保護猫と暮らす隠居爺の“自然農法”野菜作りとスキーの日記

5~11月は自然農法による自給用野菜作りと冬に備えた体力作り、12~4月はスキーに明け暮れ、保護猫活動は1年中無休です。

「原発0」政策は消え去った

2012年12月19日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

衆議院選挙も終わり、今後の政策に対する様々な論説が賑やかです。

個人的には、結果を見る限りにおいて、今や国民が一番期待することは、
自分の懐をより豊かにする経済振興豊であって、あれだけ騒がれた原発のことなど
弐の次、参の次で構わないとなったことに注目しないわけにはいきません。

私がかつて雑学として「エネルギーと脱原発」のことを取り上げた際の結論も
「とりあえず出来得る限りの安全対策を施した上で止むを得ずそのまま使用しましょう」という
“日和見主義”的なものでしたが、まさにこの選挙結果も同じ立ち位置に見えます。

使い古しの火力発電所をまた引っ張り出して枯渇が取り沙汰される化石燃料にまた頼りながら
実際には僅か数%のシェアしかない自然エネルギーに一気に過度の期待を持つことが
いかに現実的ではないことくらい、多くの人は知っていたはずに違いないのですが
震災後のマスコミの報道があまりに扇情的に原発を悪魔のような存在に仕立て上げたものだから
誰一人として“原発やむなし”を口に出せない雰囲気に一時的に世の中が
なってしまっていただけと思わざるを得ないのです。

あれから1年9カ月、津波被害の観光地には旅行でお金を落として復興に協力したけれど
放射線被曝の恐れのある食品は口にせず、その地方の観光地には行かないようにしながら
未だに30万人を超える避難住民については、いずれは税金で国がなんとかするからと
所詮、他人事を決め込むようになったことはしょうがないことでしょう。 

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やはり「原発0」が怪しくなって来た!?

2012年09月27日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

原発問題に触れるのは本当に久しぶりです。

エネルギーという極大かつ複雑な問題に対いて、ろくに知識もないまま
“今と将来”をごちゃ混ぜに語る時間軸のない原発の是非を問うことに疑問を感じ
「今はとりあえず出来得る限りの安全対策を施した上で経過を見ながら
止むを得ずそのまま使用しましょう」という“日和見主義”に立ち位置を置いて
この雑学のテーマを終了したのが11か月前のことでした。

今でも震災で16万人、原発事故で20万人の方が避難生活を余儀なくされていますが
死者・行方不明者は1万8千人で、これは全て震災によるものとされています。

日本の総人口は1億2千万人なのですから
震災による死者・行方不明の割合は0,015%、原発0
避難されている方の比率は震災により0,13%、原発により0,17%
合計でも僅か0,3%に過ぎないことになります。

この程度の犠牲により、残り99,7%の人々の暮らしを左右する
エネルギー政策を変える必要がなぜあるのか、と疑問を呈する専門家が現れています。

また、10年前は年間8千人を超えていた自動車事故の死者数は
ここ数年で4千人台に減少しているとはいえ、毎年確実にこれだけの死者を生みだす自動車は
死者が出なかった原発よりはるかに危険な存在なのになぜ存続論を交わさないのか、という
何とも不思議な論法を持ち出して「原発擁護」を叫ぶ人さえも目にしました。

こうした特異かもしれない個人的意見はともかく、代表選、総裁選で明らかになったように
経済界が経済の衰退を理由に原発の必要性を公然と口にし出したことも
また、米国が地球温暖化の面から「原発0」政策を危惧する話もニュースで取り上げられたりして
ようやく震災直後の怖いとか可哀そうという扇情的な「即時原発0」の騒動を脱し
将来の日本のエネルギーに対する国民の方向付けを決める
冷静かつ実現可能な論議が始まりつつあることは確かなようです。

 

 

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再稼働が決定、とりあえず私はこれで良いと思う。

2012年06月16日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

昨年3月の原発事故後初めて、原発の再稼働が決定し
国内の原発全50基が停止した「原発ゼロ」は終わりました。

なぜ、放射線が原因で一人の死者も出ていないのに
あれほど「脱原発=即原発0」が叫ばれたのか、よく分からないでいましたが
なんとなくそれが理解できる人間の行動心理から推測した興味深い以下の記述を見つけました。

 

人間の行動は
知覚⇒①直感(高速・自動的・学習が遅い)⇒②推論(低速・意識的・コントロール・柔軟)
という情報処理のパターンを採ります。

その原因は、脳がきわめて“非効率的”にできていることに因ります。

つまり、脳の重さは体重の2%程度だが基礎代謝の20%も消費するため
なるべく直感的なシステム①(高速)で情報を処理し
意識的なシステム②(低速)の負荷を小さくしようとするのです。

たとえば、ピアノの演奏を最初に習うときはシステム②で意識して鍵盤をたたきますが
システム①で自動的に指が動くようにならないとピアニストにはなれません。

この①と②の役割分担は、人によっても、文化圏によっても違います。

震災で世界から称賛されましたが、誰も命令しなくても
多くの人々が整然と行動する日本人の特長は、システム①で共有する情報が多いため
この感情の共有が人々の均質性を高めていることに起因します。

ところが、このように意識的な処理を省いた効率的な行動は
大きな変化に直面したときに困ります。

人間の行動の8割はシステム①レベルの直感で決まるからで
人々はエネルギーを消費する論理的思考を嫌がり、自動的な感情的処理を好んでしまうのです。

事故後の原発をめぐるパニックをみても、多くがマスコミにより刷り込まれた恐怖という感情が
人々を動かしていたことが分かります。


「電力が不足する」という合理的な計算より「原発が恐い」という感情のほうが強く
科学的データを見るより、正義の味方になって「悪い東電」「悪魔の原発」をたたくことを好んでしまうのです。

逆にアメリカ人はシステム①で共有している情報が少ないため
ほとんどの処理をシステム②で行ない、問題を契約や訴訟で論理によって解決しようとします。

このような情報処理は効率が悪いのですが
普遍性があるため、いわゆる合理主義が一定の有効性を持つことになります。

ただし、アメリカでも実はシステム①の処理の方が多く
それを無視して制度を合理主義だけで設計するとうまく機能しませんので
こうした感情を分析することなしには、政策立案も成り立たないでしょう。

