ベッキーって何だったのだろう

2016-01-11 00:00:58 | 市民A
「ベッキーの冒険旅行」は始まって、すぐ終わることになりそうだが、なんとなく既視感のある展開になってきている。

その前に、ベッキーはどういう存在なのかというと、芸能人としてのタレントというかアイドルというか、そういう位置といってもいいだろう(略して「タレント」と書く)。

ところで、タレントという人間の集団を考えてみると、単なるタレントという人は非常に少ない。ほとんどのタレントは、お笑い出身とかスポーツ出身、俳優(女優)出身、歌手から転身、アナウンサー、最近は国語の先生とか元政治家や女医など様々なのだが、ほとんどは他の分野で努力を積み重ねて一流まで届かざるも二流レベル以上まで到達してから、その中で何か光るところがある人がなっている。

では、彼女は何だったのだろうと考えてみると、確かにCDを出したり、ドラマに出演しているけれど、それは彼女がタレントになってから後のことだろう。

つまりアイドル系のタレントという型枠にはまることを目的として自分をストーリーに合わせていたように感じるわけだ。そして、完全に周囲の期待するイメージの型枠に合わせていたわけだが、ついに無理というか矛盾が出てしまったわけだ。

「瞳が美しい清純なハーフタレント」。ロボットじゃないのだから。

思えば、サムラゴーチ事件は、聴力の不自由な作曲家という型枠にはまらなくなって長い人生演技が終了したわけだ。とりあえず、同じような展開になっているように思える。

つまり、すべてが何らかの目的(今回は商業的)で作られた偶像崇拝だったということなのだろう。アイドルの語源だって偶像だ。安倍政権だってベッキーほどではなくても疑うことなく信奉している人間はいる。自民党のCMキャラクターみたいなものかもしれない。

偶像崇拝の危険を、この事件から学ぶべきなのだろう。

それにしても、同じネタをつかんでいた他社が、あえてスルーしたのは、アイドルを傷つけた場合の損得があったのだろう。川谷×、ベッキー×、出版社◎ならいいが、出版社が×××という可能性はあるし、今回だって行き過ぎ報道との声も大きい。

不幸だったのは、文春の編集長は、秋の春画展の特集記事の中で「見せすぎて」しまい、手鎖3ヶ月という江戸時代のような処分を受け、編集長復帰を期して大スクープを狙っていたらしい。正月にわざわざ長崎まで取材に行ったわけだ。今回の結果が、蟄居幽閉なのか特別ボーナスなのか、まだ不明だ。

冒頭に戻って、専門分野のないタレントだったわけだが、ある意味ではネガティブではあるが「冒険旅行失敗者」というジャンルを作ったわけだ。冒険といえば右に出るものがいない「イモト」に弟子入りしたらどうなのだろう。所属事務所は異なるし、年は自分の方が上なのだが。