三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

アイヌモシリ植民地化後140年、海南島侵略後70年 1

2014年01月02日 | 海南島史研究
 海南島近現代史研究会の『会報』第2号(2009年2月10日発行)に掲載された「アイヌモシリ植民地化後140年、海南島侵略後70年」を3回にわけて連載します。
                                        佐藤正人
                             
■国民国家日本の近現代史
 1855年2月、「日魯和親通好条約」によって、日本政府とロシア政府は、北方諸民族が生活し労働してきた「千島列島」を分割してそれぞれの国家の領土とするとともに、「樺太島」を共有地とした。
 1869年9月、日本新政府(「維新政府」)は、それまで和人が「蝦夷島」と呼んでいた北方の島(アイヌモシリの一部)を日本の領土とし、「北海道」と名付け、植民地とした。
 1872年10月、日本政府は、九州南方の琉球王国を「琉球藩」として日本の領土に組み入れた。
 その2か月後の1872年12月、日本政府は、架空の「神武天皇」の即位年をBC660年に設定し、それを「紀元」1年とする「皇紀」の使用を開始し、天皇制の歴史と国家の歴史を一致させた。
1874年5月に、日本政府は、日本陸海軍3千数百人を、台湾に侵入させた(「台湾蕃地処分」)。
その翌年1875年9月に、日本政府は、軍艦を、江華島海域に侵入させた。1974年の「台湾蕃地処分」と1975年の「江華島事件」は、連続していた。
 1875年5月、日本政府とロシア政府は、「樺太千島交換条約」に調印した。これは、日本が「クナシリ島」からカムチャツカ半島南端沖の「シュムシュ島」までの「千島列島」全域を植民地とし、ロシアが「樺太島」全域を植民地とすることを、相互に承認しあう侵略国間の条約であった。
 1879年4月、日本政府は、「琉球藩」を沖縄県とした(「琉球処分」)。
「日清戦争」に勝利した日本は、清国との「媾和条約」(1895年5月批准書交換)で、台湾・澎湖列島を日本領とした。このころ、日本は、宮古・八重山地域を、曖昧な形で日本領とし、沖縄県に組み入れ、この地域にすむ人びとを日本国の「臣民」とした。それまでこの地域は、天皇(制)と無縁の地域であった。この地域西端の与那国島が現在、日本の最西端とされている。1522年に、侵入してきた琉球王国軍にウニトラ(鬼虎)らが敗北するまで、与那国島は、ひとつの国であった。
 1895年8月、日本政府は、台湾・フィリピン間中央の緯度線を「日本国及西班牙国版図の境界線」とする条約をスペイン政府と締結した。
 1898年7月に、日本は、「硫黄列島」東方の無人島を「南鳥島」と名付け、東京府告示で領土にした。それ以来、現在まで、この島が日本領土の最東端となっている。
 1900年に、日本・イギリス・アメリカ合州国・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア8か国の軍隊が連合して清国に侵入した(義和団戦争)。それ以後、1945年秋まで日本軍が中国から撤退することはなかった。
 「日露戦争」のさなか、ロシアの大規模艦隊が日本に向かっていた1905年1月末に、日本政府は、独島を自国の領土とすることを閣議で決定し、2月はじめに、島根県に「編入」した。大韓帝国政府が日本の独島占領を知ったのは、1906年3月末であった。
 「日露戦争」の「講和条約」(1905年9月調印)で、ロシア政府は、日本がロシアに代って遼東半島南部(「関東州」)と「満鉄附属地」を植民地(「租借地」)とすることを承認した。また、この「講和条約」で、日本は「樺太島」の南半分を植民地とした。この侵略国間の条約によって「国境線」とされた北緯50度線によって、先住民族の生活圏・労働圏が分断された。
 「日露講和条約」を批准した翌月1905年11月に、日本は大韓帝国を「保護国」とし、1910年8月に「併合」した。
 第1次世界戦争開始後まもなく、1914年8月23日に、日本はドイツに宣戦布告した。同年10月に、日本海軍は、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名付け、12月に軍政をしいた(日本軍守備分隊長が軍政庁長を兼任)。同じころ、日本陸軍はドイツが植民地としていた中国山東省の青島を攻撃し、11月に占領し、青島守備隊司令部が軍政をしいた。
 1922年4月に、日本政府は「南洋群島」の行政機関として「南洋庁」を設置した。「南洋庁」は、アイヌモシリ植民地機関である「北海道庁」と同じく内務省が管轄した。「南洋群島」の先住民族カナカ人やチャモロ人を、日本政府は公文書で「島民」と表現し、おおくの日本人は「(南洋の)土人」と呼んだ。
 1914年の「南洋群島」植民地化から1931年までの17年間、日本は領土・植民地を拡大しなかった(できなかった)が、1931年7月6日に、北回帰線の南に位置する「沖ノ鳥島」を、内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加えて、日本の領土とした。その約70日後の9月18日、日本は、中国東北部・モンゴル東部の軍事侵略(「満洲事変」)を開始した。
 1932年3月1日、日本は、中国東北部とモンゴル東部を植民地として、「満洲国」と名付けた。
 1939年9月1日、日本政府は、張家口に傀儡政府「蒙古連合自治政府」をつくって、モンゴル南部・河北地域を植民地とした。「満洲国」においても「蒙古連合自治政府」の支配地域においても、実権は日本政府・日本軍が把握し、日本族が支配民族として他民族を抑圧した。
 1933年1月1日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始し、1935年12月25日に、「冀東防共自治政府」をつくった。1937年7月7日の「盧溝橋事件」後、日本政府・日本軍は、1937年12月14日に華北に傀儡「臨時政府」を、1938年3月28日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、1940年3月30日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して傀儡「中華民国中央政府」をつくった。
 1938年12月23日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議で決定し、天皇ヒロヒトは、12月28日にそれを承認した。
 1939年1月17日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島侵略を最終決定し、ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」した。同じ日、大本営陸軍部と大本営海軍部は、2月中旬ころ海南島北部に共同で侵入し占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んだ。
 1939年2月10日、国民国家日本がアイヌモシリを植民地としてから70年後、天皇ヒロヒトと日本政府は、海南島に日本軍を奇襲上陸させた。
 その7か月後、1939年9月に、ポーランドに、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方から侵入して分割占領した。
日本政府が2月10日に日本軍を海南島に奇襲上陸させたのは、「紀元節」である2月11日に海南島の首都、海口を占領しようとしていたからであった。その50年前の1889年2月11日に日本政府は、日本国民をすべて天皇の「臣民」とする「大日本帝国憲法」を公布していた。
 1939年2月11日、日本のマスメディアは、海南島奇襲上陸(宣戦布告なしの海南島侵略戦争開始)の「成功」と「紀元節」を大きく報道した。日本国民(「臣民」)のほとんどは、侵略地域の拡大を喜び、支持した。
 アイヌモシリ植民地化開始70年後、日本は海南島侵略を開始した。
 今年(2009年)、それからさらに70年が過ぎた。
 国民国家日本の近現代史は、他地域・他国侵略の歴史であった。
コメント   この記事についてブログを書く
« 日本の海南島侵略の時代は終... | トップ | アイヌモシリ植民地化後14... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

海南島史研究」カテゴリの最新記事