三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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アイヌモシリ植民地化後140年、海南島侵略後70年 2

2014年01月03日 | 海南島史研究
■1939年2月10日
 1939年2月9日(農暦1938年12月21日)夜9時過ぎ、海南島北部の天尾沖に、日本軍の艦船が侵入し、10日未明から、陸軍部隊が、天尾海岸に上陸しはじめた。
天尾海岸に奇襲上陸した部隊は、3路に分かれて首都海口に向かい、10日真昼に海口に侵入した。同じ日、これとは別に、日本海軍陸戦隊が、海口東北海岸を河口とする大河、南渡江をさかのぼって海口に侵入した。

 この日本軍に、「軍報道員」として日本人「文学者」火野葦平や中野実が加わっていた。そのときのことを火野は、『海南島記』(改造社、1939年)で「報告」している。
火野や中野は、海口に侵入するとすぐに、日本軍の「布告」や宣伝ポスターを張ったり、紙に赤鉛筆で「ヒノマル」を書いて「部落の主だったところに貼るように指示」して、「重大なる文化の闘い」をおこなった。
 火野は、2月10日夕方、海口の市場で、日本軍票をつかって豚肉や野菜や豆腐を入手した。そのときのことを火野は、
   「私達は市場に入りこんで買い物をしたが、その物価の低廉なのに先ず驚き、私達がど
   うであろうかと思って出した軍票を、支那商人が平気な顔ですぐに取ったのに更に意外
   の感を抱いたのである」
と書いている。市場の人は、突然侵入してきた日本軍の兵士がつきだしてくる、見たことのない紙切れを、紙幣として受けとらざるを得なかったのではないか。
 その後も、火野は、軍票を使っている。あるレストランの店主は、火野や中野らが集団で飲み食いしたあと、軍票で支払おうとしたとき、「なんぼでもよい、どうでもいいようにして下さい」と言ったという。
 軍の暴力なしには、金額が印刷された紙切れである軍票を紙幣として流通させることはできない。
 火野葦平がこのとき海南島にもちこんで使用した日本軍票は、日本軍が、1937年11月から使いはじめた「甲号軍用手票」であった。1937年7月7日の「盧溝橋事件」の後、日本軍は8月に上海に大規模に侵入した。つづいて、さらに11月5日に杭州湾北岸の金山衛に大量の日本軍が奇襲上陸した。その2週間前の10月22日に日本政府は、軍票発行を閣議決定していた。
 11月5日に金山衛に上陸し南京に向かった日本軍が使用した「甲号軍用手票」の裏面には、漢語で「此票一到即換正面所開日本通貨」と印刷されていた。だが、それは、偽りであった。10月22日閣議で決定された「軍用手票発行要領」では、「軍票と日本通貨との引換えは当分の間行なわないものとする」とされていた。火野葦平は、1937年11月5日に日本兵の一人として金山衛に上陸し、犯罪をくりかえしつつ進み、12月14日に南京に侵入していた。

 海口で火野葦平らは、海南書局のカギを壊して占拠し、「軍報道部」の「看板」をかけた。火野は、そのときのことを、
   「竈には火が残り、茶碗や箸が散乱し、鍋には暖い飯が残つてゐるのは、我々が入る直
   前まで、誰か居たことが歴然として居た」、
   「私達が入る直前に書かれたと思はれる白墨書の文句が家の中の板壁に幾つもあつた。……「打倒日本」「打破日本帝国主義」「中国努力打日本鬼子死了」いふようなものである。
   これは多分店員か職工の書いたものと思われる」
と書いている。
 火野は、『海南島記』のなかで、「私は軍報道員として、此の度の光輝ある海南島攻略に参加しました」、「我々は、今度の海南島攻略は、銃火を以てする戦闘とともに、重大なる文化の闘ひであるとの意気込みを持つたのである」と述べ、海南島民衆を、「土民」、「五指山中に居る蕃族」と呼び、「南洋の土人に近い表情を湛えていた」、「彼等は北方の海南人より一層南洋の土人に近い」などと表現し、抗日武装部隊の人びとを「奥地に蟠居して居た共匪」と言っている。

 火野葦平は、「戦犯作家」として1948年に公職追放となった。
 1937年7月から1945年8月まで、日本の「文学者」のほとんどすべてが日本国民を侵略戦争に煽動したが、戦犯に指名された日本の「文学者」は少なかった。
 火野葦平が戦犯として公職追放処分になる前年、1947年5月、最悪の戦犯天皇ヒロヒトを「日本国の象徴」・「日本国民統合の象徴」とする「日本国憲法」が施行されていた。
 火野は、1950年に公職追放を解除されたが、1960年に自殺するときまで、日本軍兵士や「軍報道員」として犯しつづけていた侵略犯罪を自己批判することはなかった。

 日本の新聞は、連日、日本軍が海南島占領地域を拡大していく状況を煽動的に報道していた。
 日本のマスメディアや火野のような日本軍宣伝員が、日本の海南島侵略を全面的に肯定的に報道しているとき、海南島侵略に怒りを感じた日本民衆、あるいは疑問を感じた日本民衆は、どのくらいいたのだろうか。
                                         佐藤正人
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