ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

正式な案内板が欲しい!…宿の沢ダム

2022-11-08 16:32:04 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県栗原市高清水宿の沢(たかしみず しゅくのさわ)にある北上川水系の宿の沢ダムを訪れます。アクセスは県道59号沿いの「天神橋」の表示のあるT字路(カーブミラーあり)を入り、そのまま進んで行くと目的地の左岸に到着します。

おー、あれですね。


ダム横までもう少し。


左岸のダム横まで来ました。しかしご覧の通り、ゲートが閉まっていてダム上に行くことはできません。


警告ともとれる看板。赤字で「必ず警察へ通報」と書かれちゃあ万事休す。とほほです。


ゲートの横にある「定礎」の石碑。1999年6月とあります。


ふと道路沿いを見ると二つの石碑が。ひとつは「小山田貯水池竣功記念」と題されたもの。ところどころ読めないところがありますが、転記すると全文は次の通りです。

「この貯水池は栗原郡清滝村高清水町及び瀬峰町の耕地約六百余町部●●●し用水補給の目的を以って築造されたもので、即ちこれらの耕地は由来を小山田川を唯一の水源とし灌漑して来たりしが年々この川が枯渇 用水の不足甚だしく農業経営の上に一大脅威を加ふるに至り之がため関係農家の困憊●●●言語に絶するに至り茲(ここ)に昭和十八年を期してこの地域の農家相謀り小山田川沿岸耕地整理組合を設立貯水池工事の実施促進を請願陳情せし結果幸い農林省の認めるところとなり同年九月県営事業として着工の運びとな●●●●時偶々國の総力を挙げての決戦期を迎え着工とは名のみ幾何もなく工事中止の止むなきに至る幸い昭和二十一年工事の再開を得しも終戦直後の世相は混乱し食糧物資の欠乏甚だ●●為に工事の進捗意に任せず加うるに連年の水害惨禍は目を覆はしめるものあり斯(か)くして農家の負担は過重●●●これ以上の負担に耐え得ずとし一時前途に一抹の暗影を投せしも農林省当局を始め前組合長佐藤信吾現組合長高橋孝吉の両氏組合役員各位並びに関係者の一致協力は克(よ)く困難を乗越え日夜努力を傾注 遂にこの難事業を完成せり この間歳を閲すること実に九年有余事業費金貳千四百拾五萬円を要したり 由来産業の興隆は社会の進運に寄与する所以に貯水池の竣功により受ける地方発展の成果は期して待つべきものありそれと共にこの事業に携わりし諸氏の郷土愛と敢闘の精神は後の世に永く語り継がれ良き教訓となることを信ず
以上当時を回顧 経過を敍し 以って後世に伝えんとするものなり
 昭和二十七年七月三十日
  宮城県知事   佐々木家壽治 篆額
  宮城県農地部長 安 部 義 正  拝文」

要するに、ここは宿の沢ダムができる前に「小山田貯水池」というものがあったようです。同貯水池は昭和18年(1943年)9月に県営事業として着工したものの戦時中のため一時工事は中断。戦後の翌1946年から工事は再開し、昭和27年に9年の歳月を得て完成したことが記されています。ちなみに当時宮城県知事だった佐々木家壽治(ささきかずじ:1886-1954)は盛岡師範学校(現在の岩手大学)を卒業し、衆議院議員を二期務めたのち1949年に宮城県知事に当選する。1951年には資金難だった商工業救済を目的とする振興無尽株式会社を設立。地元のことを考える「百姓知事」として人気が高かったという。

その左側には「佳種在田」と題するもの。こちらも転記しておきます。

「碑文
 本耕地は栗原郡南部に位置し、小山田川沿岸に拓けた瀬峰町、高清水町の二町一ヶ村にわたる東西に長く南北に狭い、水田四・九〇九ヘクタールの地域で各水利施設の不完全はもとより水利系統の組織が甚だ悪く用水の不足、それに伴う干害、下流部には浸水被害等極端なものがあり又水田の区画形状はすこぶる錯雑で細分され道水路の幅員は狭小湾曲甚だしく配置が疎悪で利用が極度に低く収穫に影響し又農耕労力の無駄が大なるものがあった
 昭和二十六年七月二日栗原郡小山田沿岸耕地整理組合が組織変更許可により栗原郡小山田川沿岸土地改良区が設立され、先に県営事業として宿の沢溜池の完成を見、多年の宿望が達せられたが、この溜池の用水を最も合理的に且つ経済的に使用し更に食糧増産と労力の軽減を計り農家経済の向上を企図するには区画整理をなし灌排水路農道の整備に依ってのみ可能なることを確信し区画整理実施の計画を樹立したのである
 然るに組合員中には反対の声も少なからず再三再四総会並びに総代会を開催し組合員の理解を深め賛同を得て昭和二十七年四月積雪寒冷単作地帯区画整理事業として着工した
 以来満五ヶ年の歳月と四七・七七二千円を投じ指導機関 援助と組合員の協力役職員並びに関係者の熱意と努力が幾多困難を克服しここにこの大事業の完成を見るに至ったのである
 顧みればこの事業に携わって来られた関係者一同のなみなみならぬ苦労に対し深く感謝し組合員各位の絶大なる理解と協力のこのあふるる愛土の精神に強く感銘するものである
 ねがわくばこの事業が明日への郷土発展の唯一の契機であることを再びここに深く肝に銘じ佳き種は遺され永久に美田の栄え在らんことを乞うものなり。
  栗原郡小山田川沿岸土地改良区理事長 中野芳夫 選文
   昭和四十八年四月」

この記述を要約すると、昭和26年(1951年)に小山田沿岸耕地整理組合から小山田川沿岸土地改良区に名称変更され、昭和27年(1952年)4月には積雪寒冷単作地帯区画整理事業に着手。そして区画整理と灌排水路農道を整備し昭和32年(1957年)に完成したと記されています。

これら二つの石碑を見て思うのは表記と時期の違いがみられることです。小山田貯水池が宿の沢溜池と同一のものとするなら完成時期が違います。「貯水池」の石碑では1943年に着工し9年を経て完成したとあるので、貯水池の完成は1952年になるはず。ところが「佳種在田」では小山田川沿岸土地改良区が設立された段階(1951年)で「先に県営事業として宿の沢溜池の完成を見」たとあります。

一体これはどういうことなのか。念のため小山田川沿岸土地改良区のサイトを確認してみると小山田貯水池の記述はありませんが、宿の沢ダムが昭和24年(1949年)に完成とあります。ということは名称こそ違いますが、宿の沢溜池と宿の沢ダムは同一のものと判断して良さそうです。じゃあ「貯水池」の碑に書かれている昭和18年(1943年)に着工し、「九年有余」の歳月を経て昭和27年(1952年)に完成したと思われる小山田貯水池は別物なんでしょうか。それとも記述の単なる誤り?

詳細はともかくとして宿の沢ダムが昭和20年代に築造されたことは間違いありません。そして昭和52年(1977年)には小山田川沿岸地区かんがい排水事業が開始され、その一環として宿の沢ダムの改良工事が1999年6月に定礎され、少なくとも同事業が完成をみた2002年までには同ダムの工事も完成したとみて良さそうです。

あー、いろいろ調べて疲れたぁ。せめてダム横にでもちゃんとした案内板があればいいのにな。
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