「The Hankyoreh」 2024-09-01 22:50
■十五円五十銭[コラム]
「こらッ! 待て!」。
関東大震災が東京を襲った翌日の1923年9月2日、早稲田大学英文科の学生だった壺井繁治(1897~1975)は、友人の安否を確認するため、大学近くの下宿街、新宿の牛込弁天町にあるその友人の家を訪ねた。地震に乗じて朝鮮人たちが暴れているといううわさがその街にも広がっていた。壺井は下宿を出て、大混乱に陥っている東京の街を歩いた。地震の残酷さと「銃剣」で武装した兵士たちが醸し出す殺気が満ちていた。橋の前に設置された戒厳屯所で、ある兵士に一行は呼び止められた。
「貴様! 鮮人だろう?」。
「いいえ、日本人です、日本人です」。
日本の軍警と自警団が「井戸に毒を入れる」朝鮮人と善良な内地人(日本人)を区別するために使った方法は「発音」だった。避難する壺井が乗った汽車が小さな駅に止まると、銃を持った兵士が乗り込んできて、一人の男をにらみながら言った。
「十五円五十銭いってみろ!」。
この日の殺伐とした光景について、壺井は25年後の1948年に発表した詩「十五円五十銭」で、その男が「朝鮮人だったら/『チュウコエンコチッセン』と発音したならば/彼はその場からすぐ引きたてられていったであろう/国を奪われ/言葉を奪われ/最後に生命まで奪われた朝鮮の犠牲者よ/僕はその数をかぞえることはできぬ」と述べて悲しんだ。
このところ政界で続いている「日帝時代の国籍は日本」という論議を聞きいてるとイライラする。日本は1910年8月に朝鮮を強制併合した際、朝鮮人に日本国籍を与えると言ったが、薄っぺらい欺まんに過ぎなかった。一部の親日派を除くほとんどの朝鮮人にとって、日本国籍は侵略と圧政の象徴に過ぎなかった。朝鮮には「内地」とは異なり日本の憲法は適用されず、使われる法律も異なっていた。日本は「内地戸籍」と「朝鮮戸籍」を徹底して区別し、両戸籍の移動を禁じた。日本人にとって朝鮮人は依然として外国人であったし、地震のような危機に直面すれば除去すべき差別、排除、偏見の対象に過ぎなかった。朝鮮人は日帝が滅びる瞬間まで参政権を行使できなかった。
大韓民国の憲法精神は、日帝の植民地支配はそもそも不法、無効だというものだ。それを否定する人物が独立記念館長となり、また長官となっている。日帝時代の朝鮮人の国籍が「日本」だったという「ファクト」に忠実であれて、あなたたちは幸せなのか。物議を醸すキム・ヒョンソクとキム・ムンスは「十五円五十銭」が正しく発音できるのか。
キル・ユンヒョン論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-09-01 16:10
「The Hankyoreh」 2024-08-31 08:17
■「新植民地」大韓民国 【コラム】
「安倍(晋三)首相の意図は、(韓国との)政治的対立を通じて改憲と政権復帰に向かうことだ。これは経済的・政治的侵略であり、一方だけを強調してはならない。(日本との現在の対立は)過去の歴史と関連しており、未来の政治とも関連している」。
与党「共に民主党」のキム・ミンソク最高委員が自身の発したこの凄絶な発言を今も覚えているか分からないが、私の脳裏にははっきりと残っている。2018年10月の最高裁(大法院)による強制動員被害者賠償判決、それに対抗し、日本が韓国を「ホワイト国(輸出審査の簡素化対象国)」から排除するなど報復措置を取ったことで、韓日の対立が最高潮に達した2019年8月8日だった。
キム最高委員はこの日、慶南大学極東問題研究所が主催した第64回統一戦略フォーラム「韓日関係、どう解決すべきか」で、日本に対して抱いている不信感をありのままに表し、この問題をどうやって解決するかに国と政権の命運がかかっていると述べた。「この問題に国の命運がかかっており、これをきちんと解決できるか否かに政権の命運がかかっている。安倍政権で誰かが『文在寅(ムン・ジェイン)政権を交代させなければならない』と言うならば、私はこの問題は安倍政権が退くことで終わることになると言いたい」。
当時この発言にかなり衝撃を受け、2021年に出版した著書『新冷戦韓日戦』で、キム最高委員が「陰謀論的誤解」に基づいて誤った主張をしていると批判したことがある。ところが5年という歳月がたち、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権の絶え間ない「奸悪さ」を見続けなければならない今に至ってみると、韓日対立の苦痛に満ちた「本質」をここまで正確に突いた分析は他になかったという気がする。
当時の戦いは韓日両国の過去(歴史)と未来、すなわち「すべて」をかけた存在論的な戦いだったのだ。残念ながら敗れたのは安倍ではなく文在寅政権であり、その結果、韓国は歴史を忘れ(最高裁判決に対する一方的な譲歩案、佐渡鉱山外交惨事)、大韓民国の国家アイデンティティを自ら否定し(建国節、日本による植民地時代の日本国籍論議)、日米同盟の下位パートナーに成り下がり軍事協力(キャンプデービッド宣言)に追い込まれるという状況に至った。
