武内俊子のことから

2011-05-10 00:00:08 | 市民A
takeuchi先日、福山市のふくやま文学館に行った時に、地元の三原出身の童謡詩人、武内俊子の名前を知る。モノクロの写真は、日本人離れした美女顔である。だた、男でいえば有名な中原中也の帽子を被った写真など、文学者にはナルシストが多い。実際には、これより若干崩れたところに本物の容姿があったのだろう。

そして調べているうちに、大震災のあと突然有名になった童謡詩人、金子みすゞとほぼ同世代人であることがわかる。

金子みすゞは1903年生まれ。そして夫の暴力的行動のため、1930年、26歳で自殺してしまう。一方の武内俊子は1905年生まれ。「かもめの水兵さん」などの作詞で有名。1945年4月に東京で、病没。3月の東京大空襲の影響なのだろうか。39歳では長生きとは言えない。

そして、彼女たちが活躍をはじめたのは1925年以降なのだが、当時の童謡・童話の発表の場としては、3種の雑誌があった。雑誌「赤い鳥」、雑誌「金の船(後に、金の星)」、そして雑誌「童話雑誌」である。

この3誌には、それぞれに中心人物がいた。「赤い鳥」には北原白秋。また「金の船」には野口雨情。「童話雑誌」は西條八十である。

このうち、武内俊子が師事したのが野口雨情(1892‐1970)。野口雨情は弊ブログの中の「赤い靴はいてた女の子」の中にも登場。

一方の金子みすゞは西條八十に師事する。「若き詩人の中の巨星」と八十は評している。

しかしその後、みすゞは不運にも蛇のような男と見合結婚してしまい、上京することもなく詩人生命を失っていく。1927年に下関駅で西條に会った時が彼女の中では人生で最も輝いた時もしれない。

武内俊子は、広島県の三原に生まれ、広島県立第一高等女学校に進む。その後、結婚して東京世田谷に引越し。4人の子供を育てながら創作を続けることになる。

1945年の4月7日に東京で亡くなったのだが、墓地は広島市の二本松にある。

そして、昨年秋に、彼女についての新しい情報があった。中国新聞2010年11月10日発信

武内俊子のノートに未発表詩

三原市出身で「かもめの水兵さん」などの作詞で知られる童謡詩人武内俊子(1905~45年)の自筆のノートを、孫の武内ゆかりさん(59)=茨城県日立市=が相模原市の実家で見つけた。

ゆかりさんによると、未発表とみられる作品を含む複数の詩が書かれているという。ゆかりさんは三原市に寄贈する意向を示している。 

ノートは縦20センチ、横15センチ程度で厚さ約1センチ。表紙に「武内俊子」と記した名刺が張り付けてある。記入されていた年齢などから昭和初期ごろに書いたとみられる。


俊子には4人のこどもがいると言われ、その中の一人が、相模原に住んでいて、何らかの事情で、その家の整理をしていたところ、孫のゆかりさんが発見したということだろう。ノートの所有権をゆかりさんが持っているということは、遺品の整理ということだろうか。ゆかりさんの年齢から逆算すると、祖母の没後に生まれたことになる。

日立市というのも、今回の地震の被災地である。ノートが無事に三原市に寄贈されていたかどうかもちょっと気がかりである。


さて、

俊子が亡くなった1945年4月7日から4カ月後、母校の広島第一高女から650メートルの場所で原爆が炸裂する。そして没後364日後に鹿児島で生まれた少年が、その広島第一高女の現在の姿である広島皆実高校へ通学するようになる。吉田拓郎。



ところで、野口、西條と並ぶ三大童謡詩人の一人である北原白秋であるが、調べてみても女性詩人を育てたようにはみえないわけだ。そのかわり、3人の大物詩人を養成したことになっている。萩原朔太郎、室生犀星、大手拓次。

それだけの実績でも十分かと思うのだが、もう少し調べると、女性問題を起こしていた。1912年に松下俊子という人妻との関係が発覚し、当時存在した姦通罪で拘置所に入れられている。周囲の人間の奔走により何とか刑務所行きは免れたものの世間の哄笑にさらされることになる。(その後、白秋は松下俊子と結婚することになる。英国皇太子みたいだ)

白秋が野口に師事していた人妻美女の武内俊子に気がなかったかどうかは不明だが、再び事件を起こして、「白秋、別のトシコと関係か?」とか再び厄介に巻き込まれるのは、まっぴらだ、と思ったのかもしれない。 (と、いつものように俗に流れて本稿終わる)