まずは2話に渡って「地番」について若干、歴史的な解説を試みます。
ただし、最初にお断りしておきますが
私は専門的な学術者ではありませんので、内容の信ぴょう性は保証できず
“おおまかな流れとしてそれほど逸れていない”程度にお考えください。
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そもそも、“土地の所有”という概念が出てきたのは
奈良時代の公地公民制が崩壊した「墾田永年私財法」の辺りと言われています。
この法令は、自分で新しく開墾した耕地は永年に渡り、私財化を認めるものでした。
その後長きに渡り、力にものを言わせた各地の権力者などが
それぞれの土地を所有する「荘園制度」の時代が続くことになるのですが
同じ荘園内でも田畑ごとに所有権が異なっていたなど複雑で
記録が少ないこともあって一概に語るのは難しいとされています。
この“各地の権力者”がいずれ「大名」になっていきます。
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それを大きく変えたのは、全国統一を果たした豊臣秀吉で
各地の大名を征服するごとにその地を確実に掌握するため
「検地」と呼ばれる田畑の測量及び収穫量調査を行い全国統一の基礎としました。
この「太閤検地」は全国的な規模で統一された方法で行われ
それまでの複雑な土地所有関係を整理した上
土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、直接耕作者に課税したことにより
農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃され「荘園制度」は完全に崩壊することになります。
また、各地の石高(米の収穫量)が確定されたことは、その後、江戸時代の幕藩体制の基礎となる
石高制(すべての農作物、海産物の生産量を米に換算して表す)の基となって行くのです。
こうした経緯を辿って、江戸時代までの日本の庶民の大半がいわゆる農民でしたので
「土地こそ資本」とか「土地こそ命」という、狩猟民族にはない
農耕民族ならではの土地崇拝が生まれる土壌が出来上がりました。
人をののしる時に使われる「タワケ
」という言葉は
「田分け」つまり田を子供の数で分割していくと、孫・ひ孫と請け受け継がれていくうちに
それぞれの持つ面積が狭くなり収穫量が減少して、いずれ家系が衰退していくので愚かな行為だ
という意味とされていて、こうした意識を象徴しているのかもしれません。
結果、世界でも稀に見る「土地」に執着する国民性を育むことになると同時に
「米」が諸物価のものさしとなり、米の豊作、凶作が景気そのものという時代が長く続くことになります。
一方、この時代には、土地にかかる税金などの話は聞いたことがなく
租税はその土地から収穫した米を年貢米として物納させることで成り立っていて
武士に対する報酬も米の現物で支払われていました。
ちなみに、一石は大人1人が1年に食べる米(玄米)の量に相当していました。
(1石=10斗=100升=1,000合=約150kg)
また、現代ではなくなった札差(ふださし)という職業は
この俸禄米を手数料を取って受取、現金化する職業でした。
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なお、江戸時代は260年も続きましたので、途中からは
江戸市中では極めて少額な町人からの固定資産税的租税などもあったようです。
このように、いわゆる封建時代の土地を支配する形態は
支配して年貢を徴収する領主的所持(頭は将軍様で各大名に預ける形))と
土地からの収益の約6割を受け取る(残す)農民的所持の二重構造で
田畑の売買は禁止され、土地の分割や作付け、地種の変更も制限されていました。
確か、現代の中国の農村部にも同様な話があります。
いずれにしても、米の収穫量については
御上も農民も気を配っていましたが
個人的な土地の所有に対する意識は低かったのでしょう。
もちろん、農耕民族だから土地は大切ですが、土地そのものが税の対象でない以上、日常的には
「あのへんは田吾作の田圃、こっからこのへんまでは松つぁんの田圃」程度で済んでいたのかもしれません。
しかし、そんな日本人の土地観を根底から覆すような大改革が行われたのが
明治新政府による「地租改正」です。
これは、全ての土地に課税して一定の額を金納させる新しい税制でした。
以降、全国一律の税率が採用され
大規模な測量により土地は明確に個人の固定資産となりました。
そして、この大規模な改正には約10年の歳月を要したと言われています。
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もともと、1反と言う単位は1石の米が取れる面積でしたが
農業技術の進歩により1反あたりの収穫量が増加しますし
また、田の良し悪しによっても変わりますので
一律に1反=1石と言う関係は成り立ちません。
実際の「検地」のときは、田を9段階、あるいは6段階程度に分け
それぞれ基準の石高を設定したと言います。
江戸時代には、良い田だと1反当たり2石以上の収穫があり
現代では全国平均でも4石以上はあるようです。
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(稲刈り、脱穀、籾すり臼等の様子)