横浜学園に関係した人たち

2019-11-19 00:00:22 | 市民A
夭折の作家、中島敦に興味を持って調べていた。彼の短い33年の人生の中で、東京大学国文学部を卒業した23歳の春(昭和8年/1933年)より、病気療養のため昭和16年/1941年に退職するまでの8年間勤務していたのが、横浜高等女学校だった。彼は、このあと直ちに1年間南洋庁に勤めパラオに勤務する。その1年の間に、今まで書き溜めた作品を知人に託し南海の島々で生活し、昭和17年/1942年には東京に戻る。ちょうど彼が東京に戻った頃から作品が公開されはじめたのだが、喘息の悪化により12月に亡くなってしまう。

多くの作品は横浜時代に書かれたわけで、国語教員としてどういう仕事ぶりだったのかというと、そこそこにまじめで普通の教師だったようだ。ある意味、東大卒業後、横浜の女学校の先生というのは、都落ちとも言えるのだが、彼は大学を卒業するまでに既に心身ともに十分に疲れていたわけで、女学校の先生が自分の希望だったのか運命に身を任せた結果なのかはわからないが、そのゆとりが後世に作家として名を残すことにつながる。女学校ということで、軍靴の音もそれほど高くはなかったのだろう。

そして、調べていると、この横浜女学校には、それなりに有名な人がかかわっている。簡単に学校の沿革だが、明治32年(1899年)に田沼太右衛門という人物が女子教育を始める(現在の学園長も田沼姓である)。6年後、明治38年に高等女学校が開校する。場所は元町から山手方面(フェリス)へ上る坂道の入り口のような場所で、現在はかなり大きい付属幼稚園に変わっている。

そして、女学校は大正12年の関東大震災で全焼してしまい、再建される。中島敦はこの再建後の女学校に勤めていた。さらに昭和20年には米軍の空襲で元町と一緒に焼けてしまった。そして、2年後、横浜学園高校として磯子の新校舎で再建され、その後、中学を併設し現在は男女共学となっている。歴史は長く立派だが残念?というべきか偏差値は40~50であり、同じような立地だったフェリスには大きく差を付けられている。上の大学がないことやミッション系の人気といったこともあるようで、進学校を選ぶか、有名大学の系属になるかといったことを考える時期なのだろう。

ちなみに、フェリスは明治8年/1875年に開校。関東大震災の時には、校長先生が殉職している。空襲の時は、坂の下の横浜女学校は焼けたが坂の上のフェリスは残った。



そういう横浜学園(横浜高等女学校)に関係した人物について調べてみると、なかなかの人たちがいる。

まず、国会議員がいた。

神取忍氏(1964年~)。高校在学中に柔道の全日本で優勝。その後、五輪ではなく女子プロレスラーを目指し、人気選手になるも、一念発起し2004年参議院選挙比例区に自民党から立候補。おしくも落選したのだが、2006年にあの竹中平蔵氏が議員辞職したため、突然に繰上げ当選となり、残り4年間の任期を務める。

山崎ハコ氏(1957年~)。シンガーソングライター。高校在学中にブレーク。中島みゆきよりも心の深い部分を揺さぶられる詞を書き、また訴えるように歌う。重すぎる荷物を引きずるような歌は中島敦と同じように生涯つき合っている慢性の病と関係があるのかもしれない。

原節子氏(1920年~2015年)。95年の長い人生のうち、女優を引退したのが43歳の時。その後の52年間、隠遁生活を送る。尋常小学校を卒業後、横浜高等女学校に入学するが経済的理由で中退し、親戚の映画監督の勧めで日活に所属する。計算してみると、1933年と34年の二年間は国語科教諭中島敦と重複している。

次に教師の方。
中島敦氏(1909年~1942年)。横浜高等女学校国語教諭(1933年~1941年)。

岩田一男氏(1910年~1977年)。英文学者。この人の本を受験に使った人は多いだろう。無数の参考書を執筆している。東京外国語学校英文科を卒業後、直ちに横浜高等女学校英語教師となる。中島敦と同時に新米教師になっている。岩田氏は「宝島」や「ジギルとハイド氏」の著者スティーヴンソンの研究家であり、中島敦の芥川賞候補作だった「光と風と夢」に大きな影響を与えている。その小説を書いたことは中島敦が後に南洋庁に勤務することに深く影響している。

渡辺はま子氏(1910年~1999年)。歌手。1933年武蔵野音楽大学卒業後、音楽教師として横浜高等女学校に勤務。奇しくも中島、岩田と同時に教師の道を歩みだす。同年、ビクターから歌手デビューし、二刀流生活になる。しかし、1年後の1934年、歌手の仕事のために勤務先の学校を休んだことから保護者がクレームをつけ、1935年に退職。戦争中は前線の兵士のために慰問を続け、中国大陸で終戦を迎え、1年間の捕虜生活を送る。自らを『戦犯』と位置付け、その後、フィリピンの刑務所に収容中の戦犯たちの慰問を行い、減刑、釈放へと大統領へ請願。全員の帰国につながった。

与謝野晶子氏(1878年~1942年)。歌人。ロマン主義文学の旗手。横浜女学校との関係は、学校で開催していた短歌会の講師というポジションだったようだ。夫(鉄幹)と一緒に出席していたようだ。教師でもなければ生徒でもないので強い関係はないのだろうが、1932年から1936年まで講師をしていたそうで、中島敦の在任期間にかぶる。国語教師としてその会に出ていたかどうかはわからないが、彼が短歌を集中的に詠んだのは1937年以降のこととされるが、大先生がいる間は恥ずかしくて公開しなかったのかもしれない。

というように、この学校は、今思えば中島敦が着任した頃が、もっとも華やかだったのかもしれない。しかも昨年(2018年)には、学園開闢以来となる大醜態が起こった。60歳超の副校長が部下の20代の女性教員二人を宴会のあとホテルに連れ込み、上半身にわいせつ行為をしたとして逮捕されるという事件が勃発(不起訴)。

再び輝くためには、元議員に理事長職を頼んでみてもいいのではないだろうか。