保護猫と暮らす隠居爺の“自然農法”野菜作りとスキーの日記

5~11月は自然農法による自給用野菜作りと冬に備えた体力作り、12~4月はスキーに明け暮れ、保護猫活動は1年中無休です。

「首吊りは自殺の王道」

2012年09月11日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

昨日、73歳の現職大臣の自殺のニュースが流れました。

「高齢者の自殺」という括りで捉えることができるかどうかは別にして
また、不謹慎のそしりは甘んじて受けるとして
自殺を語る際の参考に、この首吊り=縊死(いし)について詳細に書かれている
鶴見済著のベストセラー「完全自殺マニュアル」から、以下を抜粋してご紹介します。

 

首吊り

確実、簡単、苦痛なしと三拍子そろって老若男女を問わず圧倒的な人気。
言わずもがな、の自殺の王道 

身も蓋もない結論を言ってしまうようだが、首吊り以上に「安楽」で「確実」で
そして「手軽」に自殺できる手段はなく他の方法なんか考える必要はない。
「なーんだ」と思うかもしれないが、いくら調べたところで
これ以上の手段は見つからないんだからしかたがない。

以下に詳しく書くが、それくらい首吊りは優れている。
人類が考え出した芸術品と言ってもいい。
だからこそ毎年、日本の自殺者の半数以上がこの手段を選び
古今東西を問わず広く用いられてきたのだ。

首吊りの最大の長所は未遂率が極端に低いことだ。
紐が切れたり、紐をかけた木の枝が折れたり
あるいは決行直後10数分以内に発見されたりしないかぎり
成功する確率は100%だといっていい。
服毒したうえ切腹したが死に切れず、線路で電車を待ったがこれもダメで
しかたなく崖から飛び降りたがそれでも死ねず
ついに崖を這い上がって松の木で首吊り自殺した人がいた。
首吊りの確実さを物語っているケースだ。
自殺するなら首吊り、志願者はこれをまず念頭に置いておくべきだろう。

〔準備〕  縄1本の手軽さ

用意するものは紐1本でよく電気コード・ベルト・縄など
首に巻きつけることのできるものであれば、なんでもかまわない。
ただ、なるべく柔らかく首にぴったりとフィットするものを選ぶこと。
デパートの包装用のビニール紐などでも、100kg程度の体重を支えるには十分だ。
これが針金などの切断力のあるものなら、首を切り落とすこともある。
板橋区の橋の欄干に車の牽引用ワイヤーの一端を結び、もう一端に首を括りつけて
川に飛び込んだ男の死体は首だけが切り落とされて川に流れ、変死事件と騒がれたし
同じく車の牽引用ワイヤーを木に結び一端を自分の首にかけて、そのまま車を発車し
首切り自殺した勇気ある会社員もいる。

(座ったままでもOK)

縄をかけるのは、折れやすい細い木の枝などでなければどこでもいい。
中1の少年が本棚に5寸釘を打ちつけて首吊りした例もある。
ただ、縄をかけるのに適したところが見つからない、ということは十分にありうる。
病院や留置場内などでは特にそうだろう。

しかし首吊りは、自分の身長より高い位置に紐をかけなければできないものではない。
足や尻が床についていても、十分に死ねる。
病院のベッドで首を吊る人も多いし、理論的にも可能だ。

その理論を説明する前に
首を“絞める”場合と、“吊る”場合の違いについて説明しておこう。
前者の場合、死因は気道がふさがれることによる窒息死が多いが
後者の場合は、脳に行く血液が遮断されて脳内が酸欠状態になるためである場合が圧倒的に多い。

脳に血液を送る動脈は2種類ある。
「頸動脈」と脊椎のわきを骨に保護されながら上っていく「脊椎動脈」だ。
首を絞める場合は、「頸動脈」はふさがれても骨に守られた「脊椎動脈」はふさがれない。
ところが首を吊る場合は、斜め上方から首がひっぱり上げられて角度がつくために
両方が同時にふさがれ、瞬時にして脳への血液供給が止まる。

その差は死体を見ればよく分かる。
首を“絞めた”死体の多くは、「椎骨動脈」による脳への血液供給が続けられるのに
逆に脳から血液を送り出す「頸静脈」がふさがれているので、顔が紫色になって鬱血しているが
首を“吊る”場合は、ほとんど鬱血が見られないのだ。

さて、ここまでわかったところで、首を吊る高さの問題に戻ろう。
首を吊る場合、血圧が170mmHgの人なら頸動脈は3.5kg、椎骨動脈は16.6kgの力でふさがれる。
足が床について膝が曲がっている程度なら、全体重の70~80%
膝が床についていても体重の20%くらいの重量は首にかかる。
たとえば、体重が60kgの人が膝をついて首を吊った場合
首にかかる力は12kgで、頸動脈はもちろん完全にふさがれる。
椎骨動脈については完全にふさぐまでは至っていないので、わずかながら脳に血液が流れるが
これも時間の問題で、単純に首を絞めたときに比べれば数段まし。
多少失神が遅れる程度で、未遂に終わるようなことはない。
つまり、首にかかる力が体重の20%程度でも、首にきちんと角度がついてさえいれば
完全に体をぶら下げなくても死ぬのは簡単ということだ。

実際、尻や背中が床についていた例もあるし、高さが30cmもあれば死ねると言う人もいる。
欧米ではむしろ足が床についている場合のほうが多いなんていう話まである。
自分の部屋で死にたいあなたも、高さがないからといって諦める必要はない。
ドアのノブでも十分だし、階段の斜面を使うやり方だってあるのだ。

その他、注意することとして人に見つからない場所を選ぶことは当然だが
これまたガスやクスリを使った自殺のように、何時間も、あるいは何日も発見されないような場所でなくてもいい。
ほんの10数分発見されなければ、まず助からないし、それが数十分に及べば完璧だ。

死体を友人や親に見られたくない場合は、自宅や通学・通勤路から少し離れた場所を選べばいい。
身元がわかって親が知るころには、あなたはすでに病院か警察のなかだ。

〔経過〕

1. 一瞬で意識喪失、苦痛はなし

首に縄をかけ踏み台から足を浮かせた後、あなたの意識はどうなるのか?
法医学者の研究によると、首を吊るとすぐに意識が遠のき手も足も動かそうにも動かせず
しかもこの過程でまったく苦痛はないことが明らかになっている。
これは医学界ではすでに常識だ。

東京で演出家が見物人の前で首吊りの演技をして見せたところ
「こんなふうに腰を下げると……」と言ったとたんに意識を失い
そのまま見物人たちの前で死んだという事件もあった。
ある法医学者は首吊りの苦痛を体験しようとして、いつでも踏み台に戻れるように準備し
さらに同僚を立ち合わせて踏み台から足を離したが、突然失神してしまいかろうじて同僚に助けられた。
こういう体験例はいくらでもある。

電気コードで首を吊って助けられたある未遂者は
「頭がポワーンとしてなにもわからんうちに意識がなくなったようだ。
息ができなくなって苦しいとか痛いとかいう感じもなかった」と語っている。
苦しいどころか、かなり気持ちいいという説もある。
たとえば、柔道で締め技をかけられて”落とされた”ときの快感が忘れられず
風呂場で首を手ぬぐいで締めて一人で失神ゴッコをしていた少年が
そのまま死んでしまったというケースもあった。
また、勢いをつけてぶら下がると、首関節が脱臼して一瞬にして心停止、呼吸停止を招くことになる。
首吊りというと喉が締まって苦しみながら窒息死すると考えている人も多いが
実際には息苦しさを感じる前に脳が酸欠を起こして意識を失うので、苦痛はない。
もし疑うなら、あなた自身が試しに紐に首からぶら下がってみるといい。
果たして本当に一瞬にして意識を失うのかどうか。
たぶん首に縄をかけて少し体重をかけた程度で予想以上に首がきつく締まることに驚いて
そこでやめてしまうのがオチだろうが。

2.10数分で心臓停止

さらにいくつかの段階に分けて詳細に研究した学者もいる。
この研究には異論もあるが、とりあえず紹介しておこう。

まず第1段階として、はじめに頭がカーッと熱くなり、耳鳴りがする。
そして眼にピカピカと光を感じる。そして次第に足が重くなり、徐々に気が遠くなっていく。
この間約1分だという。
頭が熱くなり、耳鳴りがし、眼に光を感じるのは首を吊った正に直後で
これと同時に意識は薄れていくようだ。

意識喪失後の第2段階に入ると全身に痙攣が起こる。
ほとんどの場合、手は水の中を抜き手で泳ぐような、足は歩くような運動をするという。
その後両手足の筋肉がひきつり、全身を伸ばしっきりにする“ひきつり”が起こる。
ただしこの痙攣については、全身が小刻みに震えるようなものだ、という感覚のほうが今では有力だ。
この間、約1分から1分半。
ここで男性の場合、なぜか性器が勃起して射精してしまうこともある。

第3段階ではすでに仮死状態となり、大小便や精液を漏らし、眼球が飛び出して、呼吸が止まるという。
この間約1分で、ここに至るまでの時間はわずか3分から3分半。
この段階ではまだ心臓は動いており、発見されれば一命は取り留められる場合もある。
この後約10分間、心臓は動いているが、心臓が停止すればまず助かる見込みはない。

あるアメリカの軽業師は、観客の前で首吊りのマネ事をして
意識がなくなりかけた時に合図して降ろしてもらうという芸を披露していたが
ある日突然に失神が来てしまったらしく合図ができずに、そのまま13分間首を吊った状態で放置され
急いで病院に運ばれたが、息を吹き返すことはなかった。
つまり、ほんの10数分の間、誰にも発見されなければあなたの自殺は完了する。
しかも苦痛もない。
こんなに都合のいい自殺方法は他にはない。

〔死体状況〕 首吊り死体は汚いか?

