2012/06/02 記
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伯母の四十九日だった。父の名代やら、足の調子や、めまいの件で、遠方外出に不安のある母の代理の件もあって、憂鬱な法事にでかけることになった。ところが母が「行く」と言い出した。年だから、こういう機会に親戚に会っておかないと、お互い、いつ亡くなるかわからないから、無理しても出てきてくれと説得されたと母は言った。ああ、これで今日一日が流れてしまうと、貴重な時間が減ることに落胆したのだった。急がば回れであるのは、わかっているのだが、昔の塾屋仲間に車の譲渡ボラの件で、借金にまわるつもりでいた。この法事はちと痛かった。覚悟はできているのだが、葬儀ふたつと、結婚ひとつ重なりで苦しくなってしまう自分が情けなくもあった。
無事母を寺に届け、私には遠い親戚ばかりだが出席、皆歳を食っても、それでも同世代が混じる。そうなると、私の仕事が必ず問われるのが憂鬱だった。手帳を持たない自閉症スペクトラムがかぶった引きこもり青年の社会復帰をしているというと、はて何やらさっぱりわからない、儲かりそうも無い正業ではない変態だと思われるのがおちなのだ。それも毎回出会うと、知っているはずなのに同じステレオタイプな問いが飛ぶ。いい加減放っておいて欲しいと思う。
さすがに「いい年をして、『障がい者なんか』の相手していないで家を守ることを考えるべきだろう」と説教するのは治まったが、私もその「差別言辞を撤回しろ」と衝突することは少なくなっていた。けんかがあれば、皆ギャラリーに徹するというのが「世間の常識とか」。いわゆる口論が冷えた頃、今度は私を除いて、私は変態であるという噂をたてる。
今回もどうせわからないならと、災害ボラをネタに回答してみたが、「被災者はかわいそうだが、危ないところに行かない方がいい」と忠告をもらった。そのような発想は、私には(お)釈迦に何とか、馬の耳に…いや馬耳…である。
しかし母の付き添いは難儀した。駅の乗り換え階段のエスカレーターは上りしかついていないことが多い。足が悪い者は、降りる方が辛い。体重移動が不安定だからだ。このことも、多くの方が気がつかない。
母は腰が曲がっているわけではないので、手すりを背に立ち止まる母に、乱暴に体当たりするものがいるので、私がガードする。長時間電車に乗るとき、優先席前に母を立たせるが、まず交代してくれる方はいない。少しして、明らかに体調を害している方ではないと思われる若い方に、席の交代を頼むのが私。半数は不快な顔をして絶対にどくものかと足を組む。残りは立場をなくしたことに腹を立てその場を立ち去る。前者の場合、隣の方が席を譲ってくれて母は座れるのだが、そうすると怒り露わに彼も立ち去る。それでも私は空席を前に意地で立っているから、まだ青臭いのだが。
なんとか無事ガードマンをやりきり、お清めの食事のとき、幸い私と話題が会う、民生委員・児童委員をしている者と隣合った。連絡会で被災地のツアーがあるという。仙台らしい。生活保護の件に話が及び、社会的孤立の話になったところでビールを持った方が「まあ、堅い話は、やめて、さ。」と再び世間話に引き戻し、私が手をつけないビールをついだ。「ゴルフは、やめたのかよ」と私に質問。「私はゴルフをしたことがない。誰かと人違いしている」というと、「まあいいじゃないか」と酒をせまられた。
焦るなと自分を言い含めても、砂時計の砂が刻々と落ちていくような、虚しさ・悟りが開けていない悔しさがある。
母をタクシーに詰め込んだ。全然食事に手をつけていないことがわかっていたので、途中下車して「粥の店」に立ち寄って、食事させてから帰宅した。案の定21時を回ってしまった。
一日、少しでも実が欲しいのだ。24時間すべて社会活動というのではない。大きくなくともいい、納得できる日々の実が一粒欲しいと願っているのだ。
また夜が明けた。
夜間傾聴:**子君(仮名)
ペット相談(仮名)
南大沢君(仮名)
