源氏物語図扇面(げんじものがたりずせんめん)

2019-11-03 00:00:53 | 美術館・博物館・工芸品
月刊『経団連』の表紙に使われた扇子の画像だが、東京国立博物館所蔵の『源氏物語図扇面』。作者は土佐光元。1560年、30歳の頃の作と言われる。題材を源氏物語の巻十にとっている。元愛人である六条御息所が光源氏との心のもやもやを整理するため、都を離れ伊勢に旅立つ前夜に、光源氏がやってきて、つかの間の時間、思い出話をする場面だ。



光源氏の最初の愛人で、ある程度年上で教養があり、ある皇太子の妻で女児がいたのだが、皇太子が亡くなって心のスキマを光源氏との火遊びで埋めようとしたわけだ。ところが、徐々に光源氏が若い女と付き合うようになり、正妻の座を得ることなく、それらのライバル女性を祈り殺したりしはじめる。

さらに、いったん伊勢に退いたものの6年後に都に帰ってくる。しかし、その時には既に体力も衰えていて、娘の後見を光源氏に頼むのだが、娘には手を付けないように釘を刺す。しかも亡くなった後も、あちこちに邪悪な霊として登場し、さまざまな怨念を晴らそうとする。

源氏物語全編を通して流れる地下水脈の一つが、この六条御息所の怨念である。もう一つの地下水脈は、光源氏が行う禁断の関係、つまり父親である天皇の中宮(つまり義理の母)と関係を持ち、こどもが産まれてしまう。一応は天皇の子とみなされるが、実際は光源氏の子(天皇の孫)という背信行為である。

そして扇の作者の土佐光元。土佐派の重鎮である。武家(室町幕府)を支持母体とする狩野派とは一線を引き、宮中を支持母体としていた。やまとのものがたりを描くことが多い。

ところが土佐派はこの土佐光元をもって、一時、突然終わってしまう。当主である光元が信長が起こした但馬攻めに参加し、戦いには勝ち続けたものの、彼は陣中で死んでしまう。この扇子を作ってから9年後である。その時の総大将は羽柴秀吉。兵2万人を動員し、次々に城を落としたそうだ。

では宮中の絵師がなぜ不慣れな戦場に向かったのだろう。解答はどこにも書かれていないのだが、織田信長、羽柴秀吉がどういう絵師を起用するのかまだ決まっていなかった。土佐派なのか狩野派なのか。従軍して、すばらしい戦争画を描こうとしたのではないだろうか。

そして、土佐家が消滅し、絵師といえば狩野派ということになっていく。一応、光元の死から85年経った時に、土佐派は復活している。