本州最南端串本に消去された日本史あり

2020-11-08 00:00:40 | たび
串本は本州の最南端である。その串本の先にある大島こそ最南端で過去に色々なことが起きている。

まず、最近まではカツオの町だった。遠洋漁業の基地だったのだが、最近は近大マグロで有名になったがマグロの養殖や、大学関係の漁業の研究が盛んになっている。

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一方で「橋杭岩」と呼ばれる奇妙な海中列石ともいうべき奇景が目の前に存在する。火山、プレート運動、海食などの要因だ。おそらく紀伊半島自体が四国のように本州と離れていたのだろう。

串本が日本国の外交史にのるべく事件が二つある。一つ目は、太平洋を挟む日米の最初の出会いがあった場所であったこと。1791年のこと。米国は1776年に独立したあともずっとイギリスを中心とした国々と戦闘をしていて、やっと1783年にイギリスに独立を認めさせ、1789年に初めての大統領を選んだ。

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大統領の妻にちなんだ商船『レディ・ワシントン号』が僚船とともに串本に現れたのが1791年のこと。帆船である。ペリーが軍艦を並べて恐喝外交を企てた1853年に先立つこと62年である。

そもそも、商船といっても海賊船より少しましなぐらいなことをしていた。一応、略奪ではなく交易という体で、北米太平洋側の原住民から毛皮やタバコなどを仕入れ、中国の広東で売りさばいていた。ところが、本船と同じようなことをする米国船が現れて、中国で毛皮が売れ残ってしまった。

海に捨てるぐらいだったら、帰路の日本でたたき売りしようと船長は考え、鎖国下の日本に密輸しようと、本州最南端の串本に向かったわけだ。

最南端といっても幕府に知られる可能性もあるので、一応、「避難」ということにしていたそうだ。海賊の常套用語なのだろう。そして、密かに串本の先にある大島に上陸した。

ところが、当時の日本には毛皮を使う文化はなかった。(本当は青森の猟師などは、毛皮を使っていた。しかし、串本は現在でも本州唯一の亜熱帯地方なのだ。)さらに、紀州は徳川御三家、特に将軍は吉宗の代から紀州藩が引き継いでいたのだ。異人来寇の報は直ちに藩に連絡され、紀州藩は江戸表に相談する前に、討伐軍を編成し、串本に向けて出発した。

ここで、海戦が始まれば、それ以降の歴史はわずかばかりは変わっていただろう。

ところが暴風雨になったわけだ。日本史にはつきものだ。暴風雨にかかわらず、紀州藩が攻撃すればおそらくレディ・ワシントン号は投降しただろう。嵐では帆船は走れないし、そもそも戦争準備はしていないだろう。

しかし、攻撃は嵐が明けるまで延期になり、風が止むと同時に帆船はフルスピードで太平洋を疾走することになった。余った毛皮の行方は不明だ。

ところが、紀州藩には何の責任もないのだが、外国船が紀州藩に寄港し、打ち破れなかったことが知れるとまずいとして、幕府はこの事件を極秘扱いにする。明治になっても、そもそも新政府は元々攘夷だったのを帳消しにした気まずさから、なかったことになり、米国だってペリー提督の前に大統領夫人の船名で密貿易していたことを隠したかっただろう。

ところが、現在、乗組員上陸の地に「日米修好館」が建てられている。ペリー提督が串本に上陸したと勘違いしてしまう人もいるだろう。そもそも「修好」目的じゃなかったのに。

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次に、トルコ海軍の話。これは当時から有名な話だ。上述のレディ・ワシントン号の寄港から99年。1890年のこと。トルコ国皇帝の使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が、串本の海で暴風雨にあい遭難。トルコの海軍が知っている海は黒海とか地中海だろうが、太平洋とは全く違う。海を甘く見たのだろう。650人以上の乗った軍艦は漂流し岩礁に乗り上げる。冒頭に書いたように橋杭岩のようなのがゴロゴロしているのでひとたまりもなく船底が破れたのだろうか、おそらく船とともに沈んだり、嵐の海に投げ出されたのだろう。実に生存率は10%強。69名のみが救助された。

生存者を救助したり、介抱したり、流れ着く遺体を葬儀の上、埋葬したり、そもそも当たり前のことを国際標準としてしただけなのにトルコ政府からいたく感謝され、今日の友好関係が築かれたといわれている。また多くのトルコ要人も来日時に串本に足を向けるそうだ。

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