日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

落 雪

2014年02月08日 | 生活・ニュース


 東京都心は16年ぶりの大雪とか。羽田空港は欠航で混雑、新幹線も大幅な遅れで運行という。鉄路は多少遅れても目的地へ運んでくれるので着けば何とかなるが、航空機の欠航は空港から引き返すしかないのだろうか。ともに一長一短ありか。

 いつものように朝5時過ぎに新聞を取りに出る。うっすらと白くなった雪道に4本のタイヤの跡が一番のりを誇っている。雪跡の様子から新聞が届いた後で降り始めたようで、降りはじめだ。外灯に映し出される雪はしっかり降っている。予報通りの積雪を思わせた。学校はお休み、子どもらの声が聴かれないのが物足りない。

 そんな雪もお昼にならないうちに止み、すぐに融けはじめた。大きな音が聞こえるので出てみると、屋根に積もった雪が滑り落ち路上駐車しているその屋根に雪は遠慮なく落ちて行く。いや、ドンという音を楽しんでいるようにも見える。運転の人はどこに居るのだろう。屋根が窪みはしないかと気になる。

 まだ「三寒四温」の声は聞こえないが、立春も過ぎ桜の開花予測も報道されはじめ、春への息吹はそれほど遠くない。屋根からの滑り落ちる雪を見ているだけで、まだまだ続く豪雪地帯で雪と闘う人らは、ソチ冬季五輪の放送をゆっくり見ることができるのだろうか、思いながら開会式のハイライトを見ている。
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心和む節分の願掛け

2014年02月07日 | エッセイサロン
2014年02月07日 中国新聞「広場」掲載

 節分の夜、誰にも見られず、四つつじの真ん中に、年の数だけ豆を紙に包んで置くと願いがかなう。子どもの頃、祖母から聞いた節分のまじないだ。

 引っ越してきた家の前の小さなつじに、初めは10個ほどだった。願いがかなったのか、その数は少なくなり昨年は1個。

 今年もドアをそっと開けた。あった、2個。それは、これまでの無造作な置き方と違い、むつまじく寄り添うように置かれている。

 同じ願いを、真っ白な紙に包む2人の姿が目に浮かぶ。その包みを朝日が優しく照らしている。きっと願いはかなう、そう思った。

 各地の観光化した豆まきや恵方巻きを食べるなど節分行事も子どもの頃に比べ大きく変化した。

 そんな時代変化の中で、願掛けの風習が続いていることに驚く。裏通りの小さなつじだから、神秘的なことが続いているのかもしれない。そう思うと、驚きながらも、何か安堵する気持ちになる。 
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湿り雪

2014年02月06日 | 生活・ニュース


「降り始めが冷え込む」と祖父はたき火をしながら、登校前の私らに空を見上げ雪の降ることを予測していた。今日は傘を持っていけ、雨の降りそうな雲行きを観察して教えてくれていた。今なら折りたたみ傘もあるがその頃は番傘、もっては行けなかった。雲や風などからの予報だろうが確率はどうだったか、記憶していない。しかし、孫を思っての気づかいだった、と思う。

 居座る立春寒波の予報通り雪が降り始めた。出かけるとき車載の温度計は3度、走っているうちに5度まで上昇した。しばらくして温度が下がり始め、3度になったころからフロントに雪が舞い、窓も少しくもり始めた。祖父の雪降りの予測に似た気温変化だった。科学的観測値に基づいて出されるはずの予報も、報道に載ると違いが出る。最悪を参考に行動すれば難は避けれるかもしれないが、行動の中身によってその逆があるかも。

 豪雪地帯の生活の映像は物言えぬ感じがする。続けて映る大都市の、雪が降りそう、ちらつき始めたという映像で大騒ぎするその姿のギャップに笑いを押さえ込んで見ている。都市は雪に弱い、という伝説が伝説のままになっているのはいかがなものかと思う。また、転倒者も多いとか。かっこいいフアッションより安全を選んで欲しい。

 湿っぽい雪だったが夕方までには小降りになった。週末までこの寒さは続き雪も振るという。錦帯橋の雪景色、民放でその錦帯橋を俯瞰でライブ、地元だからというひいき目なしでいい映像だ。狭苦しい庭も雪に見舞われるとと少し趣が変わる。千両の赤い実が映えている。

 
 

 

 
 