 

なるほど、学問的にそうならば、これはこれでそれなりに説得力があります。

まずは「この野郎!」と激怒し、その後「冷静になって考えてみたら…」はよくあることですね。

ところで、本当に大変なのはこれからで
国が作成している資料などを基に今後の向かう道を選択していかなければなりません。 

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やはり、原発再稼働…

2012年06月02日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

震災直後、原発の是非を私なりに考えるため
エネルギーについてこのブログの一つの雑学として一生懸命学びましたが
結局はあまりに複雑に様々な問題が絡み合っていてはっきりとした結論に至らず
エネルギーの大量消費が経済活動の基盤である以上、とりあえず”必要悪”ではあっても
即原発をなくすることはできないと思わざるを得ませんでした。

一方世間では、ある学者の言っていた「原発停止で必ず日本は電力不足に陥る」は実際にそうなり
震災前に盛んに指摘されていた地球温暖化や化石燃料枯渇の問題はどこへやら
廃炉になっていた火力発電まで再使用した上でちょっと節約すれば
それで間に合いそうだから全ての原発はいらないと言っているのが表面的な現在の姿です。

“とりあえず我慢”というニュアンスがある「節電」 もそうなのですが
脱原発を火力発電でカバーしたり、自然エネルギーに置き換えたりする議論も所詮は
使い易い電気と言う形に変換したエネルギーを大量に消費する社会を
前提としていることに何の変わりもありません。

「将来の子供たちに安全で安心して暮らせる社会を残したい」と言いつつ
停電の心配や熱中症などの別の危険と隣り合わせの節電生活を
一体いつまで強制するのかと思っていました。

節電=我慢である以上、“期限なし”が長続きするはずがないどころか
現代生活になくてはならないプラスチックなどの原料となる大切な化石燃料を
原始の時代と同じ使用方法である燃料として燃してしまうのですから
以前にも増して枯渇時期を早めているのです。

もっとも、継続することが近い将来、ほぼ不可能になると予想される
化石燃料をベースにした社会を子供達に残したところで
開発途上国が先進国の様々な規制に対して抱く不満と同じ論拠で
「親であるあなた方は化石燃料を使い放題に使ってしまったじゃないか」と恨まれるのがオチでしょうけれど。

そんな側面もあり、原発事故以来、日本では枯渇問題ではほとんど話題に上らなかった事態が一転
一気にクローズアップされている太陽光・風力・地熱などの自然エネルギーですが
これとて、本当に安心・安全なのか、想定外はないのか、将来問題になる可能性は否定できません。

事実、原発だってそうだったのですから。

それよりもなによりも、29%を占めていた原子力発電を
僅か2%にも満たない自然エネルギーに代替させるには一体どれほど長い年月が必要か
つまり、一朝一夕に行かないことは火を見るより明らかではありませんか。

【参考】

日本の総発電電力量に占めるエネルギーの割合
(エネルギー白書2010)

水力   8.1
石炭  24.7
LNG  29.4
石油等 7.6
原子力 29.2
新エネルギー等 1.1

ところで、電力が本当に不足しているかどうかははっきりしないという意見もあり
今年も節電を試してみれば良いのでは、などと悠長なことを言う学者や一般人もいますが
問題は電力消費量の7割を占める現代社会の基盤として経済活動を営む企業なのです。

そもそも「節電」とは?

不要な電気は付けない、暑くてもエアコンの温度設定を上げる
植物でグリーンカーテンを作るなどなど…。

熱中症の危険は叫ばれるものの、ちょっと我慢すれば電気代も少なくて済んで
得をする程度の遊び感覚のレベルが一般人の節電に見えますが
例えば企業のそれを家庭に置き換えるとしたら
洗濯機を使わず“たらい”と洗濯板で洗濯するとか、電気炊飯器でなく“かまど”とお釜で飯を炊くとか
冷蔵庫の使用を止めて必要な分をその都度買いに行くとか、得をするのではなく
逆に損をする物理的及び精神的負担を強いる切実な内容になると思うのです。

切実とは売り上げや利益に直接影響を及ぼし
それが働く人の給料にも及ぶ、否それどころか、特に体力に余裕のない中小零細は
存続そのものにさえ影響が及ぶ可能性があるということです。

私自身、2年前まで一応零細企業の経営者でしたのでその必死さはよ~く分かります。

数年先の短期の近未来と、もっと先の中長期の話とごちゃ混ぜに語ること自体に無理があり
さらにここ1、2年先の話にしても、もしかしたらまた起こるかもしれない災害と
昨年実際に経験した節電による経営上の不利益とを秤にかけたら
当然の如く、まずは再稼働してかつての日常活動を取り戻し
その上でゆっくりと将来の電力について語って欲しいと思うことに全然、無理はありません。

一見、原発の必要性を叫ぶことはタブーとされた雰囲気が漂っていた中でも
企業家たちは政治家に対して裏で強大な力で働きかけていたことが
今回のあっと言う間の“逆転”原発再稼働で分かりました。

これを伝えるTVニュース内で町角のインタビューに答えるおばちゃん達が
なんだかんだと言いながらも何となくほっとしているように見えるのは私の気のせいでしょう。 

そして「暫定的」「限定的」という曖昧な表現はいずれ消え去るか
もしくは暫定的と限定的が繰り返されて再度「恒久的」になるのかもしれないとふと思ったのでした。 

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結局、私は原発に対して“日和見主義”です。

2011年10月01日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

40年ほど前の現役大学生の頃
全国的に学生運動なるものが“流行って”いました。

正直な話、今でもそれが何であったのか、ほとんど理解できていません。

60年の安保闘争の頃は勉学に明け暮れていましたし
60年代後半に起こった全共闘運動や大学紛争は、実際に目にしたどころか
大学占拠により半年間、休校になったのですから
大騒ぎの原因となった理論や主張をちょっとは学んだのですが
実際に活動に参加するほどの強い共感は持てず
結局、“対岸の火事”として長期休暇を楽しんだに過ぎません。

