広重の系譜

2011-05-31 00:00:21 | 美術館・博物館・工芸品
最近届いた手紙に、大きな切手が貼られていた。まあ、記念切手の売れ残りを郵便局が販売したのだろうと思っていたのだが、封筒を捨てる段になって、よく切手のデザインを見ると、「東京開化名所」「四日市郵便役所」「三代広重」とある。



まず、東京名所なのに、なぜ四日市なのか。考えればよくわからない話だ。広重って東海道五拾三次なのに、四日市の郵便局とどんな関係?

で、少し調べると、やはり妙な話にはそれぞれ理由があった。

まず、四日市だが、これは東京の地名だった。日本橋四日市。毎月四の日に市を開いていたのだろうか。そこに、日本最初の郵便役所の一つとして開設された。明治4年。東京中央郵便局である。当時は平屋建てだったらしいが、その後、切手のデザインのような洋風な建造物になったのだろう。

その後、東京駅前に郵便局は移転し、最近は、建て替えにあたって、歴史的建造物として物議をかもしている。

次に広重の話。

広重(1797-1858)ではなく、「三代広重」というのがミソで、有名な歌川広重(通称、安藤広重とも言われる)ではなく、三代目広重(1842‐1894)。では二代目(1826‐1869)はというと、これも初代の門人で広重の養女に婿入りしていたのだが、せっかく広重の号を継いだのに、離婚して横浜方面で外人相手の画家に転進してしまう。金儲け主義だ。それでは困ると言うので、二代目の弟弟子が、急遽、婿養子に入り直して三代目広重を継いだようだ。そして、初代と同じように、東海道五拾三次の絵を残している。あまり話題にならないのは、画才の方がイマイチだったかららしい。

ただ、すでに時代は明治。かなり苦労したのかもしれない。

そして、驚くことに、この広重には四代目(1848‐1925)がいる。広重の名前を残すために、さまざまな動きがあったようで、横浜にいった二代目の門人が選ばれたようだが、どうもこの人、書道では有名で、書道教室は繁盛していたらしいが、絵画は素人だったようだ。

さらに、五代目(1890‐1967)。この方は、四代目の実子。四代目とは異なり、本当の浮世絵師を目指し、戦争をはさんで活動していたようだ。ただ、江戸の時代の浮世絵師とは異なり、いわゆる日本画家というようなジャンルになるのだろうか。

となると、今後は六代目探しということになるのだろうか。なかなか重たい名前だから、無理というものかもしれない。