三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

碑文案・説明文案1

2009年09月12日 | 紀州鉱山
■9月6日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会第2回集会で検討された碑文案と説明文案1は、つぎのとおりです。


碑文案

 朝鮮の故郷から引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。
 家族とともに紀州鉱山に来て亡くなった幼い子たち。
 わたしたちは、生きて故郷に帰ることができなかったみなさんを想い、なぜ、
みなさんが、ここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、その歴史
的責任を追究していきます。

  2010年3月
  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会


 조선의 고향에서부터 갈라 놓아 기슈광산에서 일하게 되어 돌아가신 분들.
 가족과 함께 기슈광산에 와서 죽은 어린 아이들.
 우리는 살아서 고향으로 돌아가지 못했던 여러분을 생각하면서 왜 여러분이
여기서 목슴을 잃지 않았으면 안되었던가를 밝히고 그 역사적 책임을 추궁해
나갈 것입니다.

  2010년3월
  기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 비석을 건립하는 회


説明文案1

 紀州鉱山・田独鉱山・カランバヤンガン鉱山……
 1940年から1945年までに、のべ1300人を超える朝鮮人が、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられました。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山で働いていた朝鮮人がいました。
 紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍によって強制連行された人たちでした。田独鉱山で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていません。
 田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
 紀州鉱山で朝鮮人労働者130人は、1941年5月、米穀の増配を要求してストライキをおこないました。1944年秋には、紀州鉱山の坑口に、「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられてあったといいます。
 1942年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、日本軍と戦って「捕虜」とされた人を含む多くのフィリピン人を強制的に働かせました。

 わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、そして海南島の田独鉱山で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを追悼し、その歴史的責任を追究していきます。

  2010年3月
  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 熊野市指定文化財「史跡 英... | トップ | 説明文案2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

紀州鉱山」カテゴリの最新記事