マンローと日本考古学

2013-05-12 00:00:40 | 美術館・博物館・工芸品
二ール・ゴードン・マンロー(1863~1942)という名前を知っているだろうか。いわゆる明治政府による「お雇い外国人」の一人だが、多くの外国人が10年前後の滞在で、その後、母国に戻っていたのに対し、マンローは、長く日本に在住。日本に帰化した上、北海道で亡くなっている。

横浜市歴史博物館で公開中の『マンローと日本考古学』(~5/26)では、彼の人生を中心に、日本での考古学の歴史とその業績がまとめられている。100年前の個人史をかなりの熱意をもって調査、資料収集が行われている。

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まず、マンローは何のために日本に来たのか?という点がよくわかっていないそうだ。なにしろ彼を有名にしたのは考古学で三ツ沢(横浜)遺跡をはじめ九州や長野、北海道の発掘調査を行っている。ナウマン象の名で知られるナウマン氏は化石発掘の専門家だが、マンローは医者なのである。25歳頃、ダーウィンの出身校として有名なエジンバラ大学を1年留年して卒業している。

そして、船医として、英国からアジアに向かう客船に乗っていたらしい。そして1891年(明治24年)、マンローは28歳で日本の土を踏んでいる。

そして、彼は30年以上を横浜で暮らし、三ツ沢貝塚を掘り、弥生遺跡の下に縄文遺跡が二重構造になっていることを発見するとともに、その中に「アイヌ」の痕跡を多数見出すわけだ。

つまり、まさに現代の日本考古学がついに辿りついたアイヌ→縄文→弥生という関係を見抜いていたようだ。

その後、彼は軽井沢に転居。彼自身は関東大震災の被害は受けなかったものの旧居のある横浜に駆けつけたものの留守宅に残していた貴重な資料の多くは灰燼と化してしまったようだ。

最晩年にマンローが選んだのが、北海道の二風谷(にぶだに)。ここでも、医院を開業する一方でアイヌ遺跡の発掘を続けている。なんとなくわかるのだが、縄文土器のデザインこそアイヌ式を洗練させて到達したような感じである。

なお、マンロー氏は日本では、小金井良精氏と親密だったようだ。この小金井氏の孫が星新一で、彼がマンローのことを触れた部分があるそうだ。昭和17年と言えば太平洋戦争が始まったころであるが、当局からスパイではないかと疑われる一方、日本が孤立化を進めていった時代である。このため、海外から日本への送金がストップすることになり、博士は栄養失調でなくなったと断言されている。現代にもそういう国はある。


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