日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

1枚の写真

2014年02月05日 | 回想


 購読紙の新企画記事「まちウオッチャー」、紹介では開通80周年を迎える岩徳線沿線のまちを訪ね、人々の暮らしや歴史を紹介するという。その1回目に50代半ばまで住んでいた町「川西」が載った。

 川西の地名は古い資料によると川の西に存在したからとある。川とは名勝・錦帯橋の架かる清流錦川、川西は錦帯橋の下流に架かる臥龍橋を渡ったところ。臥龍橋は宇野千代の「おはん」の舞台になっている。そして宇野千代の生家はここ川西にある。1643(寛永20)年には川西村として岩国庄19カ村のひとつと史料に残る。

 記事のタイトルは「清流沿い 歴史漂う要衝」。要衝とは辞書によると「要ともいうべき大切な所、要所」を表す。「交通の要衝」という例示がある。JR岩徳線と三セクの錦川清流線の川西駅がある。無人駅だが清流線の始発駅にあたる。また、市内北部を走る国道2号線のバイパスの役目を果たす県道岩国玖珂線(通称 欽明路道路)が通る、こんなところから要衝となったのか。

 生まれた町の空撮、それも主役で撮られているのを見るのは初めて。写真の隅々から思い出がにじみ出る。写真中央に伸びる一直線の欽明路道路、子どものころ、その一帯は稲田、その真ん中を小川が流れ、四季を通しての子どもの遊び場だった。右の小高いところに写っているのは岩国高、この付近も山遊びの範囲だった。変わっていないのは岩徳線の鉄橋、赤は緑に塗り替えられているが流失もなく現役でいる。

 写真から町の道筋が判読できる。子どものころに見上げ、町の象徴にも思えた造り酒屋の煙突、その前に建っていた大きな薬局、長く世話になった医院、食料品を売っていた数軒の小さなお店、みんな記憶の中だけになった。幾筋かあった谷川の流れ、駆けまわった女学校の運動場などいづれも往時の面影はない。

 欽明路道路沿いにはスーパーや各種の店舗が並び、歩いてみても思い出すものは残っていない。一方、山裾の道へ入ると昔ながらの狭くてくねった道が続く。両側には懐かしい町屋も残っているが、今風の家も増えており、やがて平成のまち並みに変わるだろう。

 思わぬ1枚の写真、眺めていると思い出すことが尽きない。忘却曲線の下がりがしばし止まる。 
コメント (2)
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