首吊りの欠点としてよく言われるのが、死体の見た目が良くないということ。
確かに失禁したり射精していたりすることがある。
喉を締め上げるため、舌が飛び出しよだれが流れ、また顔は鬱血して紫色になり
さらに目玉が飛び出すなどとも言われる。
ただし、ここまでひどいケースはそんなにはない。
死後何日もたっていないと目玉は飛び出さないし、舌も歯にひっかかれば突き出ない。
こうなることもある、という程度だ。
首吊り死体を写真で見ると、ほとんどが「ダラーン」「ブラーン」としているだけで
生きている状態と変わらない。
前述したように頭に行く血液はすぐに遮断されるので、顔も鬱血していない場合がほとんどだ。
見た目が良くないとはいっても、ビルからの飛び降りや
電車への飛び込みなどの死体に比べれば格段に綺麗な死体と言えるだろう。
失禁を防ぎたければ、事前にトイレに行っておくだけでいいし
射精をしたくなければ自慰でもしておけばいい。
昭和天皇の後を追って、崩御当日に自殺した87歳の老人は
口にガーゼをくわえ、さらにマスクをして、みかん畑のなかで首を吊った。
この程度の準備はしておいてもいいかもしれない。

(注意) 首締めは苦しい

前にも言ったように、首吊りが優れているのは
斜め上方から首がひっぱり上げられる姿勢になることにより椎骨動脈が締まるからである。
手などで首を絞める場合は当然、この動脈がふさがれず、脳に血液が運ばれるため
一瞬にして意識喪失というわけにはいかない。
首吊りでは先にあげた第1段階で意識を失うが
締める場合は第1、第2、第3段階を意識とともに体験し、ようやく失神する。
結局、気道がふさがれて窒息死することになり、痙攣も味わうためかなりの苦痛を伴うわけだ。

にもかかわらず、自分で首を締めたりして窒息死する人は多い。
30cmの高さを作る手間を惜しんだばっかりに、と同情を禁じえないのだが
42歳のある大学助教授は、ネクタイで首を徐々に締めて、口から血を流して自殺したし
東京オリンピックに水泳選手として出場し、その後平凡な主婦として生活を送っていた43歳の女性は
その人並み外れた肺活量を生かして、口と鼻、首に粘着テープを何重にも巻き、窒息死した。
息子を絞め殺して留置場に入れられ、鼻や口にギッシリとちり紙を詰めて自らも窒息死した
49歳の主婦もいれば、警察の保護房でトイレットペーパー約100g(約1本)を飲み込んで
気管支閉塞で自殺した46歳の土木作業員もいる。

もちろん、こんなふうに窒息によっても死ねないことはない。
ただし、相当の苦しみをともなうので到底、薦められない。
また首吊りに関しては、脳内が酸欠状態になり細胞が破壊されるため
未遂に終わった場合に深刻な脳の後遺症が残る。
脳細胞の特徴は、他の細胞と違って一度壊れたら二度と再生しないことだ。
発見されないための計画は十分に練っておく必要がある。

 

 

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医師の提案する「断食(=蛾死)」に感激しながら…

2012年09月05日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

日本では、尊厳死も決して法制化されているわけではなく
医師と本人、家族間等の“阿吽の呼吸”などという曖昧な状況で許されているだけのことです。

このため、病の治療に医師は必要ではあっても
自分の死にまで望んでもいない他人様に関わって欲しくないと思う場合
自ら進んで希望通りの人生の幕引きをを行うには自殺が唯一無二の方法となります。

だから、「そう思う高齢者は自殺したっていいじゃない」などと不謹慎に肯定することなど
どうせ私くらいなものだろうと思っていました。

ところがここに来て、現役医師の中村氏から大往生の一つの手段として
自然死を目指した断食、つまり蛾死による自殺の提案を目にし、大いに感激することになりました。

当然、これが彼が伝えたい主旨でないことは、全210頁の著書のうち
僅か1頁に触れられているに過ぎないのですから明白であるにしても
そうする理由がはっきりしていて、さらに残される人々への気遣いさえ忘れなければ
「自殺も有り」とすることに何ら変わりはないはずです。

この中村氏以外にも、在宅やホームに携わる数人の医師から
“何が何でも生かす”現在の医療現場への不満から、自然死や平穏死なる大義の下
医療措置を限定的に拒否する提案がなされるご時世になって来たことは間違いがありません。

 ただし、こうした方々でさえ、現在置かれている環境で
初めて経験なさったことから辿りついた方法論であって、そうした死に方を
提案せざるを得ない側面も現在の医療制度には内包されているのかもしれません。

また、どのみち医療に関わる医師からの発言ですから
医療分野における「尊厳死」の範囲内であることに変わりはなく
同じ次元で語られる「積極的に死をもたらし自殺ほう助とされる安楽死」への道のりなど
気の遠くなるような時間が掛かることは間違いない、いえ、もしかしたら日本では
議論の場に上ることさえ無い可能性も高いのでしょう。

「もう充分生きたし、周りの家族などに何の問題もないから、死ぬなら今!」と思っても
お迎えが来ないからとズルズルと生きてしまい
子供や孫が新たな悩みにぶつかる場面を目にすることも頻繁のはずで
やはり「死に際」、つまり死ぬ時期は気持ちを安らかに保って死んで行くためには大切な要素です。

そう考える私が理想とする、尊厳死を広義に捉えて例え病気でなくても
尊厳を持って死ねるという解釈の下、希望する時に、希望するシチュエーションで
もちろん、苦痛はなく一瞬で死んで行ける死に方(例えば注射や薬)など夢のまた夢…。

しかし、この「一瞬で死んで行ける」に目を瞑りさえすれば
断食という仏教的方法で高齢者は約1カ月で蛾死に至るというのですから
これは私にとって“目からウロコ”と言っても過言ではありません。

また、医師が一部の医療措置を拒否する提案をするのであれば、一般人は
一切の医療行為を拒否する方法による自殺(と呼べるかどうか?)もあり得ることになります。

いずれにしても、普段から会話を通じて周りの人々、特に家族には
死に方に対する自分の考えを充分理解してもらっておかないと、本人は良いにしても
それらの方々にはとんでもない精神的苦痛を強いることになってしまうでしょう。

そうした意味からも、こうして尊厳死・安楽死、さらに自然死または平穏死などについて
大っぴらに語られ出しているとともに、病院や老人施設の不足から
否応なく自宅で亡くなる人が確実に増えると予想されることによる在宅での「看取り」についても
多くの医師達が声を上げ始めていることを歓迎しないわけにはいきません。

こうした議論の中から、また新たな死に方の提案が医師だけでなく
一般人からも出て来ることを心底願いながら、一旦、このテーマは終了することにします。

 

 

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義母は中村医師の言う「自然死」ではなかったが…

2012年08月30日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

今年2月に81歳で他界した義母の死亡診断書には「間質性肺炎」と書かれていました。

昨年の暮れに掛かり付けの総合病院に駆け込んで風邪と診断
1週間後の1月4日に症状が改善しないことと薬がなくなったため再診に出向いたところ
「肺炎球菌による肺炎と思われる」と病名が変更され、なんと即日緊急入院
この時はマスク型呼吸器が装着されていました。

5日後、集中治療室で気管挿入型人工呼吸器を付けられ
鎮静・拘束・点滴によって食事、話はできない状態のまま、42日後に息を引き取りました。

途中で「細菌性肺炎」から「間質性肺炎」に進行し生存の可能性がより下がった事実を告げられ
さらに気管切開型人工呼吸器の装着の是非を問われた際
その後の介護の話を聞くことになりました。

これを一旦装着すると外すことはできないこと
そして、話すこと、食べることは一生できなくなる可能性が高いこと
また、病院治療は終了するので退院し、家族に寄る介護もしくは
然るべき施設に入らなければならないこと 等など。

正直、まさかそんな状態で退院させられるとは思ってもいなかったこともあり
生前の言動を主に参考にしつつも、私と、特に女房にかかるであろう負担を考えて
気管切開をお断りした経緯があったのです。

