社会の一員としての現役を退いて1年半
まだ高齢者と呼ばれる65歳には2年ほど足りないとは言っても
すでに年金で家計のほとんどを賄っているのですから
生活的には高齢者と何ら変わることはなく
いわゆる年寄りと呼ばれてもそれを否定するつもりはありません。
ここ数年、年齢的にほぼ同じ世代で同じような生活をしている人が
急速に私の周りで増えているのは確かです。
その多くがさらに上の世代である80歳以上の親を看ていて
事実、私もその目的で隠居を機に義母と同居しましたが
僅か1年3カ月で他界してしまいましたので、この役目からはすでに解放されています。
そうした状況の下、最近ふと考えるのです。
年寄りが年寄りを看る制度は日本という国が期待する所でもありますので
この部分でのポジションは重要でしょうが
それを終えた年寄りに今の社会が求めるものが何かあるのでしょうか?
年金・医療で高額なお金を使い、することと言ったら悠々自適の名の下で
山登りだの旅行だの、私のように家庭菜園だのと趣味三昧の日々…。
本人達が「今まで懸命に働いた見返り」くらいに思っているのは勝手ですが
現役世代の負担の上にあぐらをかいて、いわば遊び呆けているのです。
もっとも、少しでも協力しようと職を探しても、すでに期待されていないことは
すぐに身にしみて分かることではありますが。
「おばあさんの知恵袋」に代表される「年寄りの知恵」などは
何十年も変わらぬ生活を繰り返す時代には役に立っったのでしょうが
20年前が“浦島太郎”状態の現代では通用しないことも多く
それでも知りたければパソコンを通じて
見ず知らずの方からいくらでも知恵が授かってしまうのです。
政治の世界や近所の世話役などではまだまだ活躍の場もあるのでしょうが
それとて、65歳以上が4人に一人、75歳以上でさえ
10人に一人もいるのですから多過ぎるというものです。
だいたいからして、頭が凝り固まった年寄りが数人集まると
過去の経験の違いによる見解の相違から
まとまる意見もこじれてしまうのがオチではありませんか。
そもそも日本のように、年寄りの長寿が果たして善なのかどうか疑問です。
ただし、“見放す”医療はできないそうです。
1割の自己負担分のお金が払えなくても治療をするのが今の医療だと言われ
どこの病院も未回収分で四苦八苦しているとも聞いています。
こうして医療費の9割と年金を給付して、つまりは現役世代が負担して
世の中であまり必要とされないお年寄りを生かし続けるより
希望通りの死に方ができる医学の開発を進める道もあるのでは…。
もちろん本人が希望して「もういいや」と思ったら
例えば、一流シティホテルの一室で、桜が満開のちょうど今日のような快晴の日に
朝食のモーニングコーヒーを飲み終えた後、心身ともに痛くもなく苦しくもなく
あっと言う間にあの世に旅立てる医療とシステムができないはずがないと思うのです。