『倭の五王』(藤間生大著)

2021-05-31 00:00:15 | 歴史
古代史の研究者による1968年の書。50年以上前の本だが、読後、いろいろと調べてみると、当時の様々な学説の大部分は、今でも有効で、古代史はそう進んでいないようだ。



本書からは離れるが、「邪馬台国論争」が解決しないため、その後の古代史のストーリーがうまく書けないわけだ。九州北部説では邪馬台国は、その後、東進して近畿地方に本拠地を移して大和朝廷になった、という話になり、「東進」という故事と結びつくのだが、物証面では、最初から近畿地方にあったような方向にあるし、あるいは邪馬台国と大和朝廷は関係ない別組織とも考えられる。

要するに、古代史の手掛かりというのは、
1. 古事記(712年)・日本書紀(720年)の記述
2. 中国の各王朝がまとめた歴史書に書かれた記録 および朝鮮半島での戦闘記録など
3. 発掘等による物証
なので、3世紀、4世紀、5世紀のことは、なかなか確定しにくい。

中国の歴史に書かれる倭国伝は、多くが倭国の国王から届く親書(中国も王朝の交代が多かった時期だ)、朝鮮半島の各国から中国に向けて日本の悪口が報告されているという記録によっているので、嘘はないだろうが、適当にまとめられて書かれていることもある。

倭の五王とは、宋の時代に書かれた歴史書の中の讃・珍・済・興・武もことだが、この五人は親書を出したから記載されたのであり、この五人の血縁関係者2名の名もあり、その2名が天皇だったのか天皇ではなかったのかは不明。このため5人の天皇ではなく7人の天皇かもしれないわけだ。

親書を持ってくる意味は、日本国王に対する肩書をもらうためであり、国内の王であるにとどまらず、中国より東側の取締をまかせるという意味のお墨付きのこと。当初は安東大将軍が安東将軍に格下げになり、それが復活し、鎮東大将軍になり征東将軍になっている。要するに札幌支店長みたいなことだろう。中国からすれば、日本が時々朝鮮半島で大暴れするのを放任したり、抑制したりしていたわけだ。また朝鮮半島各国は中国の政権に対し、いわゆる「告げ口外交」をしていた。

日本の天皇列伝でいうと、応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略と続く七人の誰が五王かということになる。この中で、途方もなく巨大な古墳を作ったとされるのが応神、仁徳の両天皇。知略がすぐれていたとされるのが雄略天皇であり、親書には言葉巧みに倭国の力をアピールしている。安部首相がトランプ大統領に金色のドライバー(50万円)をプレゼントしてご機嫌取りしたのと同じだ。そして、武は中国(梁)には見切りをつけて親書政策をやめてしまう。そして遣隋使は100年後になる。

はっきりしないことを書き綴るのはやめるが、古代史の研究家の多くは応神・神武両天皇の御陵といわれる巨大古墳を見て、古代史の謎にとりつかれるそうだ。