いわゆる延命治療には主に3つの種類があると言います。

・人工呼吸…脳死などの昏睡状態で何らかの処置をしなければ呼吸が停止する状態や
肺機能の低下により血液の酸素化が十分に行えない状態などで行われる。

・人工栄養…経鼻胃管を挿入して栄養する場合と、中心静脈カテーテルを挿入して
血液中に直接栄養する場合がある。昏睡状態や食道の狭窄が起きている場合に行われる。

・人工透析…腎機能の低下もしくは廃絶によって無処置では尿毒症を起こす状態(腎不全)で行われる。

義母の場合はこのうちの「人工呼吸」であったわけですが
最初の一般病棟でのマスク型は特に説明もなくいつの間にか装着され
次のICUでの気管挿入型の際は、そうする必要性の説明を受けましたが
重い決断を迫られた認識は今でも持っていません。

ところが、気管切開型の説明は、今までとは明らかに違った雰囲気の下で2度行われたのですから
この時に延命治療をするかどうかの決断を迫られたのでしょう。

「でしょう」としか言えないのは
2月8日に呼び出された際、医師からも、署名を求められた書面にも
延命治療という言葉は一切出ていなかったからですが、蘇生処置なる言葉は登場し
心臓マッサージはお断りしましたがモルヒネ投与や点滴を少しずつ減らすなど
苦しさと痛さの緩和処置はくれぐれもお願いしました。

記憶が薄れていますので定かではありませんが、気管挿入型にはタイムリミットがあるようでした。

確か2週間経ったら1度は抜いて入れ直す必要があり、それも3度目は無理だと言われていたはずで
3日後のギリギリまでICUにいた後、気管挿入型を外しマスク型に戻し
点滴に寄る栄養補給は続けた状態で死に場所となる一般病室に移されました。

その翌日の2月12日の夜中、当直の看護師に呼び出され
担当医からは「今日明日には…」と言われたので、24時間交代で付き添ってから
さらに2日間頑張った末の2月16日、私たちが見守る中でモルヒネ投与もなく静かに息を引き取ったのです。

中村医師の著書「大往生したけりゃ医療とかかわるな」に寄れば
病院では「自然死」はあり得ないと言います。

事実、彼の「指示書」は人工呼吸器の装着を拒否しています。

また、最期は身体が点滴による水分とい栄養補給でパンパンに膨れていましたので
“枯れた”とは似ても似つかぬ状態だったことも確かなのですから
義母のこの死を「自然死」と呼ぶことはできないのでしょう。

では、このケースの場合、どの時点で、どうしたら、自然死することができたのでしょう?

そもそも具合が悪いから(結果として風邪)と病院に行ってはダメだったのか
風邪から「肺炎球菌による肺炎」に診断が変更された時点で緊急入院させてはいけなかったのか
投与された抗生物質で一時はX線の白い影がスッと消えかけた数日後、またその影が広がり始めたからと
再びICUに運び込まれた時から自然死への道を外れてしまったのか…。

義母は「自然死」なる言葉も知らないまま、“苦痛がなく楽に死にたい”とだけ
生前、口癖のように言っていましたので、最初の風邪の診断から僅か50日、ほとんど苦しまず
モルヒネも使うことなく逝ったのですから、一応、希望通りだったと思うようにしています。

もし、中村医師の指示書のように人工呼吸器の装着を拒否する自然死を望んでいたのだとしたも
マスク、経管、気管切開と段階的に進んでいく人工呼吸器を拒否できる知識も自信もなく
同じケースに遭遇したら、再度同じ道を歩んでしまうに違いないのです。

かように、「自然死」なる死に方には、今の医療に慣れた一般人が現実の場に遭遇した場合
どうしてよいのか分からない要素が多分に含まれていることは間違いありません。

 

 

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中村医師による「自然死」の奨め…新しい“死に方(自殺を含む)”の提案

2012年08月25日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」の著者
72歳の現役医師、中村仁一氏によると、医学的に見て老い、つまり歳を取るということは
身体が壊れてきて具合の悪いところが出て来ることに他ならないと言います。

そして、基本的に病を治すのは人間が本来持っている自然治癒力であって
医療はそれを補助するものに過ぎないはずなのに
歳とともに衰えてしまった治癒力で治せない結果としての死に対してまでも
延命治療により医療が関与し過ぎだとも指摘しています。

その結果、現在の日本では老いに必ず医療が関わることになり
医療費支出を年々増大させながら、その先にあるのは確実な死にも拘らず
病名が付けられた病だから治るとして過度の期待を持ち過ぎているのだそうです。

ところで、筆者の長きに渡る医師の経験を基に、現在の医療行為の功罪を述べていますので
詳細は本をお読みいただくとして、こうした治療が“苦痛もなく楽に死ねる”ことを邪魔していると結論付け
死に結びつく医療的措置をどこまで受けるかの意志表示を生前に
明らかにしておく必要性を述べている点に着眼しないわけにはいきません。

中村医師は“事前”に次のような「指示書」を書くことを奨めています。

 

「医療死」より「自然死」が好みのため
意識不明や正常な判断力が失われた場合、下記を希望する。

(ボケた時はボケきる直前に“断食死”を敢行するつもりだがタイミングを外す場合も考慮して)

一.出来る限り救急車は呼ばない

一.脳の実質に損傷ありと予想される場合は開頭手術は辞退すること

一.人工透析はしないこと

一.経口摂取が不能になれば寿命が尽きたと考え
経管栄養・中心静脈栄養・抹消静脈輸血は行わないこと

一.不幸にも人工呼吸器が装着された場合、改善の見込みがなければ
その時点で取り外して差し支えないこと

 

 

さらに、事前指示書(その2)は次の通りです。

 

死後について下記を希望する

一.使い古しの臓器は提供しない

一.葬儀は簡単に家族だけで、遠方の者には連絡せずとも良し
葬祭センター使用も可

一・読経、戒名は不要

一・告別式不要、供花・香典は辞退すること

一.死体処理は完全に灰にするか、凍結乾燥粉砕で肥料にせよ
(もし、偲ぶよすがが欲しければ、髪の毛か下の毛を刈り取るべし)

一・年忌法要・墓石参りは不要
(ただし、死体処理が希望通りにならず骨が残れば
戒名・年忌法要を行うも苦しからず、墓石参りも勝手たるべし)

 

 

「指示書(その2)」は死後についての内容ですから明らかに「遺書」ですが
(その1)は生きている間の具体的に拒否する医療措置を指定しています。

これだけを抜粋したところで、この著書の死に方の指南が伝わるとは毛頭、思っていませんので
これもぜひ現物をお読みいただくとして、私が注目したのは
その冒頭、カッコ内の「ボケた時は…」の内容です。

ちなみに、「ボケた時」とは筆者の好みにより「認知症を患った時」の意味です。

「ボケきる直前」そのものの時期が判別できるのかどうか
また、その段階で正常な判断ができるのかどうか、素人にははなはだ疑問ですが
“自ら水と食を絶ち、枯れたような死を待つ”というのですから
「姨捨山」で捨てられた年寄りが行き着く先と同じように
「断食死を敢行する」とは明らかに“自殺をする”という意味以外の何物でもありません。

「日本人の自殺願望は『いっそひと思いに…』というせっかちなもので
約1カ月かかる断食死には頑強な精神が必要だ」とご本人も自殺という言葉を使っているのですから
せっかちかどうかの話は別にしたら、少なくても私には間違いなく自殺に思えるのです。

多分、この件に関してはこの著書の中でも多くは語られていませんので、中村医師が訴えたいことは
多くのページを割いている“医療とかかわらず大往生する”、つまりは
“医療にかかわらない=不必要な医療は受けない死に方”なのであって
「ボケきる直前」はその中のごくごく一部なのかもしてません。

しかし、もっと生き長らえる命をみすみす絶ってしまう可能性を含むという点では
どの治療の拒否にも、“それで死んでも良い”という強い意志と信念が必要です。

この意志の裏側には必ず大義名分があるはずで、中村氏の場合は
“餓死こそ苦痛もなく楽に死ねる自然死なので家族にそのお手本を示す”ことにあるのでしょうが
逆の言い方をしたら、現役医師でさえ大義名分によっては自殺もあり得ると解釈して喜んでいる私は
この本の読み方が間違っているのでしょうか。

もう一回、いえ、何度も読み返してみる必要がありそうです。

現代的な「口減らし」という側面も含んでいそうですから。

なにはともあれ、こうして高齢者の死について語られた本が売れることは嬉しい限りで
今後ますますこうした提案が多くなされることを願わずにはいられません。

 

中村仁一氏・・・社会福祉法人老人ホーム同和園附属診療所(京都市伏見区)所長 。
1940年長野県生まれ。66年京大卒。高雄病院院長・理事長を経て、2000年より現職。

大反響のようですね。

(中村)2012年1月末の発行で、6月には50万部に到達したそうです。
今、高齢者医療のあり方が、政策や医療提供の側面から問われていますが
一般の人たちの関心も相当高まっているという証しではないでしょうか。

医療とかかわるな、とは?

