三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本の海南島侵略の時代は終わっていない

2014年01月01日 | 個人史・地域史・世界史
 1998年6月に海南島をはじめて訪れてから、15年半が過ぎた。
 日本の海南島占領期(1939年2月~1945年8月)の侵略犯罪の実態を解明するとともに、海南島民衆の抗日反日闘争の歴史を究明することを主目的として2008年8月に海南島近現代史研究会が創立されてから、5年半が過ぎた。
 これまでの24回の海南島「現地調査」をふくむ海南島近現代史研究の過程で、海南島での国民国家日本の侵略犯罪のわずかな一部を知ることができただけである。
 海南島近現代史研究は世界近現代史研究の一環であるが、海南島近現代史のなかに世界近現代史における諸問題が内包されていることを、この15年半のあいだに、なんども確認した。
 1939年2月から1945年8月まで6年半の日本侵略期、すなわち抗日反日期の海南島近現代史を認識する作業もまた、世界近現代史における侵略と抵抗、国家、民族にかかわる諸問題を解明することなしには進めることができない。
 国民国家日本の海南島侵略の歴史を、国民国家日本のアイヌモシリ侵略以来の他地域他国侵略史の全過程のなかで認識しようとしないならば、なぜ国民国家日本が海南島を侵略したのか、なぜ国民国家日本の国民(「臣民」)のおおくが海南島侵略を実行・協力したのかを解明することができない(このブログに2012年6月12日から6月19日まで8回連載した「日本はいつ海南島侵略を開始したか」をみてください)。
 1939年1月17日に天皇ヒロヒトが海南島軍事侵略を「裁可」し、同じ日に大本営陸軍部と海軍部が「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を締結し、2月10日に日本陸海軍が海南島に奇襲上陸した。それ以後、6年半の間、日本政府・日本軍・日本企業は、海南島で、住民虐殺・略奪・軍事的政治的文化的経済的民衆支配・女性にたいする性的犯罪を続けた。
 海南島侵略をふくめ、1925年1945年の国民国家日本の侵略犯罪の最悪の責任者はヒロヒトであった。  
 1945年4月28日にイタリアでムッソリーニがパルチザンに銃殺され、その2日後にドイツでヒットラーが自殺した。
 しかし、日本ではヒロヒトは生き残り、1945年8月14日に、なおも日本の第2次アジア太平洋戦争の目的を「帝国の自存と東亜の安定」であったと主張し、「神州」である日本は不滅だが、「敵」が残虐な爆弾を使うのでこれ以上戦争をつづければ民族が滅亡し、人類の文明が破滅するので、ポツダム宣言を受諾するのだ、「忠良なるなんじ臣民」はこのことを理解せよ、と傲慢卑劣な口調で語り、その録音が、翌日の8月15日にラジオで放送された。
 1946年5月3日に「東京裁判」が開始されたが、ヒロヒトが戦犯容疑者となることはなかった。その半年後の11月3日(「明治節」。1927年制定、1948年廃止。「明治天皇」の誕生日)に、ヒロヒトの名で、「日本国憲法」が公布された。その6か月後、東京裁判開廷1年後の1947年5月3日から、「日本国憲法」が施行され、戦犯ヒロヒトは、「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」となった。

 海南島で日本政府・日本軍・日本企業が殺害した民衆が何人であるかも明らかになっていない。おおくの犠牲者の名は明らかになっていない。
 アジア太平洋全域で日本政府・日本軍・日本企業が殺害した民衆が何人であるかも明らかになっていない。おおくの犠牲者の名は明らかになっていない。
 
 海南島における国民国家日本の侵略犯罪が包括的に解明され、犯罪事実が明らかにされ、日本政府が謝罪し、賠償し、責任者を処罰しないがきり、日本の海南島侵略の時代は終わらない。アジア太平洋全域における国民国家日本の侵略犯罪が包括的に解明され、犯罪事実が明らかにされ、日本政府が謝罪し、賠償し、責任者を処罰しないがきり、日本の侵略の時代は終わらない。
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