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☆「失われた時を求めて」メモ12

2008年02月17日 20時23分00秒 | 文学
この間、日本アカデミー賞の授賞式のような、日本映画宣伝番組のようなものを見ていると、渡辺謙が登場しいつものように、「世界の渡辺謙さん」とか「ハリウッド・スターの渡辺謙さん」とか司会者に呼ばれていた。あれは渡辺謙側からの強い要望なのだろうか。
そうでないならば、渡辺謙側は強く抗議して、そんな変な形容詞は今後一切付けないようにしてもらった方がよいのではないかと思う。
「世界の○○」と呼ばれだすと、大衆が離れていってしまう傾向が日本映画界にはある。

プルースト「失われた時を求めて」3巻250ページまで。
・本を読むように周りを見ているだけで、まだ自分の人生は始まっていないと考えていた語り手だが、父親の言葉ですでに自分の人生が始まってしまっていたことに気付く。
・スワンはなんであんなになっちゃったんだろうなあ。「あの人と付き合いがある」なんてそんなひけらかしはやらない人だったのになあ。
・スワン夫人(オデット)は英語を会話のいたるところに入れてくる。
馬鹿だ。
・音楽の良さは一度聴いただけでは分からず、何度か聞いているうちに出てくるものであること。初めて聞いた時はその音楽のそんなにいいところでもない部分ばかりを気にしてしまうということ。記憶が悦びを発生させるということ。
食べ物の趣味のことであればすんなり納得できる話だ。それまで何を食べてきたかによってそのひとの味の趣味というものが決まる。
この間昼ごはんにトマト入りのサンドイッチを食べていて――僕はトマトが嫌いなのだが――、ゆっくり噛んで食べながらなんで嫌いなんだろう、ということを一生懸命考えていた。味が、ある感じ(感覚)と結びつくんだよなあ。
考えているうちに食べ終わった。
・過去の記憶は現在の状態により変わる。
憧れていただけのスワン家の人たちだったが、付き合いが始まると、昔憧れていたことの記憶も別のものになっていること。
・今読んでいるあたりはもうほとんどエッセイ集、または論文だ。おもしろいけれども。
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☆「アラン 芸術について」の感想とも呼べない感想

2008年02月17日 03時39分22秒 | 文学
アラン 芸術について (大人の本棚)図書館で借りた、アランの「アラン 芸術について」(みすず書房)を読んだ。
読みましたけど、なんとも評価のしようがない。
ラブレーもスタンダールもバルザックも(きちんと)読んでないので。よく読んでないと愉しめないくらい濃い内容なんだと思う。
スタンダールについては大岡昇平訳の「スタンダアル」のほうが詳しい。
ヴァレリーに逢いに行く場面はすごい対面だという興奮は伝わってきた。「竜馬がゆく」の坂本竜馬と勝海舟の対面を思い出した。
アランが「作るよりもほぐすほうが難しい」と言うと、ヴァレリーは刻み煙草をほぐして紙に包んで見せて、ほぐせば簡単に作れるよ、詩も私にとってはおんなじ、と言っているのだと思う。この話は二度登場するが、アランもヴァレリーもはっきりと語らないのでよくわからない。意見が食い違っているのか合っているのかすらわからん。
よくわからんと言えば、アランがプルーストについてどう思っているかもよくわからない。評価しているように見えることもあるが、スタンダールよりは落ちるとは言っている。
評価しててもしてなくてもどっちでもいいのだが、何を言っているのかよくわからない。特にプルーストに関していうとき分かりにくいように感じる。僕が気にしているからだろうか。
しかし同時代の散文家でジッドもサルトルもカミュも出てこないのにプルーストだけ出てくるということはそれなりに評価しているのだろう。(※)
アランは「私はこんなことが出来た」ということをほんとに恥ずかしげもなく語るが、感心してしまう。マラルメの詩の不可解な一節もリセ(高校)の授業では説明できたんだけど、いまは目の前にその詩がないので残念ながらヴァレリーに説明できない。目の前にないものを想像で説明するわけにはいかない、と語る。
想像力を使うことを自制するのが彼の特徴。

突然だが、いま気になる人たちの生没年を並べる。
モンテーニュ(1533~1592)
スタンダール(1783~1842)
福沢諭吉(1835~1901)
ニーチェ(1844~1900)
ベルクソン(1859~1941)
アラン(1868~1951)
司馬遼太郎(1923~1996)

アランがスタンダールのことをたいへん褒めるので読んでみようかとも思うが、司馬遼太郎を読んでいればいいかなあ、とも思う。話を聞く限りそんなに違ったものでもない。同じく歴史小説作家、同じく文章を飾らない。
フランスの歴史よりも日本の歴史の方がわかるし。
近くを見て、急に遠くを見ると目がかすみ(老眼とは反対)、遠くのものは立派に見えるのがひとの常だが、スタンダールと司馬遼太郎を比べて司馬遼太郎がさほど落ちるものでもないだろうと考えている。


(※)後記
こうやって無知といい加減さを露わにしてしまう。
ジッド(1869~1951)
プルースト(1871~1922)
は確かに同時代だが、
サルトル(1905~1980)

カミュ(1913~1960)
を同時代と言ってしまっていいものか。
「嘔吐」(サルトル)は1938年、「異邦人」(カミュ)は1942年。
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☆山田洋次監督「幸福の黄色いハンカチ」感想

2008年02月17日 01時59分45秒 | 映画
幸福の黄色いハンカチ山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」を見る。
オチはことあるごとに聞かされているのでもっと退屈するかと思ったら、退屈しなかった。考えてみれば、高倉健と倍賞千恵子が出ていて退屈するはずがない。
高倉健が二日間何も食べずに撮影にのぞんだというラーメンとかつ丼を食べるシーンに期待したがそんなに映っていなかった。
高倉健の素早く頭を下げるやりかたは何年経っても変わらない。
しかし今回の高倉健は怒りっぽかった。まだまだヤクザがぬけてないころだ。
私は、もっと我慢の高倉健が見たいのだ。

キスシーンがあった。山田洋次もまだ若い。
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