(中村)医療を全否定しているわけではなく、やみくもに医療にすがると悲惨な結果になりますよ、ということです。
回復やQOLの向上が見込めるなら当然利用すべきですが、単に死を先送りするだけなら、断った方がいい。
本人の意思が関与しない治療行為は、周囲の者の自己満足にすぎません。
医療はあくまで、本人がその生き方に照らして関わるべきものだと思います。

高齢者医療を担っている医療者から批判の声はありませんか?

(中村)ありませんね。1998年に
『幸せなご臨終─「医者」の手にかかって死なない死に方(』講談社)を発刊したときは

「年寄りの命を何だと思っている」「末期と決めつけるな」などと随分たたかれましたが
今回そうした批判がないのは時代の変化でしょうね。一般読者からは
「自然死を選びたい」「年寄りは具合が悪いのが正常と言われてホッとした」という声が届いています。

これまでのご経歴は?

(中村)京大卒業後、医局に属さず京都南病院(京都市下京区)に入職し
しばらくして高雄病院(右京区)に移りました。
96年に市民向けの「自分の死を考える集い」を始め、もうすぐ200回を数えます。
そこでは、今の「生」を有意義にするため死を視野に入れるよう説いてきました。
高雄病院を退職後、老人ホームで数百人の高齢者を、点滴も酸素吸入も行わない「自然死」で看取りました。
集いの活動と看取りの実践を踏まえて出来たのが本書です。

今の日本人にとって、死は身近ではありません。だから死に際に慌ててつい延命治療を選んでしまう。
そうならないために本人も家族も、やり残したことのリストを作って達成しておくべきです。
それらを含めた「死を意識した生き方」の作法を、具体的に紹介しました。
こうした作法が広まって、患者や家族が死を受け入れる意識をするようになれば
高齢者医療は変わると思います。

 

 

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自然死・老衰死・安楽死・尊厳死の関係

2012年08月21日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

“死”は医学的に見て、その形態により
自然死、病死、災害死、事故死、自殺、他殺に分類されると言います。

また、死の原因すなわち死因は、死に至る基本的病態に従って分けられ
消耗死、脱水死、呼吸不全死、心不全死、中枢障害死、貧血(無酸素)死
代謝死、ショック死、事故死などがあげられています。

「自然死」とは、本来、疾病その他の原因がなく死に至ることで
いわゆる寿命を全うした「老衰死」のことと漠然と考えられていました。

寿命とは、われわれ人間をはじめ、すべての生物の生命の限界を意味するもので
これは種族あるいは個体によって大きく異なります。

一方、なんら病的変化のない状態での生理的現象である老化の最終が老衰死であり
そのときの年齢が寿命と考えられ、人間では100歳以上とされています。

しかし実際には、完全に老衰死といわれる状態がみられることは
きわめてまれであることは病理解剖において常識とされています。

このため、1977年カリフォルニア州で成立した「自然死法」によれば
 もう回復が不可能と分かってから本人の意思表示が明確であれば
延命のための医療行為を中止しても違法ではなく
それは自然な死を迎えさせる通常の医療判断の範囲であると定められました。

基本的には日本でもこれが「自然死」とされているようです。

 

老衰死
(分類上は自然死に含まれます)

高齢者が死因と推定できる病気が無く、老衰によって自然に生を閉じた時は老衰死と言います。

従来、高齢者の死因は老衰と表現されることが多かったのですが
近代における医療技術の環境下では
医学的原因には不適切であるとしてこの表現は少なくなりました。

これは、老齢による代謝・免疫・回復能力の不全による死因を
診断上の心不全・肺炎・多臓器不全・脳卒中などの病死扱いとすることが多くなっているためです。

しかし、実際は、何らかの慢性疾患に対して治療が行われていた場合も含み
高齢者の死亡原因は多岐に渡り、真実の病名が明らかでないにもかかわらず
それらしい病名がつけられる場合も多いそうです。

特に生来、健康であった人の場合、死亡に至った原因の究明は監察医制度のある地域を除き
体表所見の観察以外の検査はほとんどの場合行われることはないので解剖などによる確定診断ではなく
上記のような“単に状況から推定されただけの病名”がつけられていることになります。

つまり、老衰というきわめて漠然とした死因ではないにしても
かと言って正しく診断された病名がつけられているというわけでもないのが現状なのです。

このことは、死亡原因を究明するための検査には高額な費用を要することが原因と聞きます。

具体的には、死亡後の検査は健康保険が適用されないため、血液検査だけで数千円
これで死亡原因が確定することは少なく、次にレントゲンなどの画像診断を行うと数万円
しかも死体のレントゲンやCTを撮影する機械は、多くの場合
患者用とは別の部屋に別の機械を設置しないと患者が嫌がるため
撮影を行えるケースはまれであるとされています。

それでも死亡原因が確定しない場合は解剖が必要になりますが
数十万円の費用がかかり、これらの費用は犯罪が関わると警察が考えた場合は警察の負担
医療機関が解剖を望んだ場合は医療機関の負担
患者家族が望んだ場合は患者家族の負担となってしまいます。

このように、高額な費用を掛けて得られた正確な病名か
一人の医師の(検査は一切無しの)検案のみによる推定による病名かによって
全くその意味が異なってきます。


自然死
(本来は老衰死を指していました) 

原因となる病気があって、しかし回復の可能性が無く

これ以上の治療行為をするのは患者に負担をかけるだけであり、治療義務はないと判断して
治療行為を中止することでもたらされる死で、法的違反性については曖昧なままです。

「尊厳死」または「消極的安楽死」という場合もあります

 

尊厳死とは、自然な経過に任せること、つまり、人格の尊厳性を最後まで保って死を迎えるために
無理な延命措置を施さず、自然な経過に任せること、です。

安楽死は、人為的に死期を早める処置をすること、つまり苦しみから解放するために
苦しみながら生き長らえる人に薬物などを用いて人為的に死期を早める処置をすること、とされます。

どちらも不治の病気や重度の障害などの患者に限られます。

①延命治療を中止する…尊厳死

②患者の命を絶つ行為をしたり、自殺を幇助(ほうじょ)する…安楽死

ただし、専門的に用いられる時は
「安楽死」自体が①と②両方の意味を持っている場合がしばしば見受けられます。

すなわち、「安楽死」を「消極的安楽死」と「積極的安楽死」の2つに分類するという考え方で
一般に「尊厳死」と呼ばれているものを「消極的安楽死」
「安楽死」と呼ばれているものを「積極的安楽死」とするということです。

①延命治療を休止する…尊厳死または消極的安楽死(⇒自然死)

②患者の命を絶つ行為をしたり、自殺を幇助(ほうじょ)する…安楽死または積極的安楽死

一方、「尊厳死」という言葉には、先の①の意味以外にもっと広い意味もあるようです。

すなわち、死を迎える本人が誇りをもって、あるいは個人の理念に従う形で死ぬということです。

これは延命するとかしないとかという問題ではなく
個人の納得する形であれば、あらゆる場合が「尊厳死」と呼び得るということです。

ただし、この場合の「尊厳死」は単に字面を捉えた「尊厳のある死」ということですので
どれほど一般的に受け入れられているかは不明です。

さらに最近、私と同世代の医師の間から言い出されている「自然死」や「平穏死」は
従来の①の延命治療の前の段階で全部または一部の治療を
本人が選択して“拒否する”ことによって枯れたような状態で楽に苦痛もなく死ねるというのですから
「今までの自然死」とは違うような気がしてなりません。

(個人的には「新しい自殺の提案かも…」と思われるこの“死に方”ついては後日に改めて)

このように、勉強不足は否めないにしろ、私が調べる範囲では
これらの言葉の日本における解釈に今一つはっきりしない部分を感じるのは
医師会が尊厳死を容認し、厚労省の終末期医療のガイドラインもできているにも拘らず
明確な意思表示がある延命治療の中止、つまり、いわゆる尊厳死でさえ
未だ法律では合法化されていない現実があるからなのでしょう。

実際の医療現場では、医師と家族との“阿吽の呼吸”などという
曖昧な形で行われている現実を早期に改めなければ
それぞれの言葉の意味は明確にはなりません。

票が集まらないから、との理由で
積極的に取り上げない政治家に任せておいてはちっとも先に進んで行きません。
 

 

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そもそも、自殺は悪なのか…⑤「自殺もあり」が今の私の本音

2012年08月19日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

TVでは毎日のように「若いですねぇ、とてもお歳に見えません」と
見てくれが商品の俳優・芸能人を褒めあげて
彼らの言う〇〇健康法や××美容法なるものまで取り上げ
歳を取ることによる老いを忌み嫌う向きの番組が流れています。

同じ歳に死ぬのであれば、それまでを健康で綺麗に過ごすことは良いと思いますが
合わせて、“ご長寿”を頻繁に取り上げて褒め称えているのですから
長寿こそが善とする風潮を暗に煽っていることは確かです。

事実、東日本大震災の影響もあり香港に女性の長寿世界一の座を開け渡したとは言っても
2011年の集計における男女合計は現在でも世界一を誇る日本です。

しかし、果たして他の先進国はそれほどの長寿を目指しているのでしょうか?

