東海道の旅、江戸・近代

2008-03-30 00:00:46 | 美術館・博物館・工芸品
446bd955.jpg日本の鉄道発祥の駅(と思われているが、本当は違う)、新橋駅を復元した鉄道歴史展示室で、『東海道・江戸の旅・近代の旅』展が開かれている(2008年2月26日~6月1日)。江戸関係、鉄道関係、旅行関係に寄り道ばかりしている不見識ブロガーとしては覗いてみるしかない。さらに言えば、入場料は無料だ。新橋駅から徒歩3分。松下ビルの手前だ。

まず、日本は古来、旅行王国だった。平安時代から、平和な時代には旅行記(紀行という専門単語まである)がたくさん書かれている。さらに江戸の時代になると『伊勢参り』というビッグイベントが完成し、武士だけではなく農民や商人が少なくても一生に一度は大旅行に出ることになる。伊勢参りの費用を無尽講で賄うようになる。もちろん武士は参勤交替制があり、自費ではないものの、堅苦しい集団旅行しなければならない。

画期的なのは、江戸時代の東海道は既に大勢が通行していて、女性同士で旅に出たりしても安全だったようだ。もっとも、歩くのが苦手ではどうにもならないが。為替制度も完成していき、大金を持ち歩くこともなくなったわけだ。もっとも、最低限の身の回り品などは、持ち歩かねばならず、大掛かりな集団旅行の場合は柳行李が使われていたそうだ。柳行李がトラベル用だったことは知らなかった。

さて、今回の展示を見ながら、東海道について二つの「歴史の常識への疑問」があったのだが、ややわかってきた。

その一つが、大井川。

要するに、橋がなく、両サイド(島田・金谷)の宿場から、肩車や牽台で「川渡し」をしなければならなかった。教科書的に言うと、「軍事的理由」ということになっていた。しかし、橋があっても軍事的理由なら、橋を落とせばいいはず。また、事実、幕末に薩長連合が江戸に向ったときは、何の役にも立っていない。教科書って変じゃないの?ということ。

やはり、裏があったそうだ。

確かに、江戸初期には架橋技術が未熟で、橋を架けても洪水の時は、全部流されてしまうため、橋をつくる意味がなかったそうだが、江戸中期には技術的には可能になる(あるいは、部分的には流されても、すぐに修復できる)。そのため、架橋計画が持ち上がったそうだ。が、そこで大反対したのが、両方の宿場だったそうだ。要するに、既存勢力だ。川渡し業者と宿場業者。川止めになれば、宿場にカネが舞い落ちることになるからだ。(残念ながら、裏には幕府中核部への賄賂があるのだろうが、そういうものは歴史には残りにくいわけだ)

次に、箱根の関所。

「入鉄砲に出女」とか言われ、厳重無比と教科書には書かれている。事実、箱根越え自体は正月の学生駅伝を見てもわかるように、難所ではあるが、実際にどれだけの人間を本気で調べていたか、よくわからない。関所手形が展示されていたが、要するに手形みたいなものがあれば、碌に調べずにパスしたのではないだろうか。偽造は簡単にできそうだ。第一、いかに関所が厳重でも、赤穂浪士などは、全員、江戸に潜入していたわけだ。

明治になると数年で、人の移動は自由になるが、実は、つい最近まで旅行や出張に行こうと思うと、結構大量の荷物を持っていかなければならなかった。コンビニが全国に展開され、クレジットカードが場末の飲み屋でも使えるようになり、「ふと思いついて、何も持たずに旅行にいけるようになった」のは、まさに今、可能になった。それを評価すべきなのか、現在、やっと江戸時代を超えることになったと、近代日本の回り道を嘆くべきなのか、どうなのだろうか。

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