木材・合板博物館

2018-06-17 00:00:02 | 美術館・博物館・工芸品
新木場駅で乗り換えることがあったので、かねてより狙っていた『木材・合板博物館』に寄ることにした。京葉線の高架脇を歩いていると、木材倉庫や印刷会社の倉庫などが並ぶ。「まな板 ○千円」で直販している工場もある。相場が見当つかない。たぶん、高級品なのだろう。杉とかヒノキではなく、マホガニーとか使うのだろうか。まさか合板ということはないかな、とか・・

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そして、数分歩くと、このあたり唯一の高層ビルがあり、その2フロアが『木材・合板博物館』になっている。

後述するが1階のエントランスには、堀江健一氏が太平洋横断に乗った『マーメイド号の縮小版レプリカ』が展示してある。とりあえず意味が分からないが、目的の階にエレベーターで上がる。

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そして、展示室の雰囲気ですぐにわかったのだが、この博物館は、木材・合板と並列に書かれているが、ほとんど『合板という工業製品』についての博物館なのだ。

実は、いまや合板の主流は集成材で、家屋を作るときの建材の多くに使われているのだが、日本で製造が始まった最初はベニヤ板(浅野式合板)だった。時代は古く1907年(明治40年)11月3日。この日は「合板の日」とされている。文化の日と同じだが、文化の日は明治天皇の誕生日なのだが、明治時代も天長節という祝日だったので、休日労働をして製造装置を稼働させたことになる。

ということで、合板の父、となるのが浅野吉次郎氏。1859年に尾張藩に生まれる。明治維新の直前だ。家業が桶屋。各種桶を作っていたが、明治時代になって大儲けするネタが現れる。桶屋が儲かるといっても落語のネタではない。茶箱である。ボストン茶箱事件がアメリカで発生している通り、世界にお茶ビジネスが広がっていて、インドとは異なり、日本は英国に頼らず、独自輸出していた。しかし、ビジネスは英国基準になり、取引は茶箱に入った茶葉だけの重さではなく、茶箱込みの重さの取引価格だった。そうなると、桶屋の作る日本の茶箱は重たいので、茶の価格が割高で国際競争力が低い状態だったわけだ。

一方の英国の茶箱はすでに合板が使われていたため、浅野吉次郎は試行錯誤の結果、マッチ棒の製造機を改良して合板造りに成功したということのようだ。

そのあたりの資料や製造機器がかなりたくさん展示されているわけだ。

上階は、木材加工の実演ができるコーナーと資料館になっている。


ところで、1階に降りて、再びマーメイド号を観ると、この国産ヨットは合板で作られているということだそうだ。合板業界の方々の見方は、「その点」なのだろう。木材よりも丈夫であるということなのだろう。決して「予算が安い」という話ではない、ということだろう。

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話はずれるが、その時(1962年8月13日)の毎日新聞の記事が紹介されていて、「密出国の大阪青年」とか「人命軽視の暴挙、送還後調べる」とかの言葉が並んでいる。