大塚・歳勝土遺跡:弥生時代の遺跡

2017-03-26 00:00:27 | 歴史
今、居住している横浜の都筑区は昭和40年代までは辺鄙な場所だったようで、日本のチベットと言われていた。チベットの人たちは今でも自治権を制限され困窮しているので、こういう言い方は慎まなければならないのだろうが、要するに居住には不便な場所だった。

しかし、港北ニュータウン開発が始まって都市化が進む中で、様々な古代遺跡が発掘されることになる。(同様の例は岡山県の山陽団地にも見られ、やはり開発が進む過程で、そこが弥生時代には大都市であったことがわかってきた。古代都市の上に住むということ。)

都筑区の遺跡の特徴は、古代の各年代について少しずつ離れた場所に遺跡があるということで、これが何を意味するのかは、よくわからない。

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今回は、横浜市歴史博物館の裏山にあたる大塚遺跡とそこに住んでいた人の墓地に当たる歳勝土遺跡へ。山の一部は削られ、6車線道路になっているということは、遺跡の一部は、もう存在しないということになるのだが、ここには弥生式建造物が立ち並ぶ。柱の土台から推測すると100人位の集落だったのだろう。

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復元された建物をよく観察すると、かなり本格的だ。かなりの建築技術が使われている(というか復元したのだから現在の技術なのだが)。現代人の素人が作れるかと言えば無理なので、弥生時代にも家を建てるプロがいたということだろう。当時は穀物を栽培していたのだから、火の管理は必要だっただろうから家の中に火のスペースがあったのだろうか。あるいは火鉢のような火種を保管していたか。

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穀物は高床の倉庫に保管されていたようで、柱にはネズミ返しの板が取り付けられていたのだろう。ネコはまだ日本には到着していなかったはずだ。

墓地は立派であるが、この集落の人が、何らかの宗教を持っていたかどうかは不明のようだ。邪馬台国はシャーマニズムが統治の根源にあったようだが、関東ではどうだったのだろう。


ところで、同じ都筑区内には、最古の文明である石器時代の最初の頃の遺跡もあるようで、大体の場所はわかっているのだが、もう少し調べてから出かけようと思っている。