三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島の朝鮮人兵士 22

2011年10月17日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 日本政府・日本軍・日本企業によって日本占領下の海南島におくられた朝鮮人の人数ははっきりしていません。海南島で命を失わされた朝鮮人の名もほとんど明らかになっていません。
 1944年7月の『海南警備府戦時日誌』(海南警備府機密第27号ノ7)には、7月1日現在の総人数は、「士官」148、「特准」290、「下士官」2799、「兵」4535、「高等文官」117、「高等文官待遇」26、「判任文官」430、「判待」1366、「雇員」1935、「傭人」24046、計37092 と書かれています。このうちの何人が、朝鮮人、台湾人、海南島人であったかは、わかりません。
 「朝鮮報国隊」の隊員として朝鮮の監獄から海南島におくられた朝鮮人は2000人(あるいはそれ以上)と思われますが、兵士、軍属、日本企業の雇い人として海南島におくられた朝鮮人の人数は、概数すらはっきりしていません。
 1941年4月1日に鎮海海兵団に入団し日本海軍2等水兵となった第1期特別志願兵の朝鮮人青年のうち数百人が海南島におくられましたが、かれらが乗せられた船がバシー海峡で沈没し、多くの人が水死しました。
 「軍人軍属名簿」データ番号00770519930000511の中の海南島におくられた第1期特別志願兵110人の記録には、バシー海峡での死者の記録は含まれていません。また、この110人の110枚の個別記録のうち、バシー海峡での「遭難」が明記されているのは、25枚だけです。110人全員は、バシー海峡で「遭難」し、かろうじて生き残った朝鮮青年たちでした。
 昨年4月26日と6月25日に自宅で話を聞かせていただいた第1期特別志願兵だった鄭明出さんは、自分が鎭海を出発してから釜山に戻るまでの軌跡(鎮海→釜山→門司→鹿児島→基隆→高雄→東港→バシー海峡→北サンフェルナンド島→マニラ→西沙群島→カムラン湾→西貢→カムラン→貴仁→塩浦沖→塩浦→峴港→三亜→北黎→海南島発→香港着→香港発→広東着→広東発→釜山着)と当該年月日を示す手書きの「遭難明白地図」と題する地図詳細な地図をつくっていました。この「遭難明白地図」には、鎮海を出発した日が1944年8月11日、台湾の高雄に到着した日が8月29日、バシー海峡で乗っていた船が沈没した日が9月9日、海南島の三亜に到着した日が1945年7月27日、海南島を出発した日が1946年4月15日、釜山に到着した日が1946年5月1日と書かれています。
 しかし、「軍人軍属名簿」データ番号00770519930000511の中の鄭明出さんの記録には、つぎのような内容が書かれてあるだけです。

  職業 農業  
  1944年4月1日 鎮海海兵団入団 海軍2等水兵ヲ命ズ
     6月30日 横須賀第4特別陸戦隊 海軍1等水兵ヲ命ズ
  1945年5月1日 海軍上等水兵ヲ命ズ
     7月13日 佛印ツーラン憲兵隊ニ逮捕セラレ7月21日〔以下判読できない〕
           海南島海軍刑務所ニ送置
     8月3日 戦時逃亡罪ニヨリ懲役7月(2年間執行猶予)ニ処セラル
     9月1日 海軍水兵長ヲ命ズ
     9月3日 出監
     11月20日 兵籍ヲ呉鎮守府ニ変更シタルモノト看做ス
  1946年5月1日 帰還(釜山上陸推定)

 鄭明出さんが「佛印」のツーラン(現、ダナン)で逮捕されたときのことについては、このブログの2010年7月9日の「朝鮮軍人自営隊 4」をみてください。
                                        佐藤正人
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