元首相の銅像

2019-11-10 00:00:12 | 美術館・博物館・工芸品
古い荷物を整理していると、銅像が出てきた。鎌倉時代の仏像だといいのだが、そういうことはない。銅像のモデルは、1838年生まれ。1922年に亡くなっている。元総理大臣で早稲田大学の創設者である大隈重信候である。幕末の肥前藩士である。薩長土肥の中の肥であり、影が薄いのだが、実際には長州藩は金欠であり、備前焼を長崎から輸出して儲けていた肥前鍋島藩の資金に頼っていた。

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そして、大隈重信も維新の英雄の一人だったのだが、薩長とは距離を保っていた。現代の感覚では違うのかもしれないが、デモクラットと言われている。

そして、大隈重信像として有名なのは、早稲田大学構内に立つ朝倉文夫作のマント姿である。実は、本物の銅像を見たことがあるし、同じものが日暮里の朝倉彫塑館にある。朝倉文夫は3体の大隈重信のブロンズ像を作ったが、その第二作である。ブロンズ像は石膏型を作ってから砂を固めて鋳型を作り金属を流し込むので石膏型があれば、同じものをつくることができる。もしかしたら拙宅にあったのも・・

では第一作と第三作はどこにあるかというと、第一作は現存しない。芝公園内に設置されたが戦時中に供出されたと思われている。デザインは当初はフロックコート着用であったが候の希望で衣冠束帯姿に変わったそうだ。この第一作については大隈講堂の中にある大礼服を着用した像であるという説が一般的だが、小倉惣次郎作である。評判が悪かった。大礼服を着ている姿が国家権力に近いと感じさせたわけだ。もっとも外務大臣や総理大臣を務めるのだから権力そのものなのだが。第三作は、国会議事堂内の中央広場にある。日本が立憲国家で議会制になった立役者の3人が要人とされ、巨大な立像が立っている。3人とは大隈のほか、板垣退助と伊藤博文だ。4人目の台はあるのだが、まだ人選は終わっていない。第三作の服装は、第一作の時に途中で変更になって消えてしまったフロックコート姿。政党政治家としての評価だろう。

これらの像はすべて足が義足で杖をついているのだが、これは彼が右翼の爆弾テロで片足を飛ばされたからである。当時は外務大臣だったわけだ。

私が中学生の時に、信頼していた社会科教師が、右翼に足を飛ばされた説明をするときに、「このあと大隈重信は外務大臣をやめることになり、文字通り『失脚』したわけです」と笑いを取ろうとしたのだが、他人の不幸をネタにするわけで、すっかり嫌になってしまった。

ふるさとの佐賀には幕末の頃のまだ足のあるサムライ姿の候の像があるそうだ。郷里を捨てて東京に出て行った行為には批判的なのだろう。



ところで、自宅の大隈重信候の像だが、レンガの前に置いてみると、まったく貫禄がなくなってしまった。



ちなみに本物の早稲田大学の大隈重信像では顔はまっすぐ正面の大隈講堂に向いているが、体はひねっていて講堂に正面を向けていない。一説によれば、直線上の背中にある大正天皇御手植えの樹木に背を向けないためだったそうだ。
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