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☆「失われた時を求めて」メモ20

2008年02月26日 00時46分23秒 | 文学
妻がドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読み終える。
僕もちょっと前に同じ本を読んだはずなのに、彼女の感想を聞いても内容をさっぱり思い出せない。
へえ、お父さんが死んで息子が裁判に……、なるほどなるほど、それで? (これは大袈裟だが、そんなに遠くない状態)
しかし話を聞くだけでもそうとう濃い話だなあ。何が言いたいんだろう。
僕は前回読んで、「なんとなくわかるかも」から「さっぱりわかりません」の状態へと一歩進んだので、次回読んだときはよく理解できるだろうと踏んでいる。前へ進むだけでは駄目で後ろへのステップもなければうまくは踊れない。
ドストエフスキーについてはいろいろなひとがいろいろなことを言い過ぎるので、よくわからなくなる。
まずは大江健三郎と埴谷雄高の言うことに耳を貸さないほうがいい。本が読めなくなって単なる確認作業になってしまう。
このあいだヒッチコックについての本のなかの、「裏窓」についての評論を読んでいたらそこに「『ロープ』(私はまだ見てない)」という記述を見つけ、とんでもなく感動した。
ヒッチコックの映画についての評論を書くのに、全作品を見てなくていいんだ、しかもそれを堂々と書いてる、と驚いた。すばらしい。
そのくらいの態度でいい。
読みたいものだけ読み、見たいものだけ見るという姿勢にだんだん変わりつつある。

上で言っていることとまったく矛盾するが、NHKの番組「知るを楽しむ」で、「カラマーゾフの兄弟」の翻訳者の亀山郁夫の話を聞く。
ドストエフスキーの父親は農奴に殺されたことを知る。

プルースト「失われた時を求めて」4巻366ページまで。
・乙女たちのなかの誰がアルベルチーヌであるかがわかる。
しかし、祖母と二人で海岸を歩いているのを見たのが、アルベルチーヌであるように思うが印象が一致しない。
そのとき彼女と一緒に歩いていた家庭教師風のひげの生えた女は、不気味な存在だ。
・絵を見て、これは何を描いている、これはあれだ、というふうに考えるのは知性の働きだが、知性が働く前の状態を絵に描くのが画家の仕事である、という話。
・エルスチールといっしょに歩いているときに乙女たちに遭遇。
語り手は紹介してもらえるものと思ってわざと素知らぬふりをしているがエルスチールは紹介せずそのまま乙女たちと別れてしまう。
自分が呼ばれると期待して、わざと知らん顔をする若い感じがよくわかる。
・エルスチールはかつてヴェルデュラン家でムッシュー・ビッシュと綽名されるつまらない人物であったことがわかる。
エルスチールは語り手に、
《その人がなんとか聡明な人物になり得たというのも、最終的にそうなりきる前に、滑稽な人間だったり厭うべき人間だったりしたというさまざまな段階を経てきたからこそなのです。》(361ページ)
と語る。
ここの長いエルスチールの台詞は感動的だ。
だいたいはつまらない人々のくだらない生活を描いているが――そしてそれが大変楽しいが――、このように感動的なことをプルーストはたまに言わせる。
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