ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

水があってこそ!…真泥池

2023-03-12 06:58:06 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は三重県伊賀市真泥(みどろ)にある淀川水系の真泥池を目指します。アクセス:一番わかりやすいのは国道163号の「真泥大橋北詰」信号を友生(ともの)方面に曲がり、その道沿いにある特別養護老人ホームおおやまだ鶴寿園前の道を入って行くと真泥池の右岸に到着します。もちろん、左岸から行く道もありますが、説明が難しいので省略します。

真泥池はダム便覧を見るとその高さは26.2mと記されています(参考)。池という名称ですが15.0m以上の高さがあるのでダムとして認定されているんでしょうね。真泥池はまた伊賀市のため池ハザードマップにも登録されています(参考)。ところが、これを見ると高さは24.5mと記載されています。あれれ、高さの数値が違っていますね。一体どちらが正しいんでしょうか。もっとも、24.5mであってもダムの条件を満たしているので問題はないんですけどね。

【真泥の由来】(参考
ところで、地名でもある真泥の由来を調べてみました。明治22年3月末以前、ここは真泥村という村で、同年4月以降町村制施行により他の9村とともに山田郡山田村になります。明治29年4月1日、郡制施行により山田郡は阿拝郡(あはいぐん)と合併して阿山郡(あやまぐん)となり、同日山田郡は廃止。阿山郡山田村はその後平成16年11月1日、合併により伊賀市が発足したため同日阿山郡は廃止。それに伴い山田村も消滅し現在は伊賀市真泥という地名になったようです。で、真泥の由来ですが、服部川の南側はかつて泥田だったため、そこからこの地は真泥村と命名されたらしい。

そんなこんなで、今回ワシは左岸のダム横を目指して進みました。見えてきました、あれのようです。


左岸、ダム横に到着。なかなか立派なダムです。池ですけど。


左岸、真泥池側から見たダム上の様子。左岸側には洪水吐があります。


左岸、ダム横には「県営服部川沿岸用水改良事業 真泥池」と刻まれた石碑。

その裏には事業概要が記されています。真泥池下流の服部川沿岸耕地は毎年用水が不足し、昔から水に関する紛争が絶えなかった。そこで用水不足を解消すべく昭和28年に服部川沿岸用水改良事業が開始(参考)。その一環として築造されたのが真泥池で、昭和43年4月に着工し、昭和50年(1975年)3月に完了した(同改良事業は昭和45年に終了)。この石碑では高さが26.2mとあるので、ダム便覧の数値と一致しますね。


そこからダム上を見ると、こんな感じ。


これがダム上。歩いてみましょう。洪水吐の水路は写真の下に通っています。


ダム上から見た洪水吐。増水すると水はここから溢れ出て、

あちらへ流れてゆきます。


ダム上、中央から見た真泥池の景色。


一方、下流側はこんな景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸から見た下流側の様子。


真泥という名称からして本当に泥しかない場所だったのかもしれません。でも水がなければ土地はカピカピに乾き、泥にすらならない。そうした場所に真泥池が築造されたことで用水不足が解消され、農業も発展してきたのかもしれませんね。

余談ですが、最初読み方が「みどろ」と知った時、即座にイメージしたのは「血みどろ」でした。うわっ、かつてここでは血生臭い戦いでもあったのか…とおかしな想像をしたのです。もちろん昔は水利権の争いはあったのでしょうが、その由来がそうじゃなくてちょっとホッとしました。
コメント

なぜ「西」が?…西米の川ダム

2023-03-11 06:52:54 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県伊賀市丸柱(まるばしら)にある淀川水系の西米の川(にしこめのがわ)ダムを目指します。アクセスは国道422号沿いにある「伊賀焼伝統産業会館」横の道を入って行くと到着します。

クルマだとダム右岸側の近くまで行くことが可能。こんなダムです。治水ダムかな?


