欲しい。

 家数 59軒(本百姓41軒・水呑18軒)

 人口 310人(男:167人、女:143人)

 医師 1人   大工 4人   桶屋 2人  牝牛 20匹

*都染村・薬栗村の明細帳は『加古川市史(第五巻)』に紹介されている。詳しくは、そちらをご覧ください。   

    

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上荘町・平荘町探訪:薬栗

2009-04-25 09:00:59 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_207 ◇元は古屋敷◇

 薬栗(上荘町薬栗)の岡田家に残る『明細帳』(元文二年・1737)のはじめの部分を読んでおきたい。

 ・・・・

 薬栗は、何時のころ村が始まったのかは分からない。

 薬栗は、もと今の集落より二丁ばかり南南西にあったが、姫路城主・榊原忠次の時に今の場所へ移った。

 これは、承応年間(1652・9~55・4)のことである。

 (薬栗村の「明細帳」は『加古川市史・第四巻)』に紹介されいるのでご覧ください)

 薬栗に古屋敷・町屋敷という小字(こあざ)がある。

 古屋敷は、元の薬栗村があったところで、町屋敷が今の薬栗の発祥の地である。

 石見完次氏は、薬栗の語源を次のように説明されている。

 「・・・地名事典では、たいていクスは崖・自然堤防・崩れの意味、クリは剥ぎ取られた地形の意味である・・・」

 薬栗の場合、この説明にまさに合致する。

 元の古屋敷は、加古川本流の洪水で削り取られたのであろう。

 また、小字「寺の元」は、もと長慶寺があった場所で、長慶寺も洪水のために今の場所に移動したと考えられる。

 ◇薬栗の免(年貢率) ◇

 もう一点、「明細帳」から薬栗の年貢率をみておきたい。

 「高 弐百四拾六石一合  免四つ取」

 免とは税率のことで、江戸時代の年貢は個人にたいてではなく、村に一括して課された。

 それを庄屋が中心になり、村人に年貢を割り振るのである。

 この時、村人と庄屋との間で、もめ事がしばしば発生した。

 薬栗村の収穫は、146石8升1合で、その4割が年貢であった。

 税は年貢だけではないが、この税率(4割)は、加古川地域の他の村々と比べて少ない方である。

 ちなみに、私の住む今福村(現:尾上町今福)の年貢率は約6割である。

 当時の税は、生産の高い村々から多く、少ないところの税率は低くかった。

 つまり、生産の少ない地域から多くの税を取れないのである。

 従って、一般的に年貢率の高い地域の村ほど豊かであった。

 免(税率)が低いのは、薬栗村だけではない。上荘地域の村々に共通している。

 江戸時代、上荘地区の人々の生活は豊かとはいえなかった。

 先人は、日照を恐れた。そして、しばしば洪水に備えなければならかった。

*『古地名新解』(石見完次著)参照

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上荘町・平荘町探訪:見土呂の語源は深泥(みどろ)か?

2009-04-24 08:41:41 |  ・加古川市上荘・平荘町

8ddeef60 右の写真は、昭和50年代半ばに撮影された航空写真である。

 一部を拡大・印刷したため、写真が見にくい。少し説明しておきたい。

 加古川に架かる中央の橋は上荘橋で、橋の北詰に、上荘小学校がある。

 そして、その少し東(写真中央部)に道が北に伸びている。

 その道が横一列に並ぶ緑のカ所と交わるところに「国民宿舎・みとろ荘」がある。

 「みとろ荘」のところで地形は東西に伸びる段丘をつくっている。

 川沿いの右の方に加古川養護学校がある。

 もう少し説明しておきたい。

 上荘橋の北詰に広がる集落が上荘町見土呂である。

 そして、見土呂の集落と「国民宿舎・みとろ荘」と加古川の土手に囲まれたあたりに低地が広がっている。

 きょうの話題は、この低地である。

 ◇見土呂の語源は深泥(みどろ)か?◇

 石見完次氏は「見土呂・ミトロ」の地名について、次のように解説をしておられる。

 「・・・今の集落の下に入り組んだ低地がある。

 昔は、加古川の本流が渕をなしていたとみえる。

 ミドロとは、そういう地形で深泥(ミドロ)といわれる湿地帯と言う意味である。

 “みとろ荘”・“みとろ苑”と清音で呼ぶの語源なら、河水の静かに滞った所という意味である。・・・」

 蛇足を付け加えておきたい。

 湿地帯とは、汚れた役に立たない場所ではない。古代人にとって、ミドロこそ絶好の農業生産の場所であった。

 *『古地名新解』(石見完次著)参照

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上荘町・平荘町探訪:農村文化協会

2009-04-23 02:00:17 |  ・加古川市上荘・平荘町

Bed389ad 農村文化運動について、『加古川市史(第三巻)』を読んでみたい。(一部文章を変える)

 日中全面戦争の開始は農村、特に近郊農村に大変貌を強いることになった。

 このような中で、上荘村見土呂に大西甚一平を中心とする農村文化協会が昭和12年に設立された。

 機関誌『農民倶楽部』(後に『村』と改題)を刊行し、本格的に農村文化運動に乗り出している。

 以下は、昭和13年(1938)三月号の巻頭言である。

 「・・・農村文化の向上とは、村がより住みよく、より明るくなる事でなければならぬ、近年目覚しい文化の進展は、果たして村を住みよくしたであろうか。

 いわゆる、文明なるものの進歩は、ますます村を住みにくくしているではないか。

 文化そのものが悪いのではない、罪は母体にある。

 いかに文化的施設や学問を与えても、それを受け入れる母体が健全でなければ、全て毒物に等しい・・・・」

 地主であり、資本家であった大西甚一平にとって、大正期の文化や学問の普及が、小作争議などを生んだという苦い思いがあったようである。

 その後、昭和15年大西甚一平は、大政翼賛会の兵庫支部の常任委員に選ばれた。

 彼は「農民倶楽部」で、下から国を支えようとする「革新」を主張する。

 が、時代はそれを許さなかった。上からの強制、上意下達の要素がますます強まった。

 *『加古川市史(第三巻・六巻下)』参照

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