保護猫と暮らす隠居爺の“自然農法”野菜作りとスキーの日記

5~11月は自然農法による自給用野菜作りと冬に備えた体力作り、12~4月はスキーに明け暮れ、保護猫活動は1年中無休です。

住所の謎…(第三話)そして、まず地番が付けられた

2011年07月28日 | 世の中のあんなコト、こんな事


(江戸時代、人糞尿は貴重な“肥やし”でした) 

耕作者ではなく、土地所有者(地主)を納税義務者とし
全ての土地に課税して一定の額を金納させる新しい税制の下では
「あのへんは田吾作の田圃」では済みません。

しっかりと境界を定めて整理した上で土地に番号を付けるという
我が国始まって以来のことが行われることになりました。

つまりはこれが「地番」の始まりで、国の柱になる税金を徴収するため
明治初期には日本中の土地に番号が付けられ
所有者(納税義務者)、所在、面積、地目が記載された地券が発行されました。

これをまとめた地券台帳は、その後、土地台帳、登記簿と変遷して行くことになり
同時に、地券を基に、それまで禁止されていた売買も可能になりました。

さらに、廃藩置県に続いて市制なども次々と実施されていましたので
それまでの「信濃の国・北部郡(こおり)・長野村・門前集落の南端に住む田吾作」が
「長野県・北部郡・長野村・大字門前・字南端678番9」などという地番により
田吾作が住んでいる住居の場所を特定できるようになり
そのまま住所として使われるようになりました。
(例に挙げた住所の変遷はあくまで“創作”です)

京都市街地に残る「通り」を基準に
上ル(北側に入った場所)、下ル(南側に入った場所)
東入ル(東側に入った場所)、西入ル(西側に入った場所)などは
この”昔の田吾作の住居の表し方”がそのまま現代にまで使われている例なのでしょう。

なお、国有地は登記されないので「地番」が付されず
例えば、皇居や宮内庁には「住居表示」はあるが「地番」はなく
京都大学も法人化されるまでなかったようで
この場合、最も近い“地番の付いた”土地の番号を用いて
「○○町××番地先国有無番地」とされました。

明治以来、一貫して国有地である土地上の建物の所在(住所)は
すべて「国有無番地」ですが、網走刑務所は「網走市字三眺番外地」で
これが基になって、この刑務所そのものを網走番外地と呼ぶようになったりしました。

なお、「住居表示」実施以降は、建物の並び順に市区町村が番号を振り当てるので
国有地上の建物でも「番外」となるようなことはなくなっています。

さて、こうして生れた「地番」ですが
その付け方について政府からの指示は特になかったため、一定の方式はなく
それに携わった人(村人が測量を行い役人が検査する)の足取りの順に付された、などとされていて
「村」や「字」単位の通し番号が原則とは言え、住人の利便性や生活との関わり合いは一切ない
どこが起点かさえ不明な番号が付けられた、といいます。

この付番の仕方が原因か、はたまた、その頃存在した
大きな村の中のさらに小さな単位の「字」がその後消滅したためなのかは定かではありませんが
5番の隣にいきなり90番が出てきたり、その向こうに2000番があったりする
訳のわからなさが、実際には数多く見られます。

一部には、当初の「地番」は土地の番号というより、むしろ
“土地所有者(納税義務者)に付けられた整理番号的なもの”だったため
その人が移転した場合には、持ってる番号ごと移動してしまい
そして、元の土地には、新しく入ってきた人が持っている番号が自動的に付いてしまった結果
年数が経つと地番はグチャグチャになった、という説もあります

この意見について、下のコピーを下さった地番のおおもと
法務局のYさんは「それは違うと思います」とのこと…。

 
(法務局備付けの地番に関する分厚い本の一部コピー)

ところが、約10年かかって「地番」を付け終えてから約80年後の昭和37年
人々が頻繁に手紙を書いたり、初めての土地を訪れるようになると
何の法則性もない「地番」をもって住所としていることは
とにかく分かり難く不便になってきました。

そこで「住居表示」という新しい表現方法が登場することになるのです。

 

 

 

コメント
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