私を含めた多くの学生は当時、「日和見(ひよりみ)主義」と呼ばれ
もっぱら過激な活動をする彼らから批判されていました。

原発について学び始めた今
なんとなくその頃の心のあり様に近いものを感じてしまいます。

ちなみに、日和見主義(ひよりみしゅぎ)とは
ある定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利な方に付こうという考え方のことで
日和、つまり天気を観て行動を決めるかのようであるのでこの名が付きましたが
一般には政治的な右翼(保守)的立場を批判するのに用いられる言葉であるとされています。

“原発反対”を声高に叫ぶ方々は、少なくても現状維持ではないことは確かで
過激ではないにしても反体制的ポジションなのですから
学べば学ぶほど「さてどうしたものか」とどっちつかずの立場なって
とりあえず今のままでコトの成り行きを見守ろう、という私などは
まさに原発における日和見主義的立場と見られてしまうに違いありません。

と言うのも、原発“反対派”とか“推進派”とかに分けられても
元になるエネルギー問題自体があまりに大き過ぎて、かつ複雑で
なによりも“今”と“将来”がごちゃ混ぜに語られる傾向があるのですから
自分の立ち位置をどちらに置くかの判断ができないのです。

たとえ、反対・どちらかと言えば反対・どちらかと言えば推進・推進にしても
そこには時間の観念がないのですから。

医療においても、放っておくと余命いくばくもない患者に
他の病を患っている内臓をあえて移植、延命治療して
今後の医学の進歩を待つ治療があります。

未曾有の経験によって入手できた多くのデータによって
どの程度の安全対策が原発に施せるのか
自然エネルギーが本当に原子力、さらには化石エネルギーの代替になり得るのか
そしてそれはいつ実現できるのか
などなど、時間軸が重要な要素に思えてなりません。

日和見主義の説明の中に
「長期的な趨勢を踏まえた上で有利な側に付けば時には望ましい結果を得る事ができる一方で
短期的な利益のために立ち位置を変え続ければ信用を失うリスクを抱えるという見方もある」とあります。

政治家等と違い、信用を失うリスクなど何もない一般庶民にとって
この“世の中の長期的な動きを見ながら”が一番現実的であって
「原発反対」が念仏のように蔓延している中では口を閉ざしているにしても
人数の上では圧倒的多数であるに違いないのです。

より具体的に言えば、「出来得る限りの安全対策を施した上で
経過を見ながら止むを得ずそのまま使用しましょう」という私のように…。

 

(後記)

雑学としてエネルギーと脱原発について学び始めましたが
あまりにテーマが壮大、かつ複雑過ぎました。

そして、根本的・究極的解決は、日本では時代を150年ほど後戻りして
たかが5Wのロウソクでさえ贅沢品であった頃の社会だと思い至りましたので
この話題をこれ以上続けることは止めにしたいと思います。

今では「循環型社会」という概念としてのみ、世界がその方向を目指しています。

循環型社会

 人間を含めた全ての動物は、植物による光合成なくしては
大気中の二酸化炭素を無害なものに変換できず、生命をつなぐことができません。

食糧ばかりでなくエネルギーでも
また、地球上の様々な循環の仕組みを維持する上でも同様なことが言え
このバランスが成り立っている世界を「循環型社会」と呼びます。

今では、資源の枯渇による破局を回避し
永続性の有る社会を実現するための概念の一つとされ
省資源、省エネルギー、リデュース・りユース・リサイクルなど
個々の意識的な活動を背景として
経済活動におけるこれからの方向性を示す考え方だと言えます。

生態系の立場に立てば、物質は元来循環しているものですが
これまでの人間社会では、この点について配慮されたことがなく
不要物は単純に廃棄され、それは自然の循環システム
あるいは自然の浄化作用に任されていました。

人間の活動量がさほど大きくないあいだは、これでなんとかなったのですが
現在ではそれが大きく環境を圧迫するようになってしまいました。

これを、改めて視野に収め、物質の循環を助ける事を
考えようというのが「循環型社会」の概念です。

 





 

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「天然ガスは400年持つしクリーンだ」って…。

2011年09月15日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

僅かの説明だけですので、その根拠などはまったく分かりませんが
天然ガス発電所の建設構想を語る東京都の猪瀬副知事の口から出た言葉です。

今まで様々な資料を見てきましたが
天然ガスは約60年の可採年数のはずで、ちなみに石油は約50年ですが
それが突然、なんと400年に伸びてしまったのです

まさか試掘や実験段階のメタンハイドレートまで
含めているとは思えませんが…。

確かに、埋蔵量や可採年数には様々な意見が見られるのですが
このような大前提の数字がこれほど大きく変わるのであれば
これはもう「何でもアリ」になってしまいます。

「この発電所は5ヘクタールの敷地で済み、太陽光パネルでこの規模の発電をするには
東京23区の広さ(と聞いたような)にパネルを敷き詰めなければならず
非常に効率的と言える」のであれば、ましてや400年ももつのであれば
当面はなにも心配することはありませんね…

 

 

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“地球にやさしい”生活とは…①「反自然」の精神的背景

2011年09月10日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

 現在、こうして巷を賑わわせているエネルギー論議がすべて
人間一人が像9頭分(!)のエネルギーを自然界からかなり強引に入手して
それを消費することで人類を豊かにすることを前提にしているのですから
かのハイデガーも述べていたように、これはもとを辿れば近代欧米がもたらした「業」であり
今の人間社会は本質的に「反自然」と言わざるを得ないと思うのです。

もともと自然に対する一つの傾向として
西洋では自然と人間を完全に分離した考えを持っていますが
東洋、もちろん日本では人間は自然の一部と捉えられています。

例えば、それぞれの庭園を見て分かるように
東洋では自然をそのまま再現しますが、西洋では
自然界には存在し得ない幾何学模様
自然物を人間の能力で並べる作りをします。

つまり、西洋では人の知性は基本的に良きものであり
それによる判断に沿わない自然のあり方はこの判断に立つ限りなのです。

そして、欧米崇拝思想を丸ごと取り入れた日本もまた、明治時代以降
欧米では18世紀まで、日本でも19世紀後半の江戸時代までの永きに渡って
脈々と祖先が歩んできた「自然と共存する生活」を放棄したのです。  

 

 

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エネルギー問題の昨日今日

2011年09月07日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

石油の枯渇が多大な関心を集め電力などの節約が求められたのは
1973、79年の二度にわたる石油ショックが主因でした。

一方では、我々の時代は大丈夫だ、何を慌てているか、と冷静になるよう諭しながら
石炭、太陽光、原子力等のいわゆる石油代替エネルギーに
否定的見解を示し続けた人達がいたことも確かでした。

