三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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北川しま子さんの声

2016年01月31日 | 個人史・地域史・世界史
 昨年4月14日に北川しま子さんが亡くなった。9か月あまりが過ぎた。

■1993年11月
 はじめて北川さんに会ったのは、1993年11月だったと思う。雪の降っている夕方だった。
 1993年10月に、アイヌ民族についての差別表現がくりかえされている小説『アイヌの学校』が出版された。これは、長見義三氏が1942年に発表した小説で、恒文社が復刻したものであった。この差別文書にたいする行動についての話し合いが、ウタリ協会サッポロ支部で開かれ、わたしも参加した。そのとき、北川さんに会った。小川隆吉さん、石井ポンぺさんにも会った。その話し合いに参加していた和人は、わたし一人だった。
 ウタリ協会サッポロ支部の強い抗議によって、『アイヌの学校』は、1994年に絶版となり回収された。

■「アイヌモシリに侵略者は船に乗ってやってきた」
 1997年7月26日に、突然、外務省がオタル市にアメリカ合州国海軍の空母「インディペンデンス」のオタル寄港を打診してきたというニュースが流れた。オタル市長は、アメリカ合州国空母のはじめての民間港への入港を容認する姿勢を示した。わたしたちは米空母に反対する市民の会を創立し、8月20日から市役所正門内の小さな広場で、座り込みを始めた。米空母に反対する市民の会の活動に、北川さんは積極的に参加した。
 1998年3月30日に米空母に反対する市民の会が発行した冊子『小樽をふたたび軍港にしないために』に、北川さんは、「アイヌモシリに侵略者は船に乗ってやってきた」を寄稿してくれた。そこに、北川さんは、つぎのように書いている。
   「日本人が船に乗ってやってきたとき、アイヌモシリでは、アイヌ民族が平和にくらして
   いた。アイヌ民族は、やってきた日本人を、こころよく迎えた。……
    かれらは、恩をあだでかえした。かれらは、侵略者だった。……
    アイヌ民族は、侵略の船がくるのをなんども許して、アイヌモシリを侵略されてしまった。
    アメリカの軍艦が港にくるのに反対するみなさんの運動は、これからがたいせつだと思
   う。一度は許してしまっても、二度と許してはダメだ。……
    これからは、みなさんともいっしょに、アイヌモシリを人間の静かに住む大地としていく
   運動をすすめていきたい」。 

■2001年7月
 2001年7月2日に、鈴木宗男衆議院議員と平沼赳夫衆議院議員が、日本は単一民族国家だと公言した。このとき鈴木宗男議員は、“アイヌ民族は……今はまったく同化されている”と語っていた。
 この妄言にたいし、アイヌ民族の自治区を取り戻す会の北川しま子さん、日本基督教団小樽望洋台教会の柴田作治郎さん、米空母に反対する市民の会の佐藤正人は、7月19日に連名で二人の辞任を要求した(【辞任要求】鈴木宗男衆議院議員と平沼赳夫経済産業大臣兼衆議院議員の辞任を求める。http://www.jimmin.com/2001b/iwase_03.htm )。
 柴田作治郎さんは、毎朝、“ここはアイヌモシリだ”と言ってから起き上がると語っていた。小樽望洋台教会は、2011年3月27日に毎週の礼拝を終了した。その1年9か月あまりのちの2013年1月10日に柴田さんは亡くなられた。

■パレスチナとアイヌモシリ
 2003年3月に、ライラ・ハリドさん(パレスチナ国民評議会議員・パレスチナ女性同盟副議長)がアイヌモシリに来た。3月16日に、オタルで、「ライラ・ハリドさんを囲むつどい」が開かれた。この日、北川しま子さんは桑園の病院に入院中だったが、病院を抜け出して参加してくれることになっていた。
 このつどいの第1部「パレスチナ解放への道、世界解放への道」では、ライラさんが報告(私はずっと、パレスチナに帰ってオレンジを摘むことを夢見てきた)し、 第2部「パレスチナとアイヌモシリの過去と現在と未来を語り合う」では、北川さんの発言(アイヌモシリでパレスチナの人たちのことを想う)とライラさんの発言(占領された大地をとりもどす抵抗運動)のあと、参加者全員がイスラエルの侵略とたたかうパレスチナ民衆と連帯して、いま、具体的に、なにができるのかを、たしかめあう討論をすることになっていた。
 だが、北川さんの参加が、ムリになった。それを知った小川隆吉さんが、当日の朝、“しまちゃんが行けなくなったので、オレが代わりに行く”と電話をくれ、参加してくれた。小川さんは、パレスチナ解放闘争に学びつつアイヌモシリ解放闘争をすすめていく展望を語った。その翌日、ライラさんは北川しま子さんに会いに病院に行った。ライラさんは、“北川さんはパレスチナ人の気持ちをすぐにわかった。わたしもアイヌの気持ちがよくわかった”と言った。

■泊村と茅沼炭鉱跡で
 わたしは、北川さんと静内に行った。茅沼炭鉱跡にも北川さんは米空母に反対する市民の会のなかまたちと何度も行った。
 1941年4月3日に茅沼炭鉱に連行されていた朝鮮人労働者125人は、「米の飯を食わすまでは働かない」と言ってストライキをおこなった(『社会運動の状況』1941年)。1944年6月に茅沼炭鉱で働いていた朝鮮人労働者は814人で、同胞を殴り殺した日本人寮長に反撃するとともに、ストライキをおこなった(『特高月報』1944年7月分)。1945年10月18日に茅沼炭鉱で、700人の朝鮮人が、「退職金と物資配給」を要求した(『北海道新聞』1945年10月21日)。1945年11月ころ朝鮮人が帰国したあと、茅沼の地蔵院に7人の朝鮮人の遺骨が残されていた。1965年5月に地蔵院が廃止されたとき、その遺骨は、近くの法輪寺の本堂に置かれ、1965年秋、法輪寺墓地に新しく建立された無縁塔に移された。
 北川さんは、茅沼炭鉱で命を失った朝鮮人のことを強く思い、無縁塔や火葬場跡で何度もイチャルパを主催した。
 2003年に、わたしは、北川しま子さんと、高橋勇さん、小林けんさん、小林ホピーさんらと泊村に行った。そのとき『泊村史』に、アイヌ民族が「土人」と書かれ、1880年が泊村の「開村」の年とされていることを北川さんが「発見」した。その後、わたしたちは、何度も泊村教育長に差別表現、アイヌモシリ侵略を「開基」とする表現を削除、訂正し謝罪することを求めた。
 北川さんは体調をくずして入院したが、わたしたちは、2008年9月と11月に、北川さんが書いた要求書(「土人」や「開基」の削除、謝罪)をもって教育長と面談した。
 2009年に、教育長は、「土人」を削除し、開拓史観にもとづく記述を全面的に書きかえるという確認書をだした。

■北川しま子さんの生涯
 北川しま子さんは、「死ぬまで生きてたたかっていく」と言っていた。その声が、わたしの心にひびき続けている。
 北川さんの声は、優しい声だった。わたしの母は2005年に死んだが、生前、北川さんから電話がかかってくると、いつも、“ほんとうに優しい声だ。それに比べてお前の声は……”と言っていた。わたしの高校教師も、“北川さんの声は、きれいで優しい”とよく言っていた。
 わたしの家の電話に留守中にかかって来た北川さんの2001年7月の声がいまも残っている。

       2016年1月31日
                                佐藤正人
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