いえ、長きに渡り欧米を手本として、今やそれらを追い越すまでの先進国になったのですし
何よりも“散り際の美学”を持っている国民なのですから
もうそれほどの長寿を目指さない独自の道を歩んでも良いではのではないでしょうか。

それが年金・医療を主とした社会保障費の大幅な支出増加を生み
現役世代の各種保険料を押し上げて彼らの購買力を低下させ、
結果として経済立国であるこの国を弱体化させている現実があるのですから。

ましてや、少子高齢化は致命傷です。

こうした己の足元も見ずに、なぜ、いたずらに長寿を褒めたたえるのでしょう?

長生きして何をするのか、所詮
年金や蓄えの一部を浪費して趣味などで遊び呆けているだけのことではありませんか。

それならむしろ、消費意欲が強い若い世代に早い時期に眠らせている資産を相続させる一方
年寄りに掛かる国の、つまりは彼らの負担を減らせば
国内消費が拡大して経済を活性化してくれるに違いないと思うのです。

若者には今後の日本を担う子供の大切さを説くと同時に
子供を増やす不安を解消する、そして買いたいものが買えることで働く意欲が増え
当然の結果(?)として世の中の経済が活性化する
一方、年寄りには、死を如何に自然に苦しみ無く迎えることができるのかの研究を急ぎ
それを通じて漠然とした恐怖から解放し、かつ尊厳のある死を提案し希望に沿ってどんどん死んでもらう…。

大した額ではないのでしょうから、長生きするための生きがいが欲しい年寄りに
それを与えるために現在でも行われている施策まで否定するつもりはありませんが
基本的には他人から生きがいを与えられないと生きていけない年寄りなど放っておけばよいのです。

それを必要とする年寄りは自分で必死に見つけ出して生きていくものです。

例え自殺であろうが、死にたい年寄りを減らす必要などまったくありません。

それでなくても生殖という最大の人間の責務は果たし終えているのですから。

また、尊厳は人それぞれなのですから。

とにかく、負担にばかり気を取られていては将来を見据えることなどできるはずもないのですから
まずは現在の社会の負担を減らすべきです。

その意味からも、治すことを超える延命治療など
前提を「しない」に変え、本人がどうしてもと希望する以外は即刻、止めるべきです。

もちろん、必要な法制化は急ぐべきで、本人・家族の意向に沿った医師を守らないと
実現できるはずがありません。

これら、死にたい年寄りを妨げる必要はないなどと言うと、「年寄りを何だと思っている」と叱られそうですが
これは他人から言われるからそう腹を立てるだけであって自分の問題にしていない証拠です。

“死”はいけないもの、避けるべきもの、また縁起が悪いなどとタブー視して
多くが語られない社会がずっと昔から続いています。

加えて、情報社会と言われる今でさえ、80%の人が「畳の上で死にたい」と言っているにも拘らず
全くま逆の80%を超える割合で病院や施設で亡くなって行くお年寄りの実態が
メディアで紹介されることはほとんどありません。

長寿の陰に潜んでしまっているその辺りの現状を明らかにする努力をメディアに要求しつつ
倫理的な壁を少しでも超えるため、自らの親を看取った経験を公開することから始めて
まずは年寄りに片足を突っ込んでいる我々団塊の世代から
もっと大っぴらに死、及び死に方の選択肢について語れる社会を提案していかなければなりません。

15~20年後という近い将来
精神的な倫理観だけでこれだけ数多くの年寄りの面倒を看ることはできないのですから。

*これは現時点での私個人の本音ですが、今後
刻々と変わる可能性が否定できないことを、念のため、申し添えます。

 

 

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そもそも、自殺は悪なのか…④長生きという迷惑(その2)

2012年08月12日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

家族の食料が不足する状況などほとんど考えられない今の時代なのに
なぜ、高齢者(年寄り)が、自分が生きていることが
家族に迷惑を掛けているのではないかと感じてしまうのでしょう?

まず第一に、家族(ひいては社会)が年寄りを必要としているのかという問題があります。

少なくても、肉体的な労働を通じての一般社会参加という点で
期待されていないことだけは間違いありません。

では、いわゆる経験に基づく知識や知恵は求められているのでしょうか?

科学があまり進歩せず、おなじような生活を何十年、何百年と繰り返している時代は
それらが大いに役に立ったことでしょう。

特に国の経済の根幹を農業においていた江戸時代まではそうでした。

しかし、明治以降はそれまでの時代を封建社会と呼び完全否定した上で
社会のあらゆる部分で欧米の真似をし追い付け追い越せの道をひたすらに歩み続けてきました。

そして、いわゆる戦後は占領国であるアメリカの影響を強く受けることになります。

日本文化をさえ“古いことは悪いこと”として軽んじる傾向
つまり逆に言ったら日本人の外国崇拝は、こうした歴史に基づいて形作られてしまったのでしょう。

とは言え一方では、経済の基本を工業に置き替えた国作りが大成功し
その技術は革新に次ぐ革新を重ねて工業経済大国と呼ばれるまでに登り詰めています。

10年ひと昔、いえ5年前のことでさえひどく古く感じるほど
科学的進歩に因る社会の変化は現在でも急激で、それは日常の暮らしぶりにも及んでいます。

なかでもパソコンとインターネットの普及は劇的に世の中を変え
今や一人が提供する知識や知恵を
何万人ものそれを求める人々が共有することなどごく容易なことです。

ところが、この変化に付いて行けず、情報の提供すらできない年寄りは
今後ますます増加するはずです。

実際、仕事から引退した私は
もう勘弁して欲しい思いでスマートフォンから逃げています。

だって、電話でさえ小学生の頃はまだ一家に1台もなかったのに
社会人になってすぐにテレックス、次いでファックス
同じ頃にポケットベルそして自動車電話、しばらくしたら携帯電話になり
ドンドン小さくなったと思ったら今や子供も含めて一人に1台
メールどころか今度はパソコン機能まで内蔵されたスマフォだと言われても…。

仕事上必要だったから40年間、必死に付いてきただけのことです。

何年か後、少なくても知識や知恵において社会が必要とする年寄りなどごく少数で充分だと
言い切ってしまう私が間違っていればよいのですが…。

そして、第二の問題は必要性などという曖昧なものでなく、家族(ひいては社会)が
治すのみならず死に踏み込むまでに進歩した医療を含めた現代の物質文明における
精神的、物質的つまり、介護や看護における家族の心の負担や
手が掛かる、お金が掛かるという現実を目の当たりにして暮らしているからでしょう。

例えば、病院で病気の治療が終わり延命治療で症状が安定すると
そのままそこに入院していることはできず、自宅での家族による
または入居待ちが列をなしている施設へ入居しての有料による看護・介護を強要されます。

日本では、親の面倒を看るのは家族だという基本的仕組みになっているからです。

事実、 周りには平均寿命を超えた数多くの
そうした年老いた親の面倒を看る我々団塊の世代がいます。

国民4人で一人の面倒を看ている今でさえ、特に女性、すなわち私達の女房が集まれば
「看護や介護の心身及び金銭の大変さ」がすでによく話題に挙がっているのです。

それどころか、80歳を超えた私達の母親が
さらに高齢な父親の世話をしている世帯のなんと多いことか。

それでもまだ、我々団塊世代の親は恵まれた年金受給が受けられていますし
高度成長期の蓄えがありますので金銭面は救われています。

しかし、15~20年後、現在40代の団塊の世代Ⅱ世が親(我々)の面倒を看る頃は
この金銭面においても、面倒と言うよりむしろ迷惑をかける事態に陥ることは誰が見ても明らかで
国民2人で一人の年寄りの面倒を看なければならないことはよく知られています。

自分たちが経験した以上の迷惑を子供達にはかけたくないと思う気持ちは自然です。

だからこそ、世界一の長寿を誇る高齢者国家なのですから
もう先進国の後塵を浴びることは止め、世界に先駆けて今から我々が
自分達世代の“口減らし”の具体的方法を模索し始める時代なのではないでしょうか。

少子化の影響で若い人は減る一方で経済的な発展はしばらくは望めそうもないのです。

人気取りの政治家に「年寄りは早く死ね」めいたことを言わせることは所詮無理ですし
若い方達にそれは酷と言うものです。

つまりは我々団塊の世代が自ら声を上げなければなりません。

若い方にとって「どうせいつかは死ぬのだから…」というセリフは
「だから今は一生懸命生きよう」になるのでしょうが、年寄りにとっては
「だったら迷惑をかけないうちに死んだ方が良い」になり得ることも事実なのですから。

ただし、入院治療を受けている親達のこの恵まれた年金を当て込んで
自分たちの生活を成り立たせている輩も一部に存在するやに聞いていますので
こうした人々にとっては口減らしなどとんでもない話で、他の家族や社会のことはともかく
自分の親だけは、例え植物人間になって惨めな姿をさらそうとも
生きていてもらわないと困る、というひどく悲しい現実もすでに耳に入っていますが
こうしたごくごく一部の例外中の例外の話は無視させていただくことにします。