近くには案内板があります。伊賀市の上水道用水確保のために築造された専用ダムで、昭和56年6月に工事に着手し、昭和58年(1983年)3月に完成。米の川を堰き止めて築造されたダムなんですが、ダム名はなぜか「西米の川」。東米の川ってのもあるんでしょうか…。わかりませんが。


また、水利使用標識もあります。「取水量」のところに水道用水、農業用水、河川維持水と記されている理由は後で述べます。


ダム下から下流方向を見ると、こんな感じ。


右岸側からダム上に登る階段はありますが、鍵が掛かっていて登れず。そこで左岸側に移動してみることに。立入禁止の表示がないので近づいてみました。おー、なかなかの迫力です。


左岸のダム横までやってきました。そこから下を見るとこんな感じ。


左岸、ダム横から見たダム上。歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


ダムの真下と下流側の遠景。



ダム下にあるこれは円筒分水。ここで上に書いた取水量が3つの用途に分水されるらしい(参考)。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな景色。


今度は右岸側から下を眺めてみます。


なお、西米の川ダムは伊賀市のため池ハザードマップにも載っていて、現場の案内板に書かれているのと同じく高さは18.5mと記されています(参考)。もっとも、表記が同じなのは当たり前なんですけどね。そうじゃないケースが多々あるから困るんですが。
コメント

ほんの気持ち

2023-03-10 11:51:30 | 脳みその料理
どーも、ワシです。昨晩は都内で歌を教えるレッスンをしました。先月は高齢者の元少女たちからバレンタインの贈り物をいただいたので、今回はそのお礼に先月作ったのと同じショートケーキ風ヨーグルトムースをプレゼント。



ケーキといえばフツー砂糖を使用しますが、今回は砂糖の代わりに蜂蜜で作ってみました。砂糖ほどの甘みはありませんが、甘さに柔らかさが出て好評だったようです。元少女のひとりが放った一言に笑いました。

「(こんなケーキを作れる人が)一家に一台欲しい!」

ワシは家電ですか!

健やかに楽しく行なうレッスン。お遊びっちゃあお遊びなんですが、決していい加減にはやりません。リズムと音程は徹底的に反復します。容赦しません。昨晩も難しいリズムを繰り返し、なんとかできるようになった時、

「先生、できたから褒めてよ!」と言われたんですが、
「うーん、できて当たり前なんだから褒めようがないです」と言うと、またそこで一同爆笑。

そんなこんなでレッスンが終わる頃、みんなグッタリ。歌うだけでなく頭も使いますからね。相当疲れるようですが、みな異口同音に「心地よい疲労だわ!」と言って帰っていきます。

彼女たちとの付き合いは、もう17年目。いつまでも元気でいてほしいものです。
コメント (2)

地域農民の悲願!…滝谷池

2023-03-09 07:01:37 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は三重県伊賀市槙山(まきやま)にある淀川水系の滝谷池(たきたにいけ)を目指します。アクセスは県道50号から入って行くと到着します。ただ、入るところには何の目印もないので真木山神社を探し、その西側あたりにある道が目的地への道となります。

滝谷池という名称は滝谷川を堰き止めて築造されたことに由来します。伊賀市が作成したため池ハザードマップによると、高さは21.5m(参考)。だからなのかダム便覧にも滝谷池は載っています。ところがダム便覧に記された高さはなぜか23.5mなんですよね(参考)。この2.0mの違いは何なのでしょうか。

それはさておき、滝谷池は右岸から見るとこんな感じです。


順を追って見ていきます。上に記した道を進んで行くと突然こんな「関所」が現われます。一瞬、ゲゲッと焦りますが、よく見れば進入禁止ではなく、単に野生動物が通らないようにするゲートなので手動で開閉して進むことができます。


