三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 19

2014年01月19日 | 個人史・地域史・世界史
■「戦場」にされた地域の住民の死と日本兵の死 3
 アジア太平洋戦争開始2か月後の1942年2月17日に、日本陸軍第15軍は、ビルマに侵入し、3月8日に首都ラングーンを占領した。このときの日本陸軍第15軍司令官飯田祥二郎は、1939年2月に日本陸海軍が海南島に奇襲上陸したときの陸軍の「総司令」であった。
 日本陸軍第15軍がビルマに侵入してから2か月後の1942年5月に、第15軍所属の第56師団が、ビルマから北上して中国雲南省西部(滇西)に侵入し、5月5日に拉孟を、5月10日に騰越(現、騰衝)を占領した。ミッドウェー島海域で日本海軍がUSA軍に大敗北する1か月前だった。
 雲南省は、少数民族の多い地域である。日本陸軍地上部隊が中国雲南省西部(滇西)に侵入する以前から日本陸軍の爆撃機が爆撃をくりかえしていたが、とくに侵入直前の1942年5月4日と5日に保山地域を集中的に爆撃し、住民を1万人以上殺害した。爆撃直後からコレラが流行し、住民約6万人が死んだ。日本陸軍はこのとき「コレラ爆弾」を使ったといわれている。日本陸軍第15軍を構成していた組織のなかには「第11防疫給水部」が含まれていた。
 中国雲南省西部(滇西)に侵入した日本軍は、各地で住民を虐殺し、「捕虜の生体解剖」もおこなった(伊香俊哉「中国雲南省にみる日本軍の住民虐殺(一九四二年~一九四五年)」、田中利幸編『戦争犯罪の構造 日本軍はなぜ民間人を殺したのか』大月書店、2007年2月、参照)。
 1944年9月7日に拉孟を占領していた日本軍が壊滅し、9月13日に騰越を占領していた日本軍が壊滅した。約1300人の日本兵のほとんどが死んだ。このとき飯田祥二郎は日本陸軍中部軍司令官となって日本にいた。
 滇西抗戦期の戦士からの聞きとりを記録した章東磐『父親的戦場(中国遠征軍滇西抗戦田野調査筆記)』(2009年7月。山西人民出版社)、日本軍の侵略の犠牲者100人あまりの「口述」を記録した楊聖清主編『苦痛的記憶 中条山戦役難民口述歴史実録』(2011年5月。人民出版社)がだされている。
 最近の中国の近現代史書などでは、拉孟・騰越地域での抗日戦争を「中国遠征軍反攻滇西的作戦」あるいは「中国遠征軍滇西大戦」あるいは「滇西抗戦」といい(《中国抗日戦争史》編写組『中国抗日戦争史』2011年9月、人民出版社。雲南省保山地区新聞中心・雲南省保山地区博物館編『中国遠征軍滇西大戦』1999年12月、雲南美術出版社。耿徳銘『滇西抗戦史証』2006年5月、雲南出版集団公司・雲南人民出版社)、とくに拉孟での抗日戦争を「松山戦役」といっている(龍陵県文体局編『松山戦役映像志』2011年8月、雲南出版集団公司・雲南美術出版社)。 1990年10月に中国文史出版社からだされた《遠征印緬抗戦》編審組編『遠征印緬抗戦』では「滇西反攻戦」と書かれている。
 このブログの2012年6月9日の「海南島近現代史研究の課題と方法」をみてください。
                                         佐藤正人
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