この親御さんが、こうした延命治療を願っていたか
もしくは、そうでなくても、子供のためには仕方がないと思っていることを心から願いつつ。

 

 

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そもそも、自殺は悪なのか…③長生きという迷惑(その1)

2012年08月07日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

現代社会では、一般的に自殺には否定的です。

しかし、日本においては古来より、切腹・心中・特攻・殉死など
自殺と呼べる行為がそれぞれの時代に様々な状況で行われていて
歴史的に見るとひとつの文化として捉えられているように見えなくはありません。

特に社会的な特定条件下での自殺は美談として扱われさえもします。 

桜の花の散りゆく様を“散り際が潔い”と表現したり
確か徒然草だったと思いますが、春先に黒づんでいつまでも残っている残雪を
「いと、みにくきもの」とする文学上の表現もあるのですから、いつまでもこの世にすがりつく生き様を
少なくても、美しいものとはしない国民感情が影響しているのかもしれません。

ところで、「姨捨山」も「楢山節考」も捨てられた後の年寄りについては、特に後者は
読んでもいませんし観てもいないので、どのような死に方をしているのか私は知りません。

多分、静かに餓死を待つはずだと予想できることは以前、書きました。

もしそうだとすれば、これは“覚悟の自殺”と同じではないかと思うのです。

「姨捨山」ではお触れという悪法、「楢山節考」では口減らしという慣習に寄るのですから
どちらも背景に年寄りが生きていけない社会が存在していたということになります。

もっとも、前者におけるお触れは、話の本題である「知恵があるから老人を大切に」を引き出すための
方便のような位置付けと考えたら、社会などと大袈裟に言う必要はないのかもしれません。

それどころかこの殿様については、当初出したお触れは個人的趣向に基づいていて
決して褒められるものではありませんが、改心して取消した以降
年寄りも養えたのですからこれはある意味、立派な殿様だったともとれます。

一方、貧困のため食べる人数を減らして残った家族を救う口減らしの話は
昔の日本には数多くあるのですから現実的な社会問題です。

この時、減らされる対象は、子供をもらい子に出したり、娘を売ったり
この話のように労働力にならない年寄りを捨てたり、いずれも生産性のない弱い者です。

なかでも、選択肢があるのであれば、まずは年寄りということでしょうし
本人もそれを希望するに違いありません。

この時、この話は美談とは呼べないでしょうか?

家族を助けるために自らの命を投げ出すのですから。

日本の現代社会において、これほど切羽詰まった状況があるとは到底思えません。

しかし、自殺した高齢者の多くが日頃、「家族に迷惑をかけたくない」と口にしていたと言います。

迷惑…ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快に感じたりすること
同義語:当惑・困惑・閉口・困窮・困る・困り果てる・煩わしい 等

一家の食料が不足する状況など今ではほとんど考えられないにしても
精神的・経済的・物理的な負担をかけてまで生きていたくないと思ってしまうのです。

自殺を否定する際、日本では多くの人が「世間に迷惑をかける」ことを理由に挙げます。

残った家族や親族、友人・知人などに対する
精神的なダメージと物理的・金銭的な負担はもちろん
電車への飛び込み等、死に方によっては直接社会に迷惑をかけてしまうからです。

これは、よく世間の親が子に対して言う「他人に迷惑をかけるな」という教えに沿うものでしょう。

一方、自殺した高齢者の多くは「家族に迷惑をかけたくない」のですから
「世間の迷惑」など考える余裕もなく、日常的な「家族の迷惑」だけが目に映っているに違いないのです。

子供達と同居の高齢者の方が、一人暮らしよりも
自殺に導くうつ病の罹患が多いことを見てもその状況がうかがい知れます。

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そもそも、自殺は悪なのか…②「姨捨山」に見る善悪

2012年08月03日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

昔、年寄りの大嫌いな殿様がいて
「年寄りは汚らしいばかりで国のために何の役にも立たない」との考えから
「60歳になった年寄りは山に捨てること」というお触れを出しました。

殿様の命令にはだれも逆らえません。

親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

ある日のこと、一人の若い男が60歳になった母親を背負って山道を登っていきました。

気がつくと、背中の母親が「ポキッ、ポキッ」と木の枝を折っては道に捨てています。

男は不思議に思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。

年寄りを捨てるすのは深い深い山奥です。

男が母親を残して一人帰るころには、辺りはもうまっ暗やみ
男は道に迷って母親のところへ引きかえしてきました。

息子の姿を見た母親は静かに言いました。

「こんなこともあろうかと、途中で枝を折ってきた。それを目印にお帰り」

子を思う親の優しい心にふれた男は、殿様の命令に背く覚悟を決め、母親を家につれて帰りました。

しばらくしてとなりの国から「灰で縄を綯(な)え。できなければおまえの国を攻める」と言ってきました。

殿様は困り果て、「誰か知恵のある者はいないか」と国中にお触れを出しました。

男がこのことを母親に伝えると、「塩水に浸したワラで縄をなって焼けばよい」と教えられ
男はこの通りに灰の縄を作り、殿様に差し出しました。

 しかし、隣国からはまた難題を言ってきました。

今度は曲がりくねった穴の空いた玉に糸を通せというのです。

今度も男は母親に、「1つの穴の周りには蜂蜜を塗り
反対側の穴から糸を付けた蟻を入れなさい」と教えられ殿様に伝えました。

すると、隣り国では「こんな知恵者がいる国と戦っても、勝てるわけがない」と
攻め込むのを諦めてしまいました。

殿様はたいそう喜び、男を城に呼んで
「褒美をとらす。欲しいものを言うがよい」と言いました。

男は、「褒美はいりません。実は・・・」男は決心して母親から知恵を受けた事の顛末を話しました。

「なるほど年寄りというものは有り難いものだ」

殿様は自分の考えが間違っていたことに気づきお触れを出して年寄りを捨てることを止めさせました。

それからはどの家でも年老いた親と仲良く暮らせるようになりましたとさ。 

 

昭和31年(1956年)にはこの伝説を基にした短編小説「楢山節考」が発表され
その後映画化、最新は昭和58年でした。

この中では、老人を山に捨てる風習は“貧困による口減らしのため”とされています。

日本人の心の底に沈んでいる民俗の闇にメスを入れると同時に
今日の物質文明の根底に潜む人間感情の原資を捉えたものとして話題になりました

ただし、私はこの物語りを読んでも観てもいませんので
様々な方の論評を基にこれからの記事を書いて行くことをご了承ください。
 

ところで、「姨捨山」では年寄りが死ぬことは善です。

お触れ(法律・条例)に従って捨てる(=死)のですから。

「楢山節考」でも年寄りは、少なくても悪ではありません。

若者の食料を確保し彼らの命を繋ぐのですから。

「姨捨山」ではお触れが悪なのでしょうし、「楢山節考」では口減らしという風習が悪なのでしょう。

つまり、本人は悪くなく、生きている社会が悪いということになります。

そして、どちらも“捨てられ”ますが、その後息を引き取るまでの間は自殺と同じです。

多分、手を合わせて餓死するのを静かに待つのでしょうから。

 

*餓死について…ある医師の著書によると餓死(飢餓+脱水)の時、つまり
空腹とのどの渇きを我慢し命の火が消えかかる時になると
飢餓状態により脳内にモルヒネのような物質が分泌され
気持ちがよく幸せムードに満たされると言い、また脱水状態になると
血液が濃く煮詰まって意識レベルが下がりぼんやりとしたまどろみ状態に陥り
さらに死に際には、呼吸状態が悪くなることによる炭酸ガス過多が麻酔作用をもたらすなど
様々な身体の仕組みが死の苦しみを防いでくれるのだそうです。

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そもそも、自殺は悪なのか…①今、こんなことを考える理由

2012年07月29日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

昨年まで20数年間、世界一だった日本女性の平均寿命が
香港に抜かれて2位になったことをニュースで知りました。

大きな原因は大震災の影響とされる一方で
「20代女性の自殺の増加」も影響していると言うのです。

理由が私には想像すらできないのですが、これは間違いなくマズイことです。

若い女性が10人いて男が一人でも子供が生まれて総人数は増えますが
男が10人で女性が一人の場合は確実に減って行くからです。

高齢者は構いません(!)が
若者、特に若い女性の人口比率を減らしてはいけません。

さて、本題に入ります。

私がこの「高齢者の自殺を考える」を始めた理由は
 “死にたい高齢者”を減らす意味はどこにあるのか、という単純な疑問からです。

あくまで高齢者に限って、のことです。

現代社会において(昔からかもしれませんが)
「自ら望み通りに死にたい」と思った場合、選択肢が自殺しかないのは万国共通です。

もちろん、積極的または消極的に死をもたらす安楽死や延命治療を拒否する尊厳死は存在しますが
どちらも回復不可能な病気を患った場合に厳格に限定されるのですから
「死にたい」心を満たしているとは言えません。

