父親の残したクラシック全集の中にグリークがあった。果たして全15作曲家の中に入るべきかという問題はあるが、一枚のCDの中に代表曲数曲を詰め込むという方式なので、マーラーとか幻想交響曲のベルリオーズとかショスタコーヴィッチのような長尺作曲家は入らないのだろうと想像。
グリークは25歳の時に、この悲劇的なピアノ協奏曲イ短調を書いた後、何回かピアノ協奏曲に挑戦するも書き上げることができなかった。第一作が優秀過ぎると後で苦しむという芥川賞作家の苦痛のようなものだろう。彼は交響曲も一つ書いていて二つ目がない。何か潔癖症なのかもしれない。自分の中で理想と思えるものができたとき、それを後で超えられなくなる。
調べてみると、グリークのピアノ協奏曲とCDでよく一緒にカップリングされるのが、つい最近聴いたシューマンのピアノ協奏曲だそうだ。理由は、似ている感じがあるということ。シューマンを聴き直してみると、「違う曲だが、似ている感じがする」ということ。
どちらも第一楽章は「悲劇性」がテーマになっていて、ミステリー系のテレビドラマで多用されているようだ。メロディが流れると、必ず事件が起きる。殺人事件だ。しかし、両者を比べると、悲劇の質が違うように感じる。
シューマンのピアノ協奏曲は、人間社会のドロドロとした相関図の中でだんだん大きくなって破裂するような悲劇性。グリークの方は、人間では超えがたいような根源的な悲劇といった感じだ。
グリークには、もう一つの名曲があって、ペール・ギュント組曲1と組曲2。これも収録されている。もともとイプセンの劇に付ける音楽なのだが、結構問題の劇で、反宗教、反道徳のようなところがある。破天荒な放浪生活を送って晩年を迎えた主人公が、平凡な人生で終わるのは嫌だと思い悩む。平凡な人生を送ると、没後、服のボタンにされることになっている。作曲家にとっては夢のような題材だが、グリークはそんなに喜んだわけではなかったそうだ。自分はペール・ギュント氏と違って堅実な一生を送っていたからだろう。
人生は皮肉に満ちている。
ピアノ協奏曲イ短調 ピアノ:ダブラフカ・トムシック アントン・ナヌーカ指揮リュブリャナ・ラジオ・シンフォニー管弦楽団
ペール・ギュント第1組曲・第2組曲 リボル・ベザック指揮スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団
グリークは25歳の時に、この悲劇的なピアノ協奏曲イ短調を書いた後、何回かピアノ協奏曲に挑戦するも書き上げることができなかった。第一作が優秀過ぎると後で苦しむという芥川賞作家の苦痛のようなものだろう。彼は交響曲も一つ書いていて二つ目がない。何か潔癖症なのかもしれない。自分の中で理想と思えるものができたとき、それを後で超えられなくなる。
調べてみると、グリークのピアノ協奏曲とCDでよく一緒にカップリングされるのが、つい最近聴いたシューマンのピアノ協奏曲だそうだ。理由は、似ている感じがあるということ。シューマンを聴き直してみると、「違う曲だが、似ている感じがする」ということ。
どちらも第一楽章は「悲劇性」がテーマになっていて、ミステリー系のテレビドラマで多用されているようだ。メロディが流れると、必ず事件が起きる。殺人事件だ。しかし、両者を比べると、悲劇の質が違うように感じる。
シューマンのピアノ協奏曲は、人間社会のドロドロとした相関図の中でだんだん大きくなって破裂するような悲劇性。グリークの方は、人間では超えがたいような根源的な悲劇といった感じだ。
グリークには、もう一つの名曲があって、ペール・ギュント組曲1と組曲2。これも収録されている。もともとイプセンの劇に付ける音楽なのだが、結構問題の劇で、反宗教、反道徳のようなところがある。破天荒な放浪生活を送って晩年を迎えた主人公が、平凡な人生で終わるのは嫌だと思い悩む。平凡な人生を送ると、没後、服のボタンにされることになっている。作曲家にとっては夢のような題材だが、グリークはそんなに喜んだわけではなかったそうだ。自分はペール・ギュント氏と違って堅実な一生を送っていたからだろう。
人生は皮肉に満ちている。
ピアノ協奏曲イ短調 ピアノ:ダブラフカ・トムシック アントン・ナヌーカ指揮リュブリャナ・ラジオ・シンフォニー管弦楽団
ペール・ギュント第1組曲・第2組曲 リボル・ベザック指揮スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団