彼らの主張の一つの根拠は、100年に近い数十年先までもつ資源は
人類にとって無限に利用できるものとほぼ同じであり、そもそも
100年前の明治初期に我々は今の状況を予測できたか、ということでした。

さらに当時、早期実現が望ましいが
実現までには10~20年の期間が必要とされていた技術、例えば太陽光、風力発電等は
当時の議論ではすでに日本のエネルギーのかなりの部分を担っているはずでしたが
40年経った今でも僅かな比率に過ぎません。

また、1980年当時、石炭の液化技術が検討され、石油がバーレル当り30ドルであれば成り立つ
つまり石油の価格抑制力として有効なはずでしたが、単純な比較はもちろんできないにしても
最近の石油価格はその3倍の高値を経験しているにもかかわらず、この技術の話題は聞こえて来ません。

そもそも、1960年代後半、石油が石炭をしのぐ消費量になった当時
考えられていたエネルギーの中・長期の未来予想はどうだったのでしょう。

その頃、石油、天然ガスを使い切ったあとは、原子力
つまりFBR(高速増殖炉)か海水ウランの軽水炉、最後には核融合炉が主役となり
多量に存在する石炭が次第に減少しながら補完し、かつ
太陽光、風力発電などが利便的に活用できる範囲で共存していくというのが一般的な想定でした。

その道筋に変化が生じた主な理由は次の3つです。

第一に、環境問題を起因として
地球の(正確にはその表面の)有限性が表ざたになったことでしょう。

科学技術の進歩で、地球の環境を破壊しない程度の負荷を
人間が感覚的にも理性的にも認識できるようになり、「地球に優しい」という標語に端的に示されるように
ある部分では地球と人類の力関係が逆転したようにも感じられ始めたのです。

もっともこの逆転は、地表面に近いほんの一部の出来事であり
「地球に優しい」もある意味では“人間中心の露骨な表現”であって
地球が歩んできた46億年もの激動の歴史からすれば
現在の騒動は人類とその周辺の生態系のほんの僅かな範囲の危機に過ぎない話です。

所詮、短期逗留の居候にすぎない人類とやらの「優しさ」を
地球がどう感じ取っているかは知る由もありません。

しかし、そんな人類とて、宇宙を資源開発や太陽光発電用に利用することはあっても
何百万人という規模で宇宙に移住する可能性は今後数百年はないのですから
その間、ほとんど全ての人類は地球で生をうけ生涯を全うするはずで
これが明確になってきたこともそう古い話ではありません。

科学技術が掲げた「未知の世界の無限の可能性」も単なるお題目に過ぎず
人類にとってあらゆる限界が遥か彼方にあって見えなかった時代は既に過ぎ去ってしまいました。

第二に、持続可能性の観点が強調されてきたことです。

化石燃料の寿命が50年だろうが、300年だろうが
その先はどうするのか、という問いが急速に勢いをもってきたのは最近のことです。

石油ショックの時代に「資源枯渇は心配することはない」と抑えに回った人達でさえ
多くはたかだか50年先を言及したに過ぎず、このまま推移すれば化石燃料はいつかは枯渇するのであり
利用できる今はほんの過渡期に過ぎないということです。

そして第三には、今までに実質的に持続可能エネルギーと考えていた
原子力関連の将来展望にカゲリが出て少なくとも主人公とするには
あまりに不安であることが認識されたことです。

もし原子力の利用が現在のレベルで止まるとするなら、つまりウラン鉱からの軽水炉だけとするなら
可採年数が60年の枯渇エネルギーに分類されることになってしまいます。

ありのままを言えば、150年前から人類は半ば“成り行き”で化石燃料
特に石油を多量に使うようになってきました。

当初、このどす黒くて粘性が強くとても役に立つとは思えなかった液体の有限性
大量消費に伴う弊害などは念頭にありませんでした。

しかし、あれよあれよという間に使用量が増大し先はどうなるのかとの懸念も芽生えはしましたが
時は科学技術の怒涛の快進撃期、石油や石炭を掘り尽くしても
原子力か革新的技術かでなんとかなる、と漠然と期待していたのでした。

しかし、どうもこうにも他に頼りになるものはない
しかも、人類の活動量が現代のレベルに達した以降
地球表面で生存できる範囲の脆さ、小ささが意外に身近に判ってきた今
つまり、資源枯渇に加え、化石燃料大量消費に因るとされるCO2主因の地球温暖化の脅威に遭遇し
このまま化石燃料に依存し、一方通行・行き止まりの大量生産・消費・廃棄の道を突き進むことの是非は判っていながら
未だに多くの一般庶民はエネルギー供給での化石燃料が主役の結末に
正面から向かい合わないどころか目をつむっているようでさえあります。

再生可能エネルギーで誰かがすぐになんとかしてくれるまで一時的に我慢すればよい、と思いながら
売り切れが予想されるこの冬の石油ストーブをすでに買い込んでいるのです。

それよりは排ガスが綺麗な電力を節電し化石燃料を燃すために。

 

 

 

 

 

 

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悩める原子力②

2011年09月05日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

本来、長期的に人類の未来を託すべきエネルギーであったはずの原子力ですが
今回の事故から来る世論の硬さはほぐれそうにありません。

高速増殖炉の早期実用化は困難なのか、海水中ウランの濃縮は将来とも経済性を持てないのか
核融合は結局は商業化不能の夢で終わるのかなど、軽水炉から核融合までを
まとめて一括りにして原子力を語ることは、そもそも乱暴な話ではあるのですが
期待が大きかった故にこのような否定的疑問文で語られるようになってしまい
これまで原子力に関与した人々の嘆きはさぞかし大きいことでしょう。

一方で、化石燃料亡き後の再生可能エネルギーについて
いろいろな選択肢はあるもののどれも不確実性は否めないことも事実です。

世界の人口が100億人近くになり、一人当りのエネルギー消費の伸びが
とどまるところを知らない現実の状況がこのまま続くと仮定すると
この優れた資質と、現在でも世界のエネルギー消費の17%を担っている
原子力の実績になんとか頼りたいという心情は消えません