有名なオランダの安楽死もその域を出てはいません。

宗教について私はほとんど無知ですし、今のところ特に興味もありません。

しかし仏教はもちろん、キリスト教、イスラム教においても自殺は禁止されていると聞きます。

にも拘らず、宗教をもってしても決してなくならないことは歴然たる事実なのですから
自殺はそれを超越した行為と言えるのかもしれません。

言い方を変えれば、宗教自体が頭で考えた観念の世界なのですから
例え傍からは異常と思えるにしても、同じく頭で考えた死にたい願望の方が
宗教への想いを超えてしまっただけのことなのでしょう。

善悪の判断で自殺をもし世間に問うたとしても悪にされることはほぼ決まっていて
されど法的には悪人とはされず、止むを得ないものと見逃されるのですから
宗教・哲学・倫理、もしかしたら医学・経済など、答える側の立ち位置によって
賛否両論が入り乱れて喧々諤々になり、結局は意見の一致など見るはずもないことは
安楽死や尊厳死の論争を見ても明らかだと思うのです。

ましてや、若者を含めたあらゆる世代の自殺の善悪を問うなどという騒ぎを起こすつもりは毛頭なく
以前から気になりだしていた私自身の、ひいては今後の高齢者の“死に方”について考える時
私にはどうしても自殺抜きでは語れないのではないか、との思いがあり今日に至っています。

そんな折、医療の一部を自らが拒否するという点で、見方によっては
自殺に数歩近づいたとも取れる新しい“死に方”の提案を目にするようになり
今までどちらかというと口にしづらい死に関する話題について
私とほぼ同世代の医師などの専門家が語り出してきたことは大いに歓迎すべきことであり
今後さらに議論が広がるに違いないと思うことしきりです。

(このことについては後日、改めて触れてみます)

 

 

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クドイようですが、「原因はうつ病」にはやはり合点がいかない。

2012年07月25日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

「高齢者の自殺の原因の多くがうつ病である」とする国の研究機関の根拠となる数字は
他には見つかりませんので多分、警察庁の「自殺統計」でしょう。

この中の、「年代別」の「原因・動機」は
遺書、書き込みなどに寄って“明らかなもの”を集計しているとされています。

その分類の一つが「健康問題」で
「=病気の悩み・影響(うつ病)」と但し書きが付いているのです。

これは何とも分かり難い書き方で、(うつ病)がどこに掛かるのかが不明です。

ただ、「健康問題」が数字的に7割を占めるのですから
「原因・動機の“多く”がうつ病」とするには「健康問題=うつ病」と解釈するのが適当なのでしょう。

いずれにしろ、うつ病なるもの、れっきとした病気であるとは言われているにしても
1度でも医師の診察を受けていたのならいざ知らず、本人の書いた遺書や書き込みの“文章だけ”で
うつ病に罹患していることを断定していることになります。

もちろん、周囲の人々にも聞き取り調査などはしているにしても
所詮、いわゆる状況証拠の域を出ません。

この断定の仕方ってこれで良いのでしょうか?

また一方では、今になって自殺未遂の治療に際し、保険治療が出来るように
「すでに精神疾患を患っていたため自殺に及んだ」とする便宜を
病院が図ってくれることが少なからずある、という事実を知りました。

その場で死亡が確認されない自殺未遂者が緊急搬送される時
それを受け入れる病院にとっては初めての患者であることが多いはずで
その見ず知らずの人に対して自由診療で高額な請求を上げることは
ある種、不良債権の危険を伴うことになりますので、それを避けたい病院と
他方では、本人または親族には、精神的なダメージに加えて上がることになる
高額な治療費の請求が避けられるのですから、これはこれで両者の思惑が一致するのでしょう。

こうして、未遂とは言え自殺に及んだ原因・動機はうつ病だったと記録として残るわけです。

つまり、死亡した人数の10倍にも達すると言われる自殺未遂者の“少なからず”は
便宜的にうつ病などの精神疾患に罹患していたことにされているのです。

残した遺書や書き込みを基に病気の悩みや影響が見られるとされる7割の人をうつ病とし
具体的な数字は不明にしても、少なからず含まれている未遂者の便宜的な診断書をプラスして
国などの研究機関では「高齢者の自殺の原因の多くがうつ病である」と
言い切ることにはやはり合点がいきません。

ただし、以前書きましたように、早く診察を受けて長期の投薬治療を受けさせれば
生命保険の免責期間の考え方と同じように、死にたい気持ちを
時間が変えてくれる効果を期待するもの、と私なりに無理やり解釈していますので
「高齢者の自殺の原因の多くがうつ病である」とし、予防には
この病気の早期発見が必要である、とする方向性には異を唱えるものではありません。

 

 

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保険との関係から考える「自殺の仕方」

2012年07月21日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

生命保険と健康保険における自殺の扱いをまとめてみます。

【生命保険】

「契約者」ではなく、「被保険者」が自殺の当事者であることが前提です。

法律(商法)上は自殺による死亡は免責となっていますが
保険会社各社が免責期間(現在は加入から3年)を設定し
その免責期間を過ぎていれば自殺による死亡でも死亡保険金(病死)が支払われます。

一応最高裁の判例でも免責期間が過ぎた後については
特段の事情が無い限り、支払われるべきとされています。

ただ、最近は保険会社によっては、約款上に
精神疾患が原因(薬の暴飲や異常行動など)での自傷、傷病、死亡(自殺だけではない)は免責
としているところもありますのでこの場合は当然支払われないことになります。

逆に、精神疾患が原因の場合には
免責期間にかかわらず支払われることもある、と書かれているところもあります。

すべては契約している保険の約款に記載されている内容に寄ります。

参考までに、基本的には加入した時期により
自殺の免責期間は次のように異なります。

1)1996年3月以前に加入の場合・・・1年間
2)2007年3月までに加入の場合・・・2年間
3)2007年4月以降、現在加入の場合・・・3年間

そして、自殺は災害死亡・傷害死亡(不慮の事故死)ではなく
“心の病”による普通死亡(病死)扱いとして「受取人」に死亡保険金が支払われます。

【健康保険】

大手一流企業によく見られる自社の組合
または中小零細企業が集まって作った組合による健康保険
その他企業が加入する政府管掌健康保険
自営業者や個人が加入する国民健康保険のどれも
自殺未遂に対する治療に関しては適用しないことが定められています。

つまり、現場で死亡が確認される社会死状態でない限り
病院に搬送されて受ける治療については、結局病院で死亡したとしても
全額自由診療による治療費を請求されてしまうのです。

この治療費は“保険診療の10割負担”という意味ではなく
その病院の時価であることに注意が必要です。

ただし、予め精神疾患を罹っていた場合にはどの健康保険も適用されます。

 

【これら保険のことを考えて自殺するとしたら…】

1.まずは自殺でも保険金が下りる生命保険に変更または新たに加入する

*申し込み時にすでに精神疾患になっていれば
保険加入そのものができませんので、2の“治療の前”にしなければなりません。

2.その後、精神科に行き「うつ病」として健康保険で治療を受ける

*この際、仕事上ではなく、家庭問題(夫婦、親子間不和等)の悩みを原因として挙げると良い
理由は“仕事上”とすると労災保険との絡みが出てきて面倒になることがあるからです

*最悪、うつ病と診断されなくても何度か診断を受け、その事実を残します

3.免責期間3年の経過を待ち自殺を実行する

結果

・社会死状態で発見される…治療費は一切発生しないので生命保険金を満額受け取れます
・未遂で搬送され死亡…健康保険が適用され1~3割の自己負担が生じますが生命保険金で賄えます
・未遂で搬送され生き延びてしまう…生命保険金は手に入らず治療費の1~3割の自己負担が発生します
また、2の精神疾患の治療も受けることになるかもしれません

(注意)

この記述に関しては、これまで学んだことを分かり易くするためのストーリーに過ぎず
不謹慎であることをお詫びしつつ、どこかに見落としがあってこの通りにコトが進まなくても
私が責任を負うことはできないことを申し添えます。

 

 

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自殺未遂の場合、治療に健康保険が使えない!