そして進んで行くと滝谷池の左岸に到着します。


左岸、ダム横には「滝谷池竣工碑」と刻まれた石碑が建っています。


石碑の文言を転記すると以下の通り。

   「建碑誌
王滝鞆田の地帯は由来水利の便匱しく天一度旱すれば忽ち田面乾涸して嘉禾稔らずまた之が田圃の復旧にも多大な労費を要し住民常に艱むかかる災害は遂年或は三四年を離て繰返さるこれは古くは寛政年間旧藩主より年貢米全免扶米の恩典近くは明治大正の旱害免租また大正十一年より三歳に及ぶ大旱害に際し開墾助成耕地整理国庫補助の恩典に與り大小溜池の新設拡築など水源涵養に努めしが殆んど奔命の憾なりき只抜本的解決の途は大溜池の構築によって貯水灌漑によるの外なきに至れりこの窮極に際し昭和二十二年十一月縣に於て伊賀東北旱害対策委員會を結成せられ関係国会並に縣議會議員の絶大なる御協力により調査研究を重ね遂に昭和二十五年十月縣營を以て大溜池築造の工に着手せられたり以来結据実に六星霜を閲し昭和三十一年工事完成す貯水量八十万立米の碧水山容に満ち豊なる水溢れて余水吐を掩ふの盛観を呈す而して費すところ三億四千余万円水路●●々三万六千七百余水に及び重畳たる滋賀縣境を繞り巌を削り山腹を貫き以て王滝鞆田四百町歩の養水を流す大小の隧道八十有一伏越工十有八掛樋十有五蓋し稀有の難工事たり顧るに工を起すや住民の熱意と関係者の総親和総努力により百難を排し櫛風沐雨に耐えてこの大業を完成し永き炎嘆の患を絶ちてその恵沢千載に盡きず嗟乎偉なる哉人の熱大いなる哉人の和天工を補いて水系を更め然して地租を滋くし木毛を培いて民生を厚くす世遷り人代るともこの池畔に立てば山紫水明の天恵と共に永久に民衆の幸を希ふものなり
  昭和三十一年十月六日  三 重 縣 知 事  田中覚 題字
              三重縣土地改良協会長 東畑四郎 撰」

要約すると、もともと水が乏しかったこの地域では江戸時代から明治・大正時代にかけて免租されたり、国の補助金によって大小の溜池が築造されるなどの恩恵を受けてきたが、抜本的な解決にはならなかった。そこで昭和22年11月、伊賀東北旱害対策委員會が結成され、調査研究を重ねた結果、昭和25年10月に三重県が主導する大溜池(滝谷池)の築造に着手。そして昭和31年(1956年)に完成したと記されています。

左岸の滝谷池側には取水設備らしき建物があります。

そこからダム上を見ると、こんな感じ。


これがダム上。ダム上は立入禁止ではないので歩いてみます。


ダム上、中央から見た滝谷池の様子。


一方、下流側はこんな景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸、滝谷池側から見た様子。


越流式の洪水吐は右岸のさらに外側にあります。


竣工碑のような石碑があると築造の経緯などがわかって見方が変わりますね。例えば、工事、大変だったんだろうなぁ…とかね。
コメント

還暦間近!…菊川頭首工

2023-03-08 06:56:05 | 静岡(ダム/堰堤)
才能豊かなリュート奏者である友人のK君が先月末に亡くなったとの知らせを受ける。ワシより年下なのに…嗚呼。

どーも、ワシです。さて、今回は静岡県菊川市富田(とみた)にある菊川水系の菊川頭首工を目指します。場所は東名高速道路の相良牧之原インターの北西に位置します。アクセスはJR菊川駅の前を走る県道79号を東へ進み、「火剣山キャンプ場」と表示のあるT字路を入り、東海道本線を潜った先が二又になっているので左方向へ。そして橋の手前を左に入っていくと目的地に到着します。

上のリンク先の説明によると、菊川頭首工は戦後小笠地区で大旱魃と不作が続いたことが建設のきっかけだったようです。昭和26年(1951年)に国営大井川農業水利事業が開始。そしてその一環として建設されたのがこの頭首工で、昭和39年度に竣工したとあります。

これが菊川頭首工。左側に見える線路には東海道新幹線が走っています。


菊川の下流方向の様子。


頭首工の横には関連施設があり、

その壁には水利使用標識が貼られています。


正式名称は「菊川左岸幹線菊川頭首工」なのでしょうか…。この表示を見ると、竣工は1965年3月。リンク先の表示と異なると思いきや、昭和39年度とは翌年3月までのことなので間違いではありませんね。うーん、紛らわしいな。


菊川の水はこの取水口から分水し、

この沈砂池に流れ込んだ後、水路を経て左岸の農業用水として使用されるようです。


近くには大井川用水と菊川頭首工の案内板があります。それによれば頭首工は確かに1965年3月に竣工したものの、施設の老朽化が進んだため「国営大井川用水農業水利事業」の一環として平成23年度にゲート、巻上げ機、沈砂池の改修が行われたそうな。


菊川の上流側から見た様子。先にも書いた通り、東海道新幹線がすぐそばを走っていて、新幹線が通過するや、物凄い騒音にびっくり。近隣の人々はもう慣れっこなんでしょうねえ。