と言うより、この仮定を認める限り、どのような形かは別として
原子力エネルギーに相当な割合を委ねる以外の道はないというのが
将来のエネルギーに対する指標のうちで
最も確度の高いものの一つであることに変わりはないと思うのです。

ただし、現時点でこのことを表立って口にする政治家、学者、評論家などはいません…。

ちなみに、日本の原子力委員会の原子力白書は毎年3月に刊行されますが
2030年以降も原子力発電が日本の総発電量の30~40%程度
それ以上の役割を果たすように推進し、その内訳として
2100年時点では高速増殖炉7割
残りが軽水炉となる中長期イメージを提示していました。

これが今後、国民感情を逆なでしない希望的将来像と
多分に曖昧な表現が多くなるのでしょうが
さてさて、どのように変わっていくのでしょうか。

 

 

 

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悩める原子力①

2011年09月03日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

1951年、米国で最初の歴史的な原子力発電がなされました。

すでに50余年というべきか、まだ50年というべきかは別にして
誰の目にも明らかなことは、当初の期待に反して順調とはとても言い難い状況になったことです。

当初の期待が最大限に実現していれば
エネルギー供給の将来の見通しにさしたる議論もないままだったこと
そして太陽光や風力などの再生可能エネルギーなどは
補助的な活用を負わせる立場に並べられていたに相違ないのです。

同時に、我々の世代は未来の子孫達に、優れた原子力技術と
エネルギーに対する余裕感を残せたはずでした。

しかし、今、なによりも安全性の確保、以前から未解決の放射性廃棄物の処理
そして経済的にも成立する他電源の確保などの課題が山積しています。

最近では、原子力への国の補助金についても、今まで期待が大きかった反動もあって
育英のための奨学金を貰っていたと思っていたら十分に働きもしないうちに
もう介護保険がいるのか、と酷評されたりもしています。

エネルギーについて考える時
原子力は避ける事が出来ない重要なテーマだったはずですが
最近のエネルギーや環境を扱う評論や書籍における原子力の扱いは極めて軽く
否、悪の代名詞にさえなってしまいました。

このまま推移すれば、せいぜい60年で寿命が尽きる
ウランの利用は電気だけ、ということになるのかもしれません。

しかし一方では、これほど魅力的な電源がないことも事実です。

当面、CO2を排出しない利点が強調されていますが
一番の魅力はその永続性にあります。

現在の消費量が続くとして、確かにウランを今の軽水炉で使えば
可採年数60年の埋蔵量であって石油や天然ガスと変わらないのですが
海水中に微量に含まれるウランを回収すれば
1000000年(100万年)はもつとされています。

例えそうしなくても、ご承知のように高速増殖炉を使えば1万年
また核融合が出来れば5000万年以上(海水中のリチウムを使うとして)と
人類は永久にエネルギー問題から開放されるのです。

つまりは本来、長期的に人類の未来を託すべきエネルギーであって
石油代替やCO2対策といった立場、文脈で出てくるべきものではなかったはずですが…。

 

 

 

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ある記事「石炭は核よりも危険」の原文紹介

2011年09月02日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

米国ウォールストリートジャーナル H.J氏の記事から
(一部、分かり易いよう書き直しや加筆しています)

ドイツのある州では、日本の原子力発電所の危機を受けて複数の原発を一時的に停止したが
反原発の姿勢を維持するなら、その結果もたらされる電力不足には
消費者が価格の大幅な上昇を受け入れることで対応するしかない。

風力や太陽光はまだまだ夢の話だ。

選択肢となるのは原子力か石炭だ。

いまやチェルノブイリと並ぶレベルとなった日本の惨状を受けて
ただし、放出された放射性物質の量は比較にならないほど低いのだが
世界中の国々が同様の選択をしている。

どこの政府も、さまざまな考え方が入り乱れた現代科学の難問と再び向き合うこととなった。

すなわち、「低レベルの放射線を浴びると、どのくらい害があるのか」という問題だ。

過去60年間、異常な量の放射線を浴びた人たちの間で
“過剰な発がん率”があるかどうかが研究されてきたが
その結果は科学的に満足なものではなく、厄介なものとなっている。

米国と日本の政府が共同で行い、かつては評価されていた広島と長崎の研究では
低線量の被ばくでは、がんのリスクはほとんど、あるいは全くない」という結果だった。

むしろ、低線量の被ばく者は“がん以外の病気”による死亡が少ないことから
長寿につながる」とも考えられた。

だが、この原爆の研究はここ数十年で科学的な価値が疑われるようになった。

理由の一つは“生存者に見られる特別な偏り”だ。

つまり、「生き残った人たちは原爆だけでなく、その後すぐに住居の喪失や飢え
台風などを経験しくぐり抜けてきたため
一般的な日本人より屈強な人々ではないかと考えられる」というのだ。

1980年代には、胎児のときにエックス線を浴びた英国の幼児の調査や
米国核施設の労働者の調査が行われ、原爆の研究は次第に脇に追いやられるようになった。

これらの調査では、シンプルで直感的な
正比例的で閾値がない」ことが証明されたと考えられたのだ。

つまり、放射線の危険度は、「線量に正比例するのであって
ある値を境にして危険度が急激に変わることはない
」というのだ。

これらの調査にも問題はあった。

英国の母親たちは、出産後何年も経ってから
妊娠中に何回エックス線を浴びたかを記憶に頼って答えなければならなかった。

米国核施設の労働者の調査でも、3万5000人の労働者の中で2500人ががんにかかり
「平均的よりも6%~7%が過剰な発症率だった」と主張していた。

ほかにも、さまざまな説がある。

研究所内の実験では、低レベルの放射線は細胞自体の修復機能を刺激すると考えられた。

放射線科医を対象とした研究では
エックス線の危険性が知られる前に仕事に従事していた人たちの間では
発がん率が高いことが示された。

しかし、のちの調査では、少量の放射線を一生涯浴び続けても
まったく影響がなかったという結果も示された。

そして「ホットパーティクル(放射能をもった粒子)」の問題もある。

つまり、本当に危険なのは、飲み込まれたり吸い込まれたりする“内部被曝”により
体内に長期的に存在し続ける粒子ではないかという説だ。

通常は放射線が皮膚から入ってこないようなエネルギーの低い粒子でも、これが起こり得るという。

1986年にウィーンで開かれた会議では
チェルノブイリの事故でこうした議論に結論が出るのではないかと専門家たちは期待した。

その中の一人が言った。

「20年か30年のうちには、比例仮説が正しいかどうかが分かるだろう。
少なくとも、白血病や肺がんとの関連性は分かるはずだ」と。

しかし、そうはならなかった。

放射線を浴びた子供たちの間では、治療可能な甲状腺がんはかなり増加した。
(これは、当時もっと迅速な行動をとっていれば防げたものだ)

