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里村の騒擾 (2006年8・16日のブログより)
江戸時代も後半になると、多くの村々がそうであったように、里村でも農民と庄屋の対立がおきた。そのようすをみたい。
宝暦10年(1760)、明和5年(1768)に里村の庄屋・彦九郎に対し10か条の訴えが藩に出された。二件ともほとんど同じ内容である。
紙面の都合で一つだけ紹介したい。
(農民)・・・「村方諸入用はなるだけ簡略にしてもらいたい」と庄屋に願ったが、全く聞いてくれない。
(庄屋)・・・村方の諸入用については年々増額しているが、随分倹約している。村では、7・8人が徒党を組んで、「庄屋が使い込んでいる、生活の困窮しているものに返せ」と偽りを触れ、村方をそそのかしている。
この騒擾の詳細については「加古川市史(二巻)」p442~9を参照されたい。
享和元年(1801)にも庄屋は農民から追求を受けている。
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里村では、庄屋と農民の騒動が40年も続いた。
この騒擾から、庄屋の仕事内容、村政と農民の生活、そして農民の関心ごとなどを知ることができて興味深い。
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里村は、天文元年(1532)の「報恩寺文書」に「里村」の名前がある。それより以前にできた古い村である。
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