三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 20

2014年01月20日 | 個人史・地域史・世界史
■「戦場」にされた地域の住民の死と日本兵の死 4
 マキンとタラワで日本軍が壊滅してから2か月後、1944年1月に大本営陸軍部は、陸軍をインド北東部のインパール地域に侵入させることにした。
 3月8日に、日本軍は、ビルマからインパール地域への行軍を開始したが、途上でイギリス軍の空爆を受け、食料、弾薬が欠乏し、日本軍は敗退した。
 敗退の途上で、食料をもたない日本軍の兵士が餓死した。
 日本軍のインパール地域への侵入ときには、インド国民軍の兵士約6000人が日本軍とともに参戦した。そのうち約2000人が戦死・餓死・病死したという。
 戦死・餓死・病死した日本兵は数万人であった。

 1944年6月11日にUSA軍はサイパン島への空爆を開始し、13日に艦砲射撃を開始し、15日に上陸を開始した。
 7月7日にサイパン島の日本軍は壊滅した。サイパン島にいた3万人あまりの日本兵の約2万5千人が戦死し約5千人が自殺した。サイパン島にいた日本兵以外の日本人のうち約1万人が爆撃・砲撃などで殺された。自殺した人も多かった。サイパン島に先住していたチャモロ人、カナカ人の犠牲者も多かった。サイパン島に日本政府・日本軍に強制連行されていた朝鮮人も多かった。

 サイパン島の日本兵を壊滅させてから半月後、7月21日にUSA軍はグアム島に上陸を開始した。
 8月11日に日本軍は壊滅した。グアム島にいた約1万8千人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。先住のチャモロ人の犠牲者も多かった。

 1944年7月24日にUSA軍はテニアン島への上陸を開始した。
 8月3日に日本軍は壊滅した。8000人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。約1万5千人の日本人移民のうち約1500人が死亡したという。約3000人の朝鮮人のうち犠牲になった人も多かった。

 ミッドウェー海域での大敗北の時点で、アジア太平洋全域での日本軍の敗退は決定的になっていたが、遅くても、サイパン島・グアム島・テニアン島をUSA軍が再占領した時点で、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、アジア太平洋侵略戦争を中止すべきだった。
 日本海軍が大津島に回天(=人間魚雷)の基地建設を始めたのは1944年9月だった。
 1945年8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾を投下したUSA軍の爆撃機が発進したのはテニアン島だった。
 1975年10月31日に天皇ヒロヒトは、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」と日本記者クラブ主催の公式記者会見で公言した。
                                           佐藤正人
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