しかしそれ以外は、国連の監視プロジェクトでは、チェルノブイリ地域の住民の間に
「がんの発病や死亡率の上昇を示す科学的な証拠」は見つからなかった

しかし、だからと言って
「過剰な発がん率」による死亡を予測する他の何万もの研究を止めるには至っていない。

そうした研究は、欧州中で何十年にもわたって行われ
すべて「比例的であるが閾値はない」モデルを基盤としている。

また、どこの政府でもそのモデルを規制の基準としている。

これらのことがすべて、日本では直接的な意味を持つ

中でも、ホットパーティクルの問題はいずれ大きな懸念材料となるだろう。

「比例的で閾値がない」とする考え方では
日本政府はどのレベルの放射線も「安全だ」とは言えなくなってしまう。

たとえそれが、平均的な人にとっては、無視できる程度のリスクのものだったとしても。

この先何十年にもわたり、発がん率の小さな変化を巡る論争や
ある患者が「福島原発の犠牲者か」という答えの出ない論争に日本政府は振り回されるかもしれない。

他方、どこから見ても、核よりは石炭の方がずっと危険であることは
統計的な予測ではない実際の死者数を見ても明らかだ。

毎年、炭鉱事故(特に中国での事故)で死亡する人の数は
核関連の事故の死者数合計より数千人以上多い。

さらに、石炭火力発電所では水銀や他の金属など有害な物質を排出する。

加えて、放射性トリウムやウラニウムなどの排出量は原子力発電所よりも多い。

水銀などの金属は、「比例的で閾値のない」考え方に、まさに沿うものである。

2004年に米環境保護省が出した推計によると
当時推進されていた新たな排出基準に従うだけで年間1万7000人の命が救えるという。

しかし、ドイツの前述の州にとって
放射能と炭鉱事故の危険度を比較するなどは考える以前の問題だ。

そう、どちらにしろ、原発は廃炉にするに違いない。

彼らの「反原発」は、検討すべきテーマではなくて“信念の問題”なのだから。

 

 

 

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石炭は今…

2011年09月01日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

最近ではすっかり話題に上らなくなっている石炭ですが
その現状を知る方はどの程度いらっしゃるのでしょうか。

三大化石燃料のうち、石油は液体で使い易く長らくエネルギー界の主役ですが
最も早く枯渇すると想定されています。 

天然ガスは、硫黄や窒素を含まずクリーンで、21世紀の主役と目されるのですが
現状のままでは石油と同じ時期に枯渇に向かうことになるでしょう。

石炭は固体でかさばる上に硫黄、窒素、重金属など公害成分や灰を多く含む一方
埋蔵量は石油・天然ガスの数倍以上あります

ところで、化石燃料とは「過去の動植物などの死骸が地中に堆積し
長い年月をかけて地圧・地熱などにより変成されてできた有機物の化石のうち
人間の経済活動で燃料として用いられるもの」の総称です。

このうち石炭は“化けて石の如くなった化石”の名にもっともふさわしく
液体の石油や気体の天然ガスに対しても使われていることはどこか不思議な気がします。

石炭は現在でも世界の全エネルギーの3割を超えた石油に次ぐエネルギー源であって
それどころか、2000年以降、世界の石炭需要は大幅に増加、特に新興国や開発途上国を中心に
エネルギーコストが相対的に安い石炭にシフトしている傾向さえあるとされています。

世界の電力供給における石炭の火力発電比率だけを見ても
特に使い勝手が良く経済的なため、発電量の4割を超えていて
米国で5割、ドイツでほぼ同じ5割程度、日本でも3割近くのウェイトを占めています。

ここ日本においては、“黒いダイヤ”ともてはやし多大の恩恵を受けて来たにもかかわらず
SOx、NOxおよび灰に加えCO2が議論の焦点になってくると
幾多の犠牲者を出しながらも戦前の産業振興、戦後の復興を担ったきた炭坑は
2002年、数億トンの石炭を地下に残したまま全てが閉山してしまいました。

以後、石炭に代わって石油の話題だけが身近で聞かれるようになりました。

確かにCO2の排出量を見ただけでも
同一発熱量では石炭の100に対し石油80、 天然ガス56の比になり
石炭利用のアキレス腱になっています。

そもそも、温室効果ガスであるCO2は、その約80%が化石燃料の燃焼に起因するとされています。

しかし、化石燃料の利用はアジアを中心としたエネルギー消費量の増加や人口増加を背景に
今後も増え続けると見込まれ、それにともないCO2排出量の増加が予想されています。

こうしたことから、太陽光・風力などの太陽を起源とする再生可能エネルギーや
原子力に後世を託す作業を進めていたのですが、このうち原子力に暗雲が垂れこめた今となって
その引き継ぎが石油・天然ガス時代に終ればよいのですが、遅れれば
石炭に再び主役に近い役割を期待せざるを得ない時代が来るかもしれませんし
その前段階でも、石油・天然ガス時代をより長く保つためには
いかに石炭をうまく使えるようになるかが一つの重要な要素になると予想する研究者もいるほどです。

この場合には、石炭のガス化発電や液体燃料化など
高効率でクリーンな石炭の利用技術の開発が進むことになるのでしょう。

ただし、石炭が世界の全エネルギーの5割を占めていた半世紀前の教科書的見解では
「熱源や電力用などの燃料としての石炭の利用は好ましいことではない」ことであって
決して「CO2,SOXなどが環境を汚すから使わない方がよい」ということではありませんでした。

つまり、石炭を含む化石燃料は主として炭素と水素からなる貴重な有機蓄積資源のため
原子力や自然エネルギーで間に合わせることができないだけでなく
いずれ枯渇する宿命にあるため、電力や熱などの膨大かつ低レベルの用途にではなく
化学工業などの高いレベルの利用にすべき大切な資源である、とされていたのですが…。

 

2種類のガス

都市ガス…1970年代までは石炭から作られたものの比率が高かったのですが
現在では主として、液化天然ガス(LNG)やナフサ等の原油を原料に作られます。
空気よりも軽く、常温でも液化しづらいというのが大きな特徴です。

プロパンガス(LPG)…石油・天然ガスの副生ガスから不純物を取り除いたもので
ブタンやプロパンなどを主成分とするガスです。
常温でも圧力をかけることで比較的簡単に液化、かつ
体積を250分の1に圧縮できますので可搬性に優れています。

 

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大切な化石燃料は“一瞬の出来事”?