菊川頭首工は半世紀以上もの間、近隣の農地へ水を送り続けているんですね。
コメント

くつろぎの場所!…丹野ダム

2023-03-07 15:42:41 | 静岡(ダム/堰堤)
いや〜、今年から地区の会長にされてしまい、雑事に追われているでござるよ…。ヒィイィィィ。

どーも、ワシです。さて、今回は静岡県菊川市丹野にある菊川水系の丹野ダムを目指します。場所は東名高速道路の相良牧之原インターの南にあり、アクセスは県道244号から入って行ったところにあります。

県道を入っていくと見えてきました。あれですね。


右岸のダム横に来ました。ダム湖名は「丹野池」。


丹野池周辺を総称して丹野池公園というそうな。この地域は枯渇と洪水を繰り返していたため、昭和32年(1957年)に農業用ため池として築造されたとのこと。


これが右岸から見たダム上。歩いてみましょう。


「土砂災害警戒区域表示板」。周囲は一見のどかな感じですが、土砂災害も起きるんですね。


ダム上、中央から見た丹野池の様子。


そして下流側の景色はこんな感じです。


丹野池の周囲には様々な動物の形をした石像があり、そのお腹のところには「大蛇の足窪と赤どじょう」という物語が書かれています。物語を読むには丹野池をぐるっと回らなければならないようなので断念。


左岸側には越流式の立派な洪水吐があります。増水時になると水はここから溢れ出て、

この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。写真手前の橋の下が洪水吐の水路。


左岸、丹野池側から見たダムの様子。


ゆっくり見ればどこかにダムに関しての案内板があったのかもしれませんが、少なくともダム上周辺には見当たりませんでした。
コメント

ほとんど放置…東大谷防災ダム(堰堤)

2023-03-03 06:58:30 | 静岡(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は静岡県掛川市大渕(おおぶち)にある東大谷川水系の東大谷(ひがしおおや)防災ダムを目指します。場所は以前訪れた西大谷池の南東に位置し、県道249号沿いにあるので迷うことはありません。

…とはいうものの、実際に行ってみると、あまりパッとしませんね。写真は右岸から見た様子。写真右端に見えるのが県道249号です。


右岸、ダム横に来ました。これがダム上ですが、ご覧の通り未舗装。


洪水吐は右岸側にあります。越流式ですが訪れた時は水はなく、カラッカラ。


ダム上を歩いてみます。中央付近から見た貯水側はこんな感じ。渇水期なのか湖底が半分以上見えています。

左岸方向に目をやると取水塔と思しきものと白い建物が見えます。



ダム上、中央から見た下流側の景色。高さがあまりないので県道249号がすぐ前にある感じ。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


先ほどダム上から見た建物がこちら。

「県営防災ダム事業 東大谷防災ダム」のプレート。


そこからダムを見るとこんな感じ。


近くには水神様?が祀られています。


東大谷防災ダムの諸元は現場になかったので、これがいつ築造されたのかは不明。でも静岡県が作成した「ため池データベース」によると高さは10.8m、長さは180.8m、総貯水量は94,000㎥と記されています。また、防災ダムという名称ですがダムの定義からすると高さが15.0mに満たないため定義上は堰堤となります。だからダム便覧には載っていないんですね。
コメント

歴史も見なあかんぞ…神増分水工

2023-03-02 07:00:54 | 静岡(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は静岡県磐田市上神増(いわたし かみかんぞ)にある神増分水工を目指します。場所は新磐田スマートインターの西南西に位置し、アクセスはもちろん同インターからが近いのですが、わかりやすいのは国道152号「新原小南」信号を浜北大橋方面(県道61号)へ曲がり、浜北大橋を越えて突き当たりのT字路まで行きます。それを袋井方面へ左折し、県道44号に入ります。しばらく走ると左側に「とよおか歯科医院」があるのでそのT字路を入って行くと諏訪神社が見えてきます。目的地はその付近です。

下流側から見た神増分水工。この分水工も昨日、一昨日記事にした2つの分水工(於呂、五貫地)と同じ船明(ふなぎら)ダムを水源としています。ただ、それらと異なるのは同ダムからの左岸導水路を経てここへ流れてきていることです。


だから案内板の「施設名」も「左岸導水路神増分水工」なのですね。この略図に示されているように左岸導水路はこの分水工で「寺谷(てらだに)幹線」と「社山(やしろやま)幹線」に分水されます。


