明治宰相列伝(~10月26日)

2006-10-24 00:00:14 | 美術館・博物館・工芸品

ef94fe10.jpg竹橋の国立公文書館は、特別展に力を入れている。独立行政法人になってから急に働き始めた「いの一」ではないだろうか。テーマを決め、関係資料を探し出し、そしてパンフレットを作り、解説の音声ガイドを作り、それらがすべて利用無料。

そのうち、高い利用料金が設定されなければいいのだが・・

10月は「明治宰相列伝」。首相交代に合わせて企画したのだろう。昭和宰相列伝では生臭いだろうし、平成宰相列伝では、評価に腹を立てる人もいるだろう。

伊藤博文
明治は45年まであるのだが、最初に総理大臣になったのは伊藤博文。明治18年(1885年)12月22日。ところが、当時の内閣は、各大臣を総理が任命するのではなく、各大臣の集合体のリーダーが総理大臣だったわけ。最初だから、現代からみるとおかしなことは色々ある。伊藤は長州出身で明治維新の時は、まだ小物だったのだが、それが幸いして、大久保利通の後の日本の政治的リーダーになるわけだ。若いときはフットワークよく何度も米国や欧州を渡り歩き、明治憲法制定のため、オーストリアの公法学者シュタインの教えを乞う。

その後、首相になったのが44歳。働き盛りだったはずなのに、3年後に職を辞し、枢密院議長として憲法作成作業に入る。しかし、その後、第5代、第7代、第10代と都合4回も首相に就くことになる。どうも候補がなくなると伊藤が総理を引き受けているように思える。就任中には日清戦争が起きている。最後の宰相引退後、日露戦争になり、ロシア勢力が朝鮮半島から引き上げた後の朝鮮統監府の統監を任命される。

統監を引退した後、ハルビン駅で韓国人安重根に暗殺される。しかし、暗殺者の期待とは逆にこの事件の後、韓国は日本に併合される。

伊藤は、明治宰相の中でも、もっとも重要な人物だろう。

黒田清隆
薩摩藩士。伊藤より一つ上。どちらかといえば、北海道開拓にのめりこんでいたのだが、外交手腕を買われ、第二代総理として、対外国との不平等条約の改訂交渉を企てるが、失敗。あえなく辞任する。任期中に、現在、天然ガスの宝庫といわれるサハリンをロシアに譲り、北千島を日本領とした。

山県有朋
長州出身。きわめてタカ派であり、国力=軍事力という方程式に基づき、軍備拡張に走る。首相になった直後(明治23年、1890年)の首相施政方針演説で、持論である「外交政略論」をぶつ。日本の主権線と利益線という二つの線を引く。この利益線というのが植民地主義につながっていく。評価の賛否は両論にわかれるだろうが、歴史学上、非常に重要ポイントとなる宰相である。

松方正義
薩摩出身。政治より経済、という方針で、全国の産業の振興や大蔵省の整備、日銀の設立といった主に内政中心の施策をとる。このあたりの首相の中には、後に大正デモクラシーに繋がる人物もいれば、逆に軍国主義者も多い。

大隈重信
佐賀藩出身。早稲田大学創始者。外務大臣として不平等条約改定に努力するも、あまり成功しない。さらに、暴徒に爆弾を投げ込まれ、片足を失ってしまう。文字通り失脚なのだが、実は失脚したあとで総理に就任する。しかし、板垣退助との連立政権だったため就任後すぐに仲違いをし、今度は本当に失脚してしまう。本格的に総理を全うしたのは第二次大隈内閣のときだが、任期中に対華21箇条要求を行う。

桂太郎
長州藩出身。実は、在任期間は歴代宰相で一番長いそうだ。戦争遂行内閣。日英同盟、外国公募債、日露戦争などを起こした。ロンドンで発行した戦費調達のための国債は、利率6%という高利回りだったのだが、日露戦争に負けていれば、悲惨な運命が待っていたわけだ。

西園寺公望
実は、京都の公家の出身。加山雄三の遠い祖先である岩倉具視から政治界にスカウトされた明治最後の宰相なのだが、実際には総理を辞任してから長寿をほこり、院政を敷くことになる。昭和15年に91で亡くなったのだが、戦争責任はあったのだろうか?