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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町誕生:(民話)芝村の天神さん

2009-05-24 11:51:17 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_069 むかし、仁明天皇の頃の話です。

平荘の芝村(現:養老)の医者の娘に、きくのという人がいました。

京都の貴族の家に奉公をしていました。

きだての良い娘でした。

お嫁入りの年頃になったので、おひまをいただいて家に帰り、25才で結婚し男の子が生まれました。

とっても、かわいい子でしたが、ふとした風邪がもとで亡くなってしいました。

悲しいことが、重なりました。

夫も二ヶ月後になくなったのです。

きくのは、生きる望みがなくなりました。

ちょうどその頃、都の菅原是善卿(すがはらこれよしきょう)夫妻に男の子が生まれ、乳母を捜しておられました。

ある人の紹介で、きくのが是善卿のところへあがることになりました。

是善卿の若君は、後の道真公です。

きくのは、道真公が8才になるまで大切にお世話をしました。

きくのは「・・・若君も、もう8才になられ、ことに優れたかたになられ、たのもしく思っています。このあたりで、故郷へおひまをいただきとうございます。・・・」と是善卿に申し出ました。

その後、道真公はたいそう位の高い方になられました。

道真公が57才の時でした。

道真公が偉くなるのを恨んだ藤原時平が、道真公が悪いことをたくらんだと陰謀をめぐらし、罪をかぶせました。

道真公は、筑紫の大宰府に流されることになりました。

 ◇道真公との再会◇

都をあとに、船で播磨灘にさしかかったとき、にわかに海が荒れて船が沈むばかりになりました。

やっとの思いで、別府(加古川市別府町)の浜にこぎつけ上陸されました。

そして、あたりをご覧になりながら、「私が小さい時、乳をもらった乳母は、この近くの芝村というところだったが、ここからどれほどの道のりですか・・」と村人にたずねられました。

「一里ばかりです」と村人は答えました。

道真公は「きくのは、生きていないかもかもしれないが、せめて乳母の住んだあとだけでもたずねてみたい・・」と芝村にでかけられました。

きくのは、生きていて二人は再開するができました。

別れの時です。道真公は、きくのにもう二度と会えないかもしれないと、歌をお詠みになりました。

  ながらえて ありとも我は おもはじな

      逢見るそ社(こそ) つきぬ奇縁を

 (わたしは、生きながらえて もういちどお目にかかれようとは思いません。

   今日こうしてお会いできましたことこそ、尽きない不思議なご縁がありましたから)

その翌年、きくのは亡くなりました。

きくのには、子どもがなく家が絶えたため、短冊は村長(むらおさ)に預けられました。

芝村では、この短冊をご神体として、きくのが住んでいた場所に天神社(写真)を建て、お祭しています。

後、芝村には雷が落ちたり、火事がおきたりする心配がなかったと言い伝えられています。

*こんな民話が、芝村に伝わるのは、姫路から大坂・京都への道、湯乃山街道が平荘を通っていたからではないでしょうか。

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