御撰象棊攷格(1/2)

2011-04-29 00:00:26 | しょうぎ
先日、東京竹橋にある国立公文書館に行った時に、記念はがきの中に「将軍のアーカイブ」シリーズがあり、その中の一枚が徳川家治公の残した「御撰象棊攷格」の中の2題になっていた。将棋好きの第10代将軍の残した徳川家の図書館である「紅葉山文庫」に遺した自作詰将棋集である。はがきの他、公文書館のホームページからこの本の表紙を見ることができる

koryaku書物は二冊ワンセットになっていて、一冊には、百題の詰将棋が各1ページに記載され、もう一冊にはその解答が書かれている。ホームページの画像は、解答書の方の表紙と思われる。

家治公は名将軍と言われる吉宗の孫にあたる。吉宗は大の勉強家として知られ、紅葉山文庫の書籍を日々精読したと言われ、後世にその読書記録を書き残したがため、後代の将軍が逆に小読量を恥ずかしがって、さらに読書しなかったとも言われている。

そして家治の時代は、ちょうど、田沼意次が老中として政権を我が物としていた時代で、結果として家治は極楽殿様に徹することになる。幸か不幸か将棋界は、宗看、看寿の影響で詰め将棋ブームが起きていた。将軍までもが詰将棋を創っていたわけだ。また家治公は指し将棋でも家元の指導を受け、相当の実力(アマ高段ということだろうか)を持っていた。

ところが、この「御撰象棊攷格」だが、実は不詰めや余詰めなどの不完全作が多いことが知られている。なかには、簡単に誤りに気付く例もあるようだ。家元とも近い将軍が、どうしてこういうことになったのか、実は謎とされている。

言われているのは、
 1.伊藤家・大橋家といった家元に見せていない。
 2.家元に見せたものの、将軍に対して、誤りや改善策を口に出すことが憚られた。

との説があるようだ。

あえて、個人的に別の謎を上げれば、「御撰」というコトバを将軍とはいえ、自分で使うだろうか、ということ。上記の推測と微妙に係わる謎である。

そして、時代が下り、幕末の最終頁になる西郷×勝会談。東京を火の海にしてやろうという西郷に対し、東京を火の海にして守ろうという勝が会談を行い、江戸開城となる。本来、灰燼になるべき紅葉山文庫は、薩長軍の手先となり江戸城受け取りの任務を受けた尾張徳川家により、無事、後世に残されることになった。



記念はがきの二題だが、将棋ソフト「柿木将棋」で解かせると、一題目が9手詰と超早詰になり二題目は不詰になる。この方面の研究に詳しい大橋光一氏(家元大橋家の方なのだろうか)の詰将棋博物館に全百題が解説されていて、一題目から順に照合していくと、第98問と第99問であった。次のページが第百題で、裏表紙となるのだろう。家治の名誉の為にも完成作のページを使ってもらいたかったが、「なぜ、不完全作を記念はがきにしたか」という次なる謎を未来に残してしまった。修正図も掲載されていたが、これにも少し謎がある。来週また。


さて、4月9日出題作の解答。



1題目。▲2五金 △同銀 ▲2四金 △同玉 ▲3三馬 △1四玉 ▲2三龍まで7手詰。

相手駒を引きつけてから、接近(接金)戦に持ち込む。動く将棋盤は、こちら



2題目は、こちら


今週の問題。



かなり以前に、本コーナーに出題した作を、全面的に大改造した。以前作は、かなり中途半端だったので、ようやく完成に近づいたということで、なんとなく覚えている方も、全て忘れてから取りかかっていただけると嬉しい。

ヒントは、

 「王手と言えば、王手と言う」

 「大駒が欲しいと言えば、大駒をどうぞと言う」

 「一枚足りないと言えば、一枚どうぞと言う」

 「難解作でしょうか、いいえ、誰でも」

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評を記していただければ、正誤判断。