2022/04/11b 記
----------------
(プログラムより)
4/10 東京・文京区民センターの「反貧困ネットワーク2022」に参加してきたが、きっと気づいた方もいると思うが、圧力にちぎれた数珠のような影が見えたような気がした。封じ込められた自分の虚な気分の投影かもしれないが、会が「総花的」なのだ。
コロナは社会の歪みや瘡蓋を露わにしてみせた。弱いところはひび割れ、繕いは無残に剥き出しとなった。私たちは、自分が取り組んできた課題を確認するように、気力が残る類似の活動報告に聴き耳をたて、切迫感ある他領域の活動に、抑え込まれた緊縛の身から、届かぬ共感を噛み締める。そのすべてに手立てのなさに、ひたすら自分の活動に踏ん張るのみの無策な実情が曝け出されたように思うのだ。裏返して言えば、三密忌避と社会生活の萎縮は、社会活動の連携切断と、当座の見通しを立てられない不安定さ。嵐の去るのを、それでもただ地を踏み締めて待つ忍耐レースの中にいるという、メッセージの影を感じ取った。
ひとつひとつは、コロナの嵐に翻弄されつつ戦っている現場があり、見渡せば、身近な「もったいないジャパン」の創設者のY君のように、コロナ孤独死した身近で起きた市民活動仲間の死でさえも、葬儀以外、何事もなかったように流されていく分厚い無関心が横たわる日々がある。この隔たり。連携とか協同行動がやせ細り、迫る貧困に対し篤志家の生活防衛活動が個々の対応の、意味で語られ、セイフティネット形成の必要性を、政治的課題として訴えきれない、世間との断層がある。それが「総花的」な羅列報告になってしまうのだろうと感じていた。何を成してきたかは語るが、今後を語り得ない霧、それを感じる集会だった。篤志家の腕力依存から抜け出せる拡がりは蜃気楼なのだろうか。
-----------
もうひとつの発見があった。リアル会議の価値なのだが、休憩時間に「練馬あったかネット」の方に自己紹介の名刺を届け、懇話会の資料を送るから、読んでほしいと告げた。興味を持っていただけたと思う。
席に戻りながら、リモート会議は、この隙間、私的出会い、脱線対話がなりたちにくいのだ。
私の懇話会は一般公募に馴染まない、現場篤志家の一本釣り懇談なのだ。問題意識のある方がヒントを掴み取りにいく会なのだ。問題意識なく、知識を口を開けて待つ方の会ではないのだ。
こういう懇談の会は、他の会の隙間の出会いと、知り合いの出会い時の説得の先に広がる芋釣り縁故人脈によってなりたっている。
だからリモート会議や公募型メール呼びかけは全く馴染まないのだ。リアル企画がないと、出会いがなく、紹介しようがないのだ。
会場では、さっそく都社協の☆☆さんや、「反貧困ささえあい神奈川」の@@さんと再会した。こういう機会がリモート会議にはない。防疫最前線の立場にいて、懇話会参加が難しい方が主流の会という事情もあるが、会企画で誘う場が失われているのだとわかった。どう越える、さて。
-----------
(続く)
(校正2回目済み)
、