上流側から見ると、こんな感じ。向かって右側のゲートが上がっているほうが寺谷幹線への入口、そして左側のほうが社山幹線へ向かうのです。


分水工から見た左岸導水路の上流方面の様子。安全面を考慮してなのか導水路にはフタがしてあります(いくつかのサイトによれば、ゴミの不法投棄を防ぐためでもあるそうな)。


神増分水工は天竜川下流農業水利事業の一環として農林水産省が直轄して建設したと書かれていますが、同分水工がいつ建設されたのかは記されていません。そこで大まかな建設時期を推理してみましょう。天竜川下流農業水利事業は1967年から1984年にかけて行なわれました(参考)。また、農林省が農林水産省に改称したのは1978年7月5日からです。さらに左岸導水路の元になっている船明ダムの竣工は1976年6月。以上のことから考えられるのは、神増分水工が建設されたのは1978年から1984年の間ということになります。だからなんだと言われても困るんですが…。

じゃあ、左岸導水路ができる前は何もなかったのかというと、そうではありません。例えば寺谷幹線の元になっている寺谷用水の本格的な開発が始まったのは戦国時代の1588年に遡ります。2年後の1590年に水路の開削に成功し、これで盤石かと思われましたが、1733年取水元の天竜川の様態が変化し取水不可能に。

こんな状況をなんとかせねば…。1830年、江戸幕府の普請役として土木技術に精通した犬塚雄一郎が派遣されます。様々な調査を行なった末「社山疏水事業」を立ち上げました。しかし犬塚の構想は諸事情から実現されずに終わります。

犬塚の志は明治時代になって再燃。再び調査が開始され、1884年にようやく工事に着手します。ところが途中で設計ミスが発覚!結局1888年に中止。人々の無念の声は高まるばかり。そうしたなかで、1926年に社山疏水構想は大規模な水利事業として動き始めます。1929年には天竜川に強固な取水口を設置し、社山に隧道を作ることが始まりました。これが県営磐田用水幹線改良事業となって着工に至ります。この時の成果のひとつが社山隧道で1935年に竣工し、現在も神増分水工の社山幹線の下流方向に行くと残っているようです(参考)。

せっかく始まった社山疏水構想ですが、なんと第二次世界大戦の激化とともに工事の継続が不可能となってしまいます。なんたる悲運!しかしながら1941年、農地開発法が制定され食糧増産が急務とされたこともあり、翌42年には工事が再開され、天竜川沿岸大規模農業水利事業として開始。そして戦後の1947年に天竜川から取水した磐田用水が開通。ひとまずはお幸せに。

とはいえ、戦後における天竜川を利用した発電ダムの建設は続き、それはそれで人々にとっては利するものがあったのですが、1960年代になるとその弊害も出てくるようになりました。それは上流のダムで天竜川の水が堰き止められたせいで下流では流量が低下し、用水の取水が不可能になる事態が発生し始めたのです。その対策として浮上したのが上に書いた「天竜川下流農業水利事業」で、船明ダムを築造し、右岸からは浜名用水(右岸導水路)を、左岸からは磐田用水(左岸導水路)を整備するという計画でした。

つらつらと書いてきましたが、こうした歴史的な流れの中で建設されたのがこの地域での数々の分水工であり、今回の神増分水工でもあるわけです。
コメント

詳細不明!…五貫地分水工

2023-03-01 07:02:20 | 静岡(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は静岡県浜松市浜北区尾野(おの)にある五貫地分水工を目指します。アクセスは国道152号の「新原(しんぱら)大橋」信号を北方向へ浜名用水に沿って進んで行くと到着します。

五貫地分水工は昨日記事にした於呂(おろ)分水工から浜名用水を下った場所にあるんですが、分水工の名称である五貫地の由来はわかりません。ここの昔の地名かな?

アクセス通り来ると目的地が見えてきました。これです。


分水工の横に来ました。取水装置がありますね。

「五貫地分水」と表示された看板。


浜名用水の上流方向の様子。左側の広い川が浜名用水本線で、右側は地図で確認してみると於呂分水工からの分水路であることがわかりました。


上流側から見た五貫地分水工の様子。分水路の余った水は浜名用水に戻るようです。

ここが取水口で、水は浜名用水の東側の農地へ供給されるのでしょうね。


五貫地分水工を検索してみましたが、情報はありませんでした。どのような役割を果たしているのかなあ。
コメント (2)