ガールズ ビー アンビシャス!

2015-04-19 00:00:06 | 美術館・博物館・工芸品
横浜開港資料館(横浜開港記念館とは別)で開催中(~4/19)の『ガールズ ビー アンビシャス!(横浜山手のミッションスクール)』へ。

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横浜が最も輝いたのはいつだろうと考えてみると、案外、明治の初めなのかもしれない。開国後、しばらくは外国人居留区だった関内と日本人の住居が別だったのだが、あっという間に一緒になった。

ただ、横浜山手には多くの外国人が住んでいたのだが、そこになぜかミッションスクールが立ちはじめた。

事情は、日本ではなく米国の方にあったようだ。米国は1830年頃から全国に公立小学校が開設されていく。卒業した女性がさらに進学できるように、セミナリーとかアカデミーとか言われる女子中等教育機関が誕生する。そうした中、小学校の教員不足を補うため、セミナリーの卒業生が教師になるということになり、教職女子が増えていたわけだ。

一方、19世紀は宣教の時代とも言われ、男性宣教師がキリスト教各会派から各国に送り出される(カナダでは先住民との間で問題も起きている)。

で、キリスト教各会派が宣教師を送る一方、付属の学校で女性教師が教えるというようなスタイルが一般的になり、やがてミッションスクールの方が中心となっていったようだ。

まず、有名な宣教師ヘボンの夫人が開いていた学校を譲り受けたのが、オランダ改革派のキダー女史。フェリス・セミナリー(現フェリス女学院)を開設したのが1869年。1871年には米国夫人一致外国伝道協会から派遣されたプライン、ピアソン、クロスビーの3人が開設したのが亜米利加夫人教授所(現横浜共立学園)。その教授所が移転した場所に1880年に入ったのが、ブリテン学校(現横浜英和学院)。さらにバプテスト系では1886年に英和女学校が開設される。

一方、カソリック側も1900年に横浜紅蘭女学校(現横浜双葉学園)を開校させる。

そして、横浜に住んだ多くの外国人と同様に、これらのミッションスクールは苦難の道を歩むことになる。

まず、米国で起きていた日本人排斥運動。関東大地震。国粋主義の台頭。そして日米開戦。

思えば、よく生き延びたものである。今回の展示は5校まとめてのものなので、それらの学校で起きていた色々な苦闘については、「本当は色々あるのだが、今回は軽く紹介」といった感じが、よく伝わってくる。各校の学校史などを読めば、ある程度までわかるのではないだろうか。

(といっても、社史などには、会社の黒歴史は書かれることはないし、社史編纂室に異動になる社員の質など考えても、内容は期待できないのだが、学園史の場合はどうなのだろう。)