四人の東郷(3/3)

2011-04-28 00:00:04 | 歴史
そして、四人目の東郷が、東郷青児である。画家である。彼の絵も誰も真似をし得ない特殊感覚。また、奔放な生活を送り、自殺未遂なども起こしている。もっとも当時の有名な画家や作家にとって、別に変ったことでもないのだろうが。

seijiで、他の3人とはかなり異なる分野に属すると思われる東郷青児だが、実は冒頭に述べた薩摩英国留学生の「東郷愛之進」の孫にあたるわけだ。ただし、実は血の繋がらない孫というややこしい関係になっている。

実は、この東郷調査のかなり早い時期に、「青児は愛之進の孫」という情報は得ていたのだが、あまり確度の高いソースではなかった。そのため、半信半疑だったのだが、ついに青児自身が自伝を書いていたものを発見。日経ビジネス文庫に収録されている「私の履歴・孤高の画人」の中に登場する。

本来、自伝のような俗っぽさとは無縁のはずの彼が、どういうつもりで「私の履歴」を書いたのか、それはさっぱりわからないが、もっと違う年代の時の人生を誇りたかったのだが、生まれた時の事情を書かないと自伝にならないから、幼少期の話は、おまけのつもりだったのかもしれない。

ともあれ、1897年、彼は鹿児島に生まれる。本名は鉄春。剣豪のような名前だが、東郷家の秘伝が示現流剣法であることと関係があるのだろうか。

祖父に当たる東郷愛之進は戊辰戦争に参加し、20歳台で亡くなったのだが、既に男児がいたそうだ。その男性に同じ薩摩藩士の家からきた母親が嫁いだのだが、三人の女児が生まれた後、東郷某なる夫がなくなってしまう。それでは由緒ある家系が消えるということになり、熊本より石山某という男性が入籍する。そして生まれたのが東郷鉄春なので、愛之進との血のつながりがないわけだが、孫ということになる。

ところが、当時の戸籍法では、石山某が石山家の長男だったため、すぐには東郷家への入籍が認められなかった。父親が石山姓だと、せっかくの男児(鉄春=青児)も東郷姓を得られないということで、出生後4年後の1901年に神戸で生まれたことになったそうだ。

この神戸というのは、青児によれば、一家がなんらかの理由で鹿児島から東京へ移住した途中に1年半の神戸生活があったそうである。さらに、青児の三人の姉(父親が異なる)は三人とも長崎にある活水女学校を卒業しているとのこと。鹿児島からわざわざ遠い長崎に勉学に行ったのも、なんらかの理由があると思うとしているが、母親に聞くこともなく、謎のままに終わったということだそうだ。

そして、姉の影響で、彼は青山学院中学を卒業後、母校から一文字を頂戴し、東郷青児として、画家への道を進み始めたわけだ。

本稿は四人の東郷の、それぞれの功績を評価する目的で書いたのではないので、ここで筆をおくべきだろう。

当初は、この愛之進の家系が東京に出てくるにあたって、東郷姓を朴家に売却したのではないか。そして愛之進が軍神東郷平八郎の兄で、そのため家系図を書き直し、愛之進の生まれ年にも疑念が生じたのではないだろうか、と推測を立てたのだが、東郷青児一家が東京に向かったのは、1900年頃であるのに対し、朴家が東郷姓を得たのは1886年ということ。また、青児が自伝の中で、鹿児島の菩提寺である南湘寺にある先祖代々の墓をまとめて東京に移したと書いていることから、東郷家をやめたわけではないということが知れるので、当初の推測が間違っていることがわかった。

これ以上の詮索をするには、鹿児島に行って調べないといけないのだが、その意味も希薄であるので、当面、ここまでとする。

(おわり)