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1枚の写真

2014年02月05日 | 回想


 購読紙の新企画記事「まちウオッチャー」、紹介では開通80周年を迎える岩徳線沿線のまちを訪ね、人々の暮らしや歴史を紹介するという。その1回目に50代半ばまで住んでいた町「川西」が載った。

 川西の地名は古い資料によると川の西に存在したからとある。川とは名勝・錦帯橋の架かる清流錦川、川西は錦帯橋の下流に架かる臥龍橋を渡ったところ。臥龍橋は宇野千代の「おはん」の舞台になっている。そして宇野千代の生家はここ川西にある。1643(寛永20)年には川西村として岩国庄19カ村のひとつと史料に残る。

 記事のタイトルは「清流沿い 歴史漂う要衝」。要衝とは辞書によると「要ともいうべき大切な所、要所」を表す。「交通の要衝」という例示がある。JR岩徳線と三セクの錦川清流線の川西駅がある。無人駅だが清流線の始発駅にあたる。また、市内北部を走る国道2号線のバイパスの役目を果たす県道岩国玖珂線(通称 欽明路道路)が通る、こんなところから要衝となったのか。

 生まれた町の空撮、それも主役で撮られているのを見るのは初めて。写真の隅々から思い出がにじみ出る。写真中央に伸びる一直線の欽明路道路、子どものころ、その一帯は稲田、その真ん中を小川が流れ、四季を通しての子どもの遊び場だった。右の小高いところに写っているのは岩国高、この付近も山遊びの範囲だった。変わっていないのは岩徳線の鉄橋、赤は緑に塗り替えられているが流失もなく現役でいる。

 写真から町の道筋が判読できる。子どものころに見上げ、町の象徴にも思えた造り酒屋の煙突、その前に建っていた大きな薬局、長く世話になった医院、食料品を売っていた数軒の小さなお店、みんな記憶の中だけになった。幾筋かあった谷川の流れ、駆けまわった女学校の運動場などいづれも往時の面影はない。

 欽明路道路沿いにはスーパーや各種の店舗が並び、歩いてみても思い出すものは残っていない。一方、山裾の道へ入ると昔ながらの狭くてくねった道が続く。両側には懐かしい町屋も残っているが、今風の家も増えており、やがて平成のまち並みに変わるだろう。

 思わぬ1枚の写真、眺めていると思い出すことが尽きない。忘却曲線の下がりがしばし止まる。 
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辻への願い

2014年02月04日 | 生活・ニュース


 節分の翌日は立春。夜が明けて間もなく出たのは「大雪、風雪、雷、低温」注意報で、立春はまだ寒さが残るころ、気を抜くなという人への自然からの戒めかもしれない。立春寒波が全国を震え上がらせた。

 節分の豆まき、「豆まきの時、なんていうの」と問えば「鬼はそと福はうち」と声をそろえて答えるだろうが、わが家では「鬼はうち福はそと」だという話が載っている。なんで、と思うが答えを読めば納得もする。それは「あちこちの家で『鬼はそと』と言われたら、逃げ場を失った鬼がとんでもない悪さをするかもしれない。だから『逃げ回らずにこの家においでと声を出す』」と説明している。これに似た話は各地に残っているとか。

 節分の夜、誰にも見られず、四辻の真ん中に年の数だけ豆を紙に包んで置くと願いがかなう―子どものころ祖母から聞いた節分のまじない。家の前は四つ辻、今朝もそっとドアを開けた。あった、2つ。今年は1つ増えている。置かれた1つは紙に包まれ置かれたたままの姿で、1つは豆がこぼれ出ていたて包み紙は見当たらない。ただ2つが寄り添うように置かれていたのが伺える。同じ願いの二人なのだろう、とイメージする。

 わが家は子どものころは大家族、菜園で大豆も作っていたので炒る量は一升マスほど、惜しげもなく撒いていた。今は夫婦だけ、注文の恵方巻に添えられたものと購読紙のおまけの炒り大豆で十分たりる。追われた鬼が来たらにぎやかかもしれないが、その前に、やはり追い出したい鬼がわが身にいる、それは煩悩。
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昼休み終わり

2014年02月03日 | 生活・ニュース


 近くの小学校、といっても60年以上も前に卒業しているので母校になる。登下校時に出会うと、大きな声で気持ち良い挨拶をくれたり反したりと、家庭と学校の両方の躾だろうがその姿には感心する。あるお母さんが「いじめなど無いので安心です」と話されたが、挨拶の良さはその証かもしれない。