(校正3回目済み)
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伯母の四十九日だった。父の名代やら、足の調子や、めまいの件で、遠方外出に不安のある母の代理の件もあって、憂鬱な法事にでかけることになった。ところが母が「行く」と言い出した。年だから、こういう機会に親戚に会っておかないと、お互い、いつ亡くなるかわからないから、無理しても出てきてくれと説得されたと母は言った。ああ、これで今日一日が流れてしまうと、貴重な時間が減ることに落胆したのだった。急がば回れであるのは、わかっているのだが、昔の塾屋仲間に車の譲渡ボラの件で、借金にまわるつもりでいた。この法事はちと痛かった。覚悟はできているのだが、葬儀ふたつと、結婚ひとつ重なりで苦しくなってしまう自分が情けなくもあった。
無事母を寺に届け、私には遠い親戚ばかりだが出席、皆歳を食っても、それでも同世代が混じる。そうなると、私の仕事が必ず問われるのが憂鬱だった。手帳を持たない自閉症スペクトラムがかぶった引きこもり青年の社会復帰をしているというと、はて何やらさっぱりわからない、儲かりそうも無い正業ではない変態だと思われるのがおちなのだ。それも毎回出会うと、知っているはずなのに同じステレオタイプな問いが飛ぶ。いい加減放っておいて欲しいと思う。
さすがに「いい年をして、『障がい者なんか』の相手していないで家を守ることを考えるべきだろう」と説教するのは治まったが、私もその「差別言辞を撤回しろ」と衝突することは少なくなっていた。けんかがあれば、皆ギャラリーに徹するというのが「世間の常識とか」。いわゆる口論が冷えた頃、今度は私を除いて、私は変態であるという噂をたてる。
今回もどうせわからないならと、災害ボラをネタに回答してみたが、「被災者はかわいそうだが、危ないところに行かない方がいい」と忠告をもらった。そのような発想は、私には(お)釈迦に何とか、馬の耳に…いや馬耳…である。
しかし母の付き添いは難儀した。駅の乗り換え階段のエスカレーターは上りしかついていないことが多い。足が悪い者は、降りる方が辛い。体重移動が不安定だからだ。このことも、多くの方が気がつかない。
母は腰が曲がっているわけではないので、手すりを背に立ち止まる母に、乱暴に体当たりするものがいるので、私がガードする。長時間電車に乗るとき、優先席前に母を立たせるが、まず交代してくれる方はいない。少しして、明らかに体調を害している方ではないと思われる若い方に、席の交代を頼むのが私。半数は不快な顔をして絶対にどくものかと足を組む。残りは立場をなくしたことに腹を立てその場を立ち去る。前者の場合、隣の方が席を譲ってくれて母は座れるのだが、そうすると怒り露わに彼も立ち去る。それでも私は空席を前に意地で立っているから、まだ青臭いのだが。
なんとか無事ガードマンをやりきり、お清めの食事のとき、幸い私と話題が会う、民生委員・児童委員をしている者と隣合った。連絡会で被災地のツアーがあるという。仙台らしい。生活保護の件に話が及び、社会的孤立の話になったところでビールを持った方が「まあ、堅い話は、やめて、さ。」と再び世間話に引き戻し、私が手をつけないビールをついだ。「ゴルフは、やめたのかよ」と私に質問。「私はゴルフをしたことがない。誰かと人違いしている」というと、「まあいいじゃないか」と酒をせまられた。
焦るなと自分を言い含めても、砂時計の砂が刻々と落ちていくような、虚しさ・悟りが開けていない悔しさがある。
母をタクシーに詰め込んだ。全然食事に手をつけていないことがわかっていたので、途中下車して「粥の店」に立ち寄って、食事させてから帰宅した。案の定21時を回ってしまった。
一日、少しでも実が欲しいのだ。24時間すべて社会活動というのではない。大きくなくともいい、納得できる日々の実が一粒欲しいと願っているのだ。
また夜が明けた。
夜間傾聴:**子君(仮名)
ペット相談(仮名)
南大沢君(仮名)
(校正3回目済み)