四人の東郷(2/3)

2011-04-27 00:00:27 | 歴史
heihachiそして、一方の東郷平八郎だが、こちらは薩英戦争に参加するもその力の差に愕然とするばかりだったそうだ。戊辰戦争に参加し、主に海軍として、榎本武揚、土方歳三を中心とした幕府軍と海上戦を経験。

その後、平八郎は、なんとか英国留学をしようと新政府の要職に頼みこむのだが難航。西郷隆盛の推薦を得て1871年から1878年まで英国留学に成功。1877年に西南の役で西郷が亡くなったのを見計らって日本に帰ってくる。果たして日本にずっといたら、どういうことになったのか、やはり西郷を裏切ったのだろうなと思わなくもない。

家系図によれば、この平八郎の兄に祐之進という人物がいて、夭折したことになっているが、祐之進=愛之進ではないか、という仮説を持っていたわけだ。なんらかの理由で、その人物がいなかったことにしたかったのではないか、ということ。たとえば、その後裔の不始末が海軍大将の名誉を傷つけるのではないかとの配慮とか。

togoその後、平八郎は日本海海戦では、丁字戦法という奇策を用いる。正面から迫るバルチック艦隊に対して横向きに艦船を並べて一斉砲撃を始める。軍艦は構造上縦長なので、そのまま戦闘を始めるよりも、横向きで艦砲射撃をした方が大量に砲弾を発射できるわけだ。ただし、横向きになることで、被弾する率が高いので、生きるか死ぬかという一発勝負型であるのだろう。なんとなく、先祖の編み出した示現流剣法と通じるところがある。なお、現代示現流は、平八郎と示現流をなんとか結び付けようとしているが、ちょっと苦しい。

四人の東郷の中で、次に、生まれたのが東郷茂徳(1882年-1950年)なのだが、実は、彼は東郷家の末裔ではない。生まれた時の苗字は「朴」である。そう、朝鮮半島出身者。とはいえ、朴家が日本に来たのは、秀吉の朝鮮出兵の時。捕虜になり日本に連行された。

薩摩焼を江戸時代を通して焼いていたわけだ。同じようでも佐賀の鍋島藩は、有田焼の陶工を半島から連れてきたが、後に半島に帰している。しかし、朴家は薩摩藩からは優遇され、サムライ扱いを受けていた。

ところが、明治になり、この海外からの客人たちの居処がなくなったのである。

shigenori本当は平等ではない「四民平等制」のため、元サムライ(士族)と平民の間の不平等が公認のものになったためだ。そして、元サムライ格を与えられていた朴家の身分も中二階風になってしまう。そこで、思い切ったウルトラCを行ったわけだ。

サムライ株を買う。

冒頭に書いたように、由緒正しい(ルーツは天皇家)東郷家も幕末は三十家以上に分かれていたそうだ。その中の一家がサムライ株を朴家に売ったことになっている。それが1886年のことで、東郷茂徳が4歳の時である。これによって、茂徳は東郷の姓を得るとともに日本人になったわけだ。

茂徳はその後、東大卒業後、ドイツ文学への夢をあきらめ、外務省に入省。ドイツ、ソ連大使を歴任。対米工作を重視する茂徳と独ソとの関係を重視する外相の松岡洋右とは対立し、クビになりそうになるが、東条内閣に替わり、今度は東郷が外相になる。

では、なぜ純粋日本人とは言い切れない東郷茂徳が、それほどの重職に就けたのか。現在の感覚ではよくわからないのだが、1910年の「日韓併合」後だったからなのだろう。茂徳が外務省に入省したのは2年後の1912年。29歳の時である。

そういう、本人の周りに起きた様々な偶然が、彼を外務大臣にしたのだろうが、結果として彼は1950年、巣鴨プリズンで病没。戊辰戦争で戦死した東郷愛之進と同様、靖国神社に祀られる。

(つづく)