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☆アラン・ド・ボトン「哲学のなぐさめ」感想

2008年02月11日 18時14分57秒 | 文学
哲学のなぐさめ―6人の哲学者があなたの悩みを救うモンテーニュについてちょっと知っておこうと思い、「プルーストによる人生改善法」が読みやすくていい本だと思ったアラン・ド・ボトンの、「哲学のなぐさめ」(集英社)を図書館で借りて読む。
これもとってもいい本だった。
アラン・ド・ボトンの本は文庫になったらすべて買おうと決心する。
ソクラテスとエピクロスとセネカとモンテーニュとショーペンハウアーとニーチェの人生とその著作から、得られるものは全部頂戴してしまおうという態度が気に入った。読みやすいし。
哲学史は、この人はこういう思想を持っていたがのちにこの人に越えられた、そして超えたその人もいまではたいして評価されていない、どんな思想も完璧ではない、というふうに冷めた相対主義に陥ってしまったり、骨董品を扱うように専門用語を暗記して口真似しているだけだったりするが、そんなことになっては何の意味もない。
いま生きていく上で役に立つ思想が彼らの本に書かれている。
そんな本だった。
六人の思想家の関係もわかる。
たとえばニーチェは、アベ・ガリアーニ(知らない)とアンリ・ベイル(スタンダールのこと)とモンテーニュとゲーテが好きだった。
モンテーニュの流れでニーチェを考えたことが今までなかったので新鮮だった。ニーチェというと「リトル・ミス・サンシャイン」で描かれたように青年期の反抗の象徴のようなイメージだったので。そうか、彼はモラリストなのだ。
スタンダールにも興味が……。あんまり興味を広げたくないんだけど。

全体を通して最も印象に残っている思想は、モンテーニュの「トイレの時は静かにやりたい」とニーチェの「ビールを飲むな」だが、そのように親しみやすく描くのもアラン・ド・ボトンの特徴だ。
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☆「失われた時を求めて」メモ8

2008年02月11日 11時53分08秒 | 文学
プルースト「失われた時を求めて」2巻417ページまで。

・「スワンの恋」読了。
・昨夜、谷崎潤一郎に似ていると書いたが、やられた! ぜんぜん違う。こんなこと、谷崎は書かない。20世紀の最高傑作を甘く見ていた。これはすごい小説なのだ。(谷崎もすごいのですけれど)
・サン=トゥーヴェルト夫人の夜会のシーン。
音楽にノリノリで頭を振っているカンブルメール夫人や、レ・ローム大公夫人にさんざんコケにされながらも諦めずに自分を上に見せようとするガラルドン公爵夫人、そしてそのご当人のレ・ローム大公夫人など、いつもの人物描写を楽しんでいたのだが、そこであのヴァントゥイユのソナタの小楽章が流れる。
スワンといっしょに、「あの頃のオデットはかわいかったなあ」と思い出してしまう。
油断していたところで首根っこを捕まれて感動させられた。やられた。
・オデットはひどい女だ。もう信じられない。嘘ばっかり。
・乗合馬車で出会ったコタール夫人から、オデットがスワンのいないところでスワンのことを褒めているのを知る。ひとから回り回って聞く話って本当だって気がする。「あのひと、あなたのこととっても褒めてたよ」って人から聞かされるとびっくりするし嬉しい。
オデットいいやつ。
・オムニバス映画の”オムニバス”は乗合馬車から来ているんだ。知らなかった。バスってバスのことなんだ。
・スワンの夢のシーン。
若い男を説得する。それが実は自分であると気づく。
ナポレオン三世も登場する。
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☆「失われた時を求めて」メモ7

2008年02月11日 00時20分22秒 | 文学
プルースト「失われた時を求めて」2巻284ページ。

・今日本屋で「失われた時を求めて」の漫画(ステファヌ・ウエ著)をぱらぱらとめくって見る。前からどのようなものだろうかと気になっていた。思ったよりもでかくて薄い本だった。フランスの漫画ってあんな本の作りだ。
しかし値段が高すぎる。
”紅茶に浸したマドレーヌ”は、紅茶をスプーンにすくってちぎったマドレーヌを入れて飲んでいた。上品だ。
マドレーヌをコップの中にどぼんと入れて飲んでいるのだとばかり思っていた。
レオニ叔母が案外痩せてた。確かに病気だからなあ。おしゃべりな女性は太っているという固定観念が僕にはあるようだ。
この漫画は1巻が「コンブレー」で2巻が「花咲く乙女たちのかげに」 ということは「スワンの恋」は省略するということか。
・その「スワンの恋」を読んでいる。スワンがヴェルデュラン家から除名される。
・スワンが好きなのはオデットではなく、オデットの幻影なのだということがしつこく書かれる。オデットのことを無理に気にしないようにしたり、でもやっぱり気になったり。要するに惚れてる。
オデットがそんなにやさしい女でも上品な女でもないということも書かれる。
「失われた時を求めて」というのはとんでもなくすごい小説でわけのわからないことがつらつらと書きつづられていて普通の人には読めない、簡単に言うと柳瀬尚紀の訳したジョイスと同じ範疇のもの、というイメージだったのだが普通の小説だ。
意識する必要の全くないことではあるのだが、ずっと読んでいてこれが20世紀最高の小説なのだろうか、と多少疑問に思う。
まるで谷崎潤一郎だ。若い奥さんの足の裏がものすごく気になるとか、どんなに裏切られても離れられないとか、そういう谷崎的な小説世界と地続きだ。
作者が何を言いたいのかさっぱりつかめない。
たぶん愉しいからやってるだけで何か言いたいことがあるわけではないのだろう。小説の中で語り手が言っていたように。
今後、谷崎潤一郎の親戚みたいなもんだと思ってプルーストを読んでいくこととする。
・1巻で語り手がアドルフ大叔父の家で出会ったのが、大叔父と肉体関係のあった若いころのオデットである、というようなことが訳注に書いているが、僕にはあれがどうしてオデットだと言い切れるのかがわからない。読み落としたのだろうか、これからはっきりするのだろうか。
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