 そんな話があるからか、母校の校名を載せ、その校区の不動産ですというと広告がよくある。今の1年生は2クラス増6クラスになったことを学校のHPで知った。近所でも若い人の家庭が増えており、特に登校時の児童らの話し声には寒気を忘て窓を開けてみることもある。

 昼休み、これは児童ならずとも寸暇を惜しんで働く者にも嬉しい時間。給食を終えた児童らは広い運動場で遊ぶ。追っかける子逃げる子、縄を回す子飛ぶ子、何十種類もの叫ぶような呼ぶような大声が入り混じっている。通りがかりに出会うとしばらくはそんな運動場の様子を眺めている。

 昼休み終了の放送が流れる。と、遊びに夢中だった児童らは間をおかずに校舎へ向かって脱兎の勢いで駆け出す。その切り替えの早さに子どもらしい若さと純朴さを感じる。少し舞い上がる砂ぼこりは、先ほどまでの児童らの大きな声の余韻をたのしんでいるようだ。
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香川家長屋門の内側

2014年02月02日 | しっちょる岩国


 岩国の名勝・錦帯橋を横山側に渡り緩やかな坂道を下る。その正面に錦帯橋を創建した岩国藩三代藩主吉川広嘉公の銅像がある。西郷隆盛に似ているという人もあるようだが、制作の話は本旨ではない。銅像に向かって右側の道を公園に向かって進むと、白壁の映える武家風の門構えの建屋がある。

 そこは岩国藩五家老のひとり香川氏の表門で「香川家長屋門」。1693 (元禄6)年、香川正恒が建立した。市内の建造物では最も古いもののひとつで、当時の武家屋敷の構えをよく残しており、1966年(昭和41)年 に山口県の有形文化財に指定された。入口に記された文化財の由来を読まれる観光の人は多い。

 由来記を知っても門が閉まっていては中には入れず外観を見るだけで終わっていた。「長屋門の右側は、馬小屋、板敷きの剣武道場、仲間部屋、正面大扉の左側が、茶室を組み入れているという様式は、非常に珍しいと言われている」、その続きに「内側の見学は、門が開いているときは可能」とある。回数は記憶しないほど門の前を通っているが、先日のこと開いていた。

 門の内側、数メートルくらいまで入れる。長屋の内側は木の戸が閉てられていて部屋の中をうかがうことはできない。建築の専門的なことは分からないが、300年以上経った風格は感じる。また、わずかな狂いなども見えない。大工の大屋嘉左衛門が建てたとある。現存する錦帯橋最古の設計図も大屋の手によるというから、優れた技巧の大工だったことがわかり、郷土の誇りでもある。

 そんなことを思いながら門の内に立っていて、ふと「長屋門と首なし白馬」の話を思い出した。その話はまたの機会に。
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同じ写真なのに

2014年02月01日 | 生活・ニュース
 
   川面に白い雲が映っている。そこを         左を逆転すると白い雲を背に5機の飛行機が
   5羽のカモが横一列で前進している         高空を連帯飛行している

 白い雲の映っている川面を5羽のカモが横並びで泳いでいるのを橋上から見た。急いで手のひらサイズのカメラを取り出し撮った。撮った写真を再生ボタンを押し液晶モニターで確認する。再び川面をみやり、2枚目を摂ろうとカメラを持ち直そうとした。

 その時、偶然だがカメラが逆さになった。と液晶モニターの画像が逆転している。逆転は正常だが、それは撮った時とは全く異なる印象を持った。隊を組んで飛ぶ飛行機の群れに見え、しばらく眺めていた。やっ、これは面白い、帰宅するとすぐに橋上で見た映像をパソコンで試みると先ほどと同じだ。

 錯視の図形を眺めたことを思い出した。仕掛けられていることを知った上で図を眺めているのに、歪んだり異形だったり、長短大小など違って見させられるというか、思い込まされていく不思議な図形だ。例えば、同じ長さの直線を平行に3本引く。各々の線の先にかっこの<と>を、1番の線には向かい合わせて、2番の線には反対向きに、3番の線には同じ向きに書く。何番の直線が長く見えますか、答えは2番の直線になります。

 たった1枚の自分の撮った写真でも向きを変えただけで説明が変えられる。ましてや大勢の人と交流する中では同じものを一緒に見たり聞いたりしても、そのつかみ方は夫々に異なる。その時、ゆきちがいでいやな思いをしないためには、日ごろから心して鍛錬をする必要がありそうだ。
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