門松は冥土の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
もちろん一休さんが生きた時代(1392~1481)にまだ、一里塚は造られていない。
したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品である。
一里塚は普通、道の両側に周囲が5間(9.24㍍)、高さ一丈(約3㍍)の土を盛りあげ造られている。
そして、目印に榎や松が植えられた。
兵庫県にあった一里塚は、ほとんど松が植えられていたという。
やがて、木は茂り、旅人の疲れを癒す場所を提供するようにもなった。
しかし、交通路の少ない一里塚の中には早い時期に崩れて、江戸時代の中ごろには分からなくなってしまったところも多かったようである。
播磨地方では西国街道などのほか、姫路城下を基点とするその他の街道にも一里塚が造られた。
これは、幕府の指令を前提にして姫路藩主・池田輝政が領国支配の一巻として交通整備したものと推定される。
慶長播磨絵図には、山角の集落のすぐ西に一里塚(一里松)の記載がある。
この道は、姫路から大坂・京都に通じる湯山街道である。
明治新政府は、明治9年に一里塚の廃止を許可した。
そのため、その頃まで全国に残っていた一里塚もほとんど姿を消した。
*『加古川市史(第二巻)』参照
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