2011年08月30日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

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(西暦0~3000年で予測されている石炭と石油の消費動向)

 

化石燃料大量消費の歴史

1769年(江戸中期) ワット蒸気機関の発明とその後の産業革命により
石炭の大量消費開始
1855年(江戸末期) 咸臨丸(石炭による蒸気機関船)を江戸幕府がオランダに発注
1878年(明治初期) 世界初の水力発電…電気エネルギーを基盤にした社会のスタート
1883年(明治初期) 日本初の電力会社設立…1961年頃までは水力発電
富国強兵に必要だったとされている
1887年(明治初期) 日本初の火力発電所…その後、水力に代わり1962年を境に
石炭による火力発電が主役になるが、さらに
60年代後半には石油が石炭をしのぐ消費量になる

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本来、限りある貴重な有機資源である化石燃料を燃やして
電力や熱などの膨大かつ低レベルの用途に使うのは勿体ないことで
医薬品やプラスチックなどの化学原料として末長く利用すべきものであるとする意見に
個人的には大いに賛同できます。

少なくても、灯りや暖を取るために燃すのであれば
北京原人以来の使い方となんら変わらないのですから。

しかし、他の代替すべきエネルギーが未熟であれば背に腹は代えられず
今後も想定されている通り、熱利用・電力利用は抑制されるどころか増大を続けていくことでしょう。

そして今、自動車などの燃料として大量に使われている石油が
まず供給のピークを迎える、つまり、価格が暴騰して他のエネルギー資源に道を譲る日がくるのです。

現実的には、ある日、先物原油価格がストップ高になり
それもマネーファンドの投機や中東の急な政治情勢変化などでアップダウンを繰り返すのではなく
ずっと高値で張り付いたままになるということでしょうか。

上図に示すように、地球が樹木やプランクトンなどを素材とし、数億年の年月をかけ
圧力や温度を調整しながら丹精込めて作り上げた石油や石炭等の化石燃料の消費は
人類の歴史はもちろん、文明の発祥4~5000年の時間スケールで考えても
ほんの一瞬の出来事なのです。

そして、利便性の高い石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料の恩恵を享受できるのは
我々を含めたせいぜい500年間の世代のみです。

この人類の“一瞬の夢”のあとには、どのようなエネルギー社会が待ち受けているのでしょうか。

人類の習性からすれば、化石燃料の大半は使い果たして
申し訳程度を子孫に残すということになりかねませんが
その前に、替わるべき新しいエネルギーの供給体系の構築は可能なのでしょうか。

 

今からおよそ40年前、石炭産業における大卒の初任給が
例えば自動車メーカーなどの2倍以上だった理由が
すでに“枯渇”間近なことによる斜陽化のためと当時は思っていました。

ところが、実態は石炭の枯渇ではなく、液体で運搬性の良い、また熱効率の高い石油に
その立場を奪われたことが原因だったことを、今から数年前に中国の火力発電の話題で知りました。

 

 

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石油の寿命を探る(2)“仮定”によって大きく変わる数字

2011年08月26日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

〇偏っている石油消費量〇

世界のエネルギー消費量を
一人当たりの石油消費量(96年)で見てみますと次のようになります。

アメリカ 8044
日本   3661
インド    297
世界平均    1464(kg)

*2010年のデータですが
中国は1人当たり700kgくらいです。

インドよりさらに低い国々がまだまだあることは言うまでもなく
インドとアメリカを比べただけでもそこに27倍の格差があることが分かります。

言い方を変えると、1人のアメリカ人は
27人のインド人と同じだけのエネルギーを使っているということです。

そして、世界人口の4分の1、つまり先進国だけで
世界のエネルギーの8割
を使っていることも分かっています。

 

〇米国の立場〇

国によって1人当たりのエネルギーー消費量は最高と最低で3桁も違う
つまり、1人のアメリカ人が最貧国の人たちより3桁も多いエネルギーを使っているのですが
可採年数を求める時には世界平均で計算してしまいます。

こうした平均数字を使って計算すると、日本の33年などという数字が算出されますが
もしもインドの数字を使えばどうなるのでしょうか。

インドは世界平均の約5分の1だから
これを使うと年数は5倍に伸びて160年となり
可採年数が何年という場合はこういう前提についてよく考えてみる必要があります。

逆に、世界全体がアメリカのペースでエネルギーを使えばどうなるのでしょう。

アメリカは世界平均の約5倍のエネルギーを使っているわけですから
年数は5分の1の7年、つまり、あと7年で石油は採れなくなるのです。

インドのペースででしたら160年は大丈夫なのに。

ちなみに、日本のペースでしたら世界平均の2.5倍ですから
年数は5分の2、つまりあと13年となります。

このような前提とされる条件が隠されていることが問題にならない
またはどこかで問題になっているのかもしれないが一般の人々にまで伝わらないのはなぜでしょうか。

それはアメリカがデータの出所になっているからと言われています。

つまり、自国のペースなら石油は7年で終わるなどと公言するわけに行かないのです。

それどころか、政府はエネルギー消費が今後かなり増えるという予測をすでに発表しており
石油に大きく依存する体質を根本から変えようという姿勢は見えません。

 

〇結論〇

このように、「石油があと何年つかえるか」という問いに対しては
新たな油田の発見をどの程度に見積もるか、石油の消費量をどう予測するか
油田探索・採掘技術の進歩をどう想定するかなど、いくつもの予想や仮定が入り込んでくるため
将来予測は極めて困難なことが事実のようです。