2012年07月17日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

自殺を企て、現場で社会死状態が確認され
救急搬送されなかった場合は治療費が発生することはありません。

一方で、搬送後、病院にて死亡が確認された場合
または幸運にも息を吹き返して未遂に終わった場合も
その治療には(政府または組合管掌)健康保険も国民健康保険も使えないので
高額な「自由診療」の請求が上がることになります。

この「自由診療」の治療費は、保険治療の基になる治療費の10割負担ということではなく
あくまでその病院の「時価」になります。

具体的な例として、ヤフー知恵袋で金額の妥当性を尋ねている次のような質問がありました。

飛び降り自殺(検案書推定時刻16:50)から45分後(17:25)救急搬送にて病院到着
集中治療室で蘇生措置を施すも47分後に死亡(18:12)

 初・再診療 10,000円
入院料  222,400円
検査    18,600円
画像診断  9,040円
注射     1,450円
処置    21,740円
手術   334,110円
その他    5,460円
消費税   30,867円

総計   653,667円

そして蘇生して生き延びた場合は人工呼吸器装着だけで毎日10万円
10日間で数百万(!)単位の医療費負担が生じることもあると言われ
これは自由診療の時価が保険治療の2~3倍になるためのようです。

あくまで比較のための参考ですが、今年初め間質性肺炎で他界した義母の場合
42日間ICUでほとんど人工呼吸器を装着され投薬治療、都合約50日間入院後に死亡
後期高齢者医療費として約110万円、自己負担はその1割の約11万円で済んでいます。

政府は2006年に自殺対策基本法を制定し対策を強めているのですが
健康保険法の規定はそのままです。

第116条  被保険者又は被保険者であった者が、自己の故意の犯罪行為により
又は故意に給付事由を生じさせたときは、当該給付事由に係る保険給付は、行わない。

この「自己の故意の犯罪行為」に自殺未遂が含まれています。

ただし…

精神異常により自殺を企てたものと認められる場合においては
116条の「故意」に該当せず、保険給付は為すべきものである。

戦前の通達(昭和10年代)による保険給付の制限なのですがで
現時点でも有効とみなされています。

また、大手企業の健康保険組合の規定においても

自殺(自殺未遂)の場合は
故意に基づく事故であり、その行為による傷病の治療や傷病手当金の支給はしません。

ただし、その自殺が精神の障害により
その行為の結果に対する認識能力のない精神的病気の患者の場合
例外として保険給付を行います。

なお、その後、その自殺の引き金となった精神的病気の療養を受ける場合も
その療養に対する給付を行ないます。

このように、自殺未遂で集中治療等が必要となった場合
家族には精神的ダメージに加え、極めて重い経済的負担がのしかかることになります。

健康保険法の規定は、相互扶助の立場から
給付を必要最小限に抑えようという趣旨で記載されています。

しかし、時代は進歩し、医療保障は社会保障の根幹であり、国民皆保険の理念から考えても
給付の制限はできる限り限定的とすべきです。

少なくとも、自らの命を絶つという行為に対し
例え経済的ペナルティを与えても自殺を予防することはできませんし
かえって新たな悲劇を生むことにも繋がります。

このため、現場となる病院では故意の自殺と見なさない精神疾患だった“ことにして”
これら保険が使えるように配慮し便宜を図ってくれることが少なくないとも言われています。

この「少なくない」が、「自殺の原因・動機」のデータ数字に含まれていて
その実態も実数も当然、明らかにできるわけがないのですから
「自殺の原因・動機の多くがうつ病である」という結論自体
私には疑う余地があるように思えてならないのです。

昨今の世間の経済事情が影響して保険治療における自己負担分でさえ
支払えない人が増え、病院経営が圧迫されている話も聞きますから
取っぱぐれのない保険治療だったことにしてしまう病院側の都合もあるのでしょうが
もちろん、こうした“便宜”を非難するつもりは毛頭ありません。

 

 

 

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自殺には必ず(?)警察が絡む

2012年07月13日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

ご存じの方は意外に少ないと思うのですが、救急車を要請するため119番に電話すると
折り返すように間もなく110番から逆に電話が入ることを何度か経験しています。

かつて、宅配便のお兄さんがトラックから荷物を下ろす際
リアゲートに立て掛けて積まれていた鉄パイプの存在を忘れて開けたため
それが倒れて頭に当たり出血するケガを負った時、119番に電話し
まだ救急車が到着しないうちに警察から電話があり状況を説明しろと言われたことがあります。

また別の一件ですが、会社の看板の付け替え作業中、看板屋のオジサンが足場から足を踏み外して
3mほどの高さから地面に落下した際も同じことを経験しています。

もちろん、どちらも110番の警察になど電話はしていません。

その時の警察の説明では労災保険の関係で状況を訊いてくるとのことでしたが
だとすればそんなに急ぐ必要はないのですから、多分
同時に緊急配備などの必要性を含めた事件性の有無を探っているのでしょう。

ケガでさえそうなのですから、家族や医師に看取られる場合は何の問題もないのですが
自殺を含め、犯罪性がないと即断できない限りは
人が死ぬと警察により周辺の状況などを事細かに調べられます。

朝ちっとも起きて来ないので寝室に行ってみたら布団の中で息をしていない
畑から帰って来ないので迎えに行ったら倒れていた などなど
高齢者の多い私の周辺などは何人かこういう方がいて
必ず警察が来て事情を訊かれ「大変だった」と皆さん口を揃えて言います。

平たく言えば、例え家族でも殺人や傷害などの事件性を探られるのでしょう。

今になって警察沙汰になっている大津市の中学生の自殺ですが
これは間違いなく自殺なので“事件性なし”として警察で処理されたものの
自殺に至った経緯に刑事事件としての疑いがあるとして強制捜査にまで発展しているのです。

ところで、原則として医師以外の者が患者の死亡を宣言する権限はありませんので
自宅で首を吊っている状態の者を発見した時などはもちろん、倒れている場合なども
生きている、もしくは生き返るかもしれませんので
110番よりまずは119番で救急車を呼ぶことが正解なのでしょう。

ちなみに交通事故においても、交通路の確保、けが人の救援を優先し
警察への連絡はその後で良いとされています。

これも私の車同士の衝突事故での経験ですが、けが人はなかったのですが
燃料が漏れていて119番で消防車を要請、この燃料の処理をしている間に
気が付くとまだ連絡していないはずの警察がちゃんと現場に来ていました。

なお、119番の救急業務規程の中では
「明らかに死亡している場合」や「医師が死亡していると診断した場合」には
救急隊は患者を搬送しないと定められているそうです。

つまり、救急隊は死亡判定はできませんが不搬送とすることができ
それ以外の場合は患者が生存している可能性があるものとして
取り扱うことが求められているのです。

「明らかに死亡」とは、無体温・死後硬直・死斑・断頭・体幹部の離断・腐敗・炭化・ミイラ化
その他の明らかに生存状態とは矛盾する身体への損害(いわゆる社会死状態)をいいます。

社会死要件を満たさない場合、救急隊員は救命措置を開始し
医師の診断を受けるまでそれを止めてはならないとされています。

そして病院到着時の診察で死亡が確認されることを「病院到着時すでに死亡」と言います。

実数は不明ですが、救急車到着の際にすでに「明らかに死亡」しているため
後を警察に引き継いで病院に搬送されない人の数は半数以上はいると聞いています。

なぜ搬送しないのでしょう?

もちろん、“誰が見ても死亡している状態”なのですから“何をやっても助からない”わけで
治療のため病院に搬送する意味はないからです。
(ただし、現実には後になって問題になるケースもあるようです)

他方、絶対に事件性が無いとは言い切れないので現場保存のため
また、救急車を別の要請に回すため、ともされています。

このように、一般人が自殺者を発見した時は速やかに119番通報すれば良いのですが
病院に搬送されて無事命を取り留めた、つまり自殺が未遂に終わった場合
家族や親族には“治療費は健康保険が使えない自由診療による実費”という
思いもかけない事態が待っているというお話は後日に回します。

 

 

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大津市の男子中学生自殺問題

2012年07月11日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

男女合計の自殺の「原因・動機」データにおいて
「19歳以下」を除いて、あとは全ての年齢別で第1位は「健康問題」です。

「19歳以下」の第1位は現在マスコミで騒動になっている「学校問題(29%)」であることと
「男性・40代&50代」のそれが「経済問題(35%)」であることがとても特徴的です。

29%を占める「学校問題」が具体的に何を指しているのか、良くは知りませんが
2位「健康26%」、3位「家庭18%」に次いで4位に「男女問題9%」が分類されているのですから
少なくても、若者にありがちな“失恋などの悩み”でないことは確かです。

ちなみに、H22年における19歳以下の自殺者総数543人
うち160人が「学校問題」で自殺していて、65%、105人が男子です
(この男性が7割を占める傾向は全年齢共通です)。

この先、どんな明るい未来があるかもしれない19歳以下の若者が
特に中学生が自らの命を絶つことは悲劇以外の何物でもなく、原因・動機の根絶は無理にしても
未然に防げなかったことに対する責任が周囲の大人達にあることは明白です。

それが分かっているからこそ、あれだけ必死に、“いい大人達”が責任逃れに終始するのでしょう。

現場の先生方を牛耳っているであろうTVによく登場するあの市教育委員会の“おえらがた”は
我々世代にすでに片足を突っ込んでいらっしゃるのでしょうから
あともう少し何事もなく過ごせれば、と保身に走ることが理解できなくはありません。

しかし、「あなたは何さま?」と問いたくなるような、またあれだけ矛盾に満ちた責任逃れの言い訳を
教育者のはしくれとしてのプライドをかなぐり捨てて
よくぞ恥ずかしげもなく全国に向かって言えるものだと感心せずにはいられないどころか
その姿には見苦しさ、その内容には憤りさえ感じてしまうのです。

もう若くはないのですから、自分の発言に後で悩んだ挙句
「うつ病」に陥って自らの命を絶つなんて状況にならないようにぜひご注意ください。

 

 

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