今時、ベーブ・ルースのこと

2021-05-07 16:15:39 | スポーツ
大谷翔平選手の活躍によって、再び歴史の中から顔を出したベーブ・ルース選手。1934年の日米野球で来日した時の横浜公園球場(現在の横浜球場)での写真を見つけた。そして、写真から情報を紐付けしていくうちに、ベーブ・ルースのことがわかってきて、何かかわいそうになってきた。いや、かわいそうなのは彼だけではなく、同じ日米野球で戦った沢村栄治もそうなのだ。



日米野球が行われたのは昭和9年(1934年)。日本各地を転戦した。来日メンバーはわずか15人。ピッチャー4人、キャッチャー2人、内野5人、外野3人、選手兼マネージャー1人。18戦の内2戦は日米合同チームを二つにわけて対戦。残る16戦はすべてメジャーの勝利だった。横浜の試合は第9戦。11月18日に行われ、4対21の大差となる。ベーブ・ルースは2本のホームランを放っている。

そして第10戦が11月20日の静岡草薙球場。沢村栄治がホームランの1点に抑え0-1の惜敗。最も僅差に迫った。

この1934年のシーズンはヤンキースでの15年間の最後の年になった。1895年生まれの彼は1919年から6年間レッドソックスに在籍し、投手としての出場が多かったが、不運(?)にも優秀な投手がチームに多く出番が少なかった。そのため、打者として練習を重ねているうちに同僚から嫌がらせを受けることになる。

もっとも後年にホームランを量産することになった布石として、投手であったからこそ安打狙いのバッティングではなく、一発長打を狙う大振り方式が認められていたと言われている。今の大谷選手のように、全打席ホームラン狙いでも文句が出なかったわけだ。

そして、おそらく来日中にも心痛だったと思われるのだが、既に39歳だった彼にヤンキースが示した翌年の年棒は、僅か1ドル。ヤンキースの監督を夢見ていた彼には残酷過ぎる通告だった。そして翌年、失意の彼を迎えたのは大赤字で苦しんでいたブレーブス。結局、1935年をもって彼の野球人生は終わる。

11年後1946年に腫瘍が発見され、闘病生活を続けるも1948年53歳で力尽きる。ご遺体はヤンキー・スタジアムで15万人のファン(半数は少年といわれる)とお別れをしたあと埋葬された。今から73年前のことだ。

一方、沢村栄治のことを簡略に書くと、1917年生まれ。日米野球の時はまだ17歳だった。この時の活躍で、間もなく(1936年)始まるプロ野球チーム、読売ジャイアンツに所属し、米国遠征を行う。しかし、1931年の満州事変に始まり中国大陸では1932年には満州国が独立し、日本は敗戦までの時間軸の初めの方にいた。彼も入隊したが、手榴弾の投擲訓練で右肩を壊してしまい、復員後は速球で抑え込むことができなくなり、サイドスローの技巧派に転向、さらにアンダースローに転向するも成績は上がらず、無情にも1944年のシーズン前に巨人軍を解雇される。その年、一人娘が誕生。年末に三度目の応召により屋久島沖で輸送艦の撃沈により戦死している。27歳。