なかでも石油の消費量をいくらと仮定するかで年数が非常に大きく開くことには驚かされます。

また、石油の危機は常に「人類」の危機として語られていますが
それはたかだか人類の4分の1が石油を使いすぎているからに過ぎないことで
4分の3の人々にとっては迷惑な話だということも分かりました。

「そんなことを言っても現実にこれだけ使っているのだから仕方がない」は
湯水のごとくに石油を使っている消費大国の言い訳に過ぎません。

ただし、重要なことは、30年だろうが50年はたまた100年だろうが
使い切り燃料”である以上は無くなることが確実だということです。

つまり、例え500億バーレル(約70億トン)の油田が発見されたところで
現在の使用量からすれば一年間、化石燃料の枯渇を引き延ばすだけに過ぎず
これほど多量の石油を使い続けること自体が問題の原点ではあると言わざるを得ないのです。

 

化石燃料のとりあえずの可採年数
 石炭     133年
 原油(石油)  41年
 天然ガス    60年

 

 



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石油の寿命を探る(1)垣間見える米国の影

2011年08月24日 | (雑学Ⅱ)脱原発とエネルギーの話

さて、いちばん詳しい石油の情報はどこにあるのかというと
どうもアメリカ、とりわけ確実なデータがありそうなのは国務省の「地質調査局」のようです。

その理由は何といってもエネルギー資源をいちばん欲しがっている国ですし
世界の石油の4分の1にあたる26%がアメリカ一国で消費されているからに他なりません。

(最新データでは中国等の伸びが著しいため、米国の比率は下がっているかも)

 

【様々な説の要点】
 

米国地質調査局の報告書(2000年)

(1) これまでアメリカ国外で生産された石油は5390億バレル、国内で生産された石油は
およそこの3分の1だから合計すると約7000億バレルほどを世界が採掘して来たことになり
すでにアメリカ国内の残りはわずかになった

(2) 確認埋蔵量と未発見埋蔵量を合わせると2兆1200億バレルと見積もることができ
仮に世界の年間消費量を現状の270億バレルとすると枯渇年数は78年となる。

(3) 天然ガスの埋蔵量も、石油換算でほぼ同じ程度と見積もることができる。

(4) 石油の埋蔵量は、アフリカ大陸・アメリカ大陸の大西洋岸
それから中東で見積もり量が増えている。
しかしメキシコや中国については減っている。

*1バレルは約159リットル(ドラム缶に八分目まで石油を入れた程度)

 

上記勤務の地質学者M氏

(1) 石油の需要が生産量を上回ってしまう〈大反転〉
やがて起きるのは不可避であり
その時期は2003年から2020年までの間と思われる。

(2) 〈大反転〉の後は、売り手市場となって価格が上昇する。

(3) 新規に発見される石油の量は時とともに次第に少なくなっている。
技術の改良や油田の発見で増える量は限られている。

*いつ石油が枯渇するかについて述べていない。
*〈大反転〉という考え方がネットのあちこちに大量に引用され有名になった。 

 

米国研究者G氏

(1) 石油は生物の遺骸が変成したものではない
石油の中にふくまれる生物の生存を示す物質は後から混入したものである。

(2) 太古から地中深くに古細菌に属する生物が生息してきた。
この生物は地中の炭化水素をエネルギー源としていた。

(3) 地上の生物より多くの生物が地中深くに生きている可能性が高い。

(4) 石油は太古から地中深く存在していた炭化水素が岩石の隙間を通って上がってきたものである。

(5) 数々の証拠から考えて、地下深くにはまだまだ大量の炭化水素が眠っている

*「石油は化石燃料ではない」とする説。地下深くに見られる炭化水素が生物起源ではなく
太古からマントルや地殻に存在しているとすれば、量が非常に大きなものとなり
これまで書いてきた可採年数の話がばかばかしくなるほどの莫大な量の可能性もある。
もしもこの説が正しく、しかも地下数キロという深いところの採掘が可能であれば
石油などの炭化水素資源は、理論の上で今後まだまだ利用できることになる。


日本の試算(米国の数字を基にしている)

02年11月26日に石油鉱業連盟が可採年数と枯渇年数を発表しました。

(1)確認埋蔵量に基づく可採年数は33年、そのほかに今後の推移で17年分は確保できるので
その分を入れると可採年数は約50年となる。また、究極の枯渇年数は79年

*東大のA氏は「この予測は結構悲観的なものに属する。
それは、石油がいくらでもあるという話しを書くと
石油の価格が下がるからだと言われている」と述べています。

 

【採掘できるかどうか、は仮定に過ぎない】
 
石油の可採年数(採掘可能年数)を求める時には
埋蔵量の全体が採掘可能なのかどうかを見きわめなければならず
単純に確認埋蔵量を現在の生産量で割ればいいことにはなりません。

G氏の言うように、もしも石油(含む:天然ガス・メタンハイドレートなど炭化水素)が
海底や地中深くにきわめて豊富に存在しているとしても、問題はその採掘方法ということになります

これまで石油は生物起源だという考えから、ほとんど採掘は堆積層で行われてきたものが
この説では火成岩層にまで及ぶからです。

 

【石油が燃えると二酸化炭素が出る】

これまでの化学工業の歴史を見ればわかるように
石油を原料とすれば無数の人工合成物質を作ることができます。

ただ、それが人体や生態系にどのような影響を与えるかが
すべて分かっているわけではない、否、それどころかわからない物質のほうが遥かに多く
大きな影響を及ぼす物質が次々に増える可能性が大きいし、現にそうなりつつあります。

 また、燃やすことによって様々な分解生成物が大気中にまき散らされてきました。

石油消費量の半分以上は交通機関によるもののため
自動車の排ガスが都市の大気汚染の大きな原因となっていますし
二酸化炭素の排出量が莫大であることから
地球温暖化の最大の原因とされていることはご存じの通りです。

また、空気中の二酸化炭素濃度が高くなると、人間は危険な状態に置かれます。

濃度が 3~4% を超えると頭痛・めまい・吐き気などをもよおし
7% を超えると数分で意識を失います。

この状態が継続すると、麻酔作用による呼吸中枢の抑制のため
呼吸が停止し死に至ります(二酸化炭素中毒)。

一方、植物にとってはなくてはならないもので
光合成によって酸素と有機化合物が生まれ、その有機物が動物の起源となりました。

 

 

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