もう少し視野を広げてみると、冷戦が終わりかけていた1980年代末、韓日の前には二つの道が開かれていた。
一つ目は「金大中(キム・デジュン)の道」だった。これは韓日が真の友情を築いていくために、日本が過去の過ちに「痛切な反省と心からの謝罪」(1998年韓日共同宣言)を恥じずに行う道であり、冷戦の「苦痛の遺産」である北朝鮮問題を解決するために、合わない相手とも積極的に対話する勇気ある道だった。この精神に基づき、金大中元大統領は2000年6月に、小泉純一郎元首相は2002年9月に、それぞれ北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記と首脳会談を行った。平和はすぐに目前に迫っているかのように思われた。
この流れを遮ったのは「安倍の道」だった。安倍首相は金正日総書記が謝罪した「日本人拉致問題」を積極的に掲げ、始まったばかりの日朝国交正常化の芽を摘み取った。2012年末に権力の座に復帰してからは、戦争に関わりのない世代にこれ以上「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という安倍談話(2015年)を発表し、力で中国の浮上を押さえつけ北朝鮮を包囲するという「積極的平和主義」と「自由で開かれたインド太平洋」構想を掲げた。
韓日の運命がかかった決定的な勝負所は、2019年2月末、ベトナムのハノイで開かれた2回目の朝米首脳会談だった。安倍首相はドナルド・トランプ米大統領に吹き込み、南北関係を改善し朝米対話を促進して東アジアの冷戦構図を崩そうという「朝鮮半島平和プロセス」のアキレス腱を切った。さらに同年7月、文在寅政権を相手にホワイト国からの排除という激しい報復に乗り出した。
この敗北は、金大中路線の破綻につながった。それ以降、心から楽しんだ日は一日としてない。その結果登場した尹錫悦政権は、安倍首相が夢見た秩序を韓国に積極的に移植し続けている。
いま重要なのは韓国国民ではなく「日本の気持ち」(キム・テヒョ国家安保室第1次長)であり、韓国が解決しなければならない時代的課題は、米日の戦略観に盲目的に従い「新冷戦」の最前線に小銃を持って飛び込むことになった。これは洗脳された「植民地人の心構え」と評価できるが、尹錫悦政権をこれほど絶妙に描写する表現は他に思いつかない。私たちが知る大韓民国は、どこへ行ったのか。一歩踏み込む場さえない。
(翻訳者注:最後の一文は1944年に獄死した独立運動家、李陸史(イ・ユクサ)の詩の一句の引用)
キル・ユンヒョン|論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-08-29 18:34
「The Hankyoreh」 2024-08-31 08:15
■【レビュー】「帝国日本」の国民はなぜ戦争を熱烈に支持したのか
『帝国日本のプロパガンダ―日本はどうして絶えず戦争を繰り返せたのか』
貴志俊彦著、チョン・ムンジュ訳、チョ・ミョンチョル監修|タカース|2万2000ウォン
1894年の日清戦争から1945年の太平洋戦争まで
「帝国日本」、視覚メディアを利用して戦争熱あおる
【写真】1944年に児童向けに制作された絵本『ダイトウアキョウドウセンゲン』。連合国に対抗するための国防強化策として、帝国日本は「大東亜共栄圏」という構想を流布した。同書の出版元は大日本雄弁会講談社=タカース提供//ハンギョレ新聞社
東アジアは19世紀末から20世紀まで激動期だった。特に、1854年に米国と和親条約を結び、西洋と本格的に交流を開始した日本は、西欧式の近代化を追求しつつ急激な変化を遂げる。この時期、日本は明治維新を通じて西欧化を追求するが、単に西欧の文物と制度を導入するだけでなく、天皇制を復活させるなど、日本独自の特殊なかたちで近代化を構築していった。日本はまた、この時期に「日本は韓国、満州、東南アジアなどを占領すべきだ」という軍国主義論理で武装し、他国を絶えず侵略して領土拡張を図った。
『帝国日本のプロパガンダ』(原書は『帝国日本のプロパガンダー「戦争熱」を煽った宣伝と報道』中央公論新社)は、1894年の日清戦争で始まり、1945年の太平洋戦争の敗北で終わった「帝国日本」に注目する。この時期、日本は1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1914年の第1次世界大戦、1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争と、ほぼ10年に1度の割合で戦争を繰り広げた。本書の監修を務めたチョ・ミョンチョル元日本史学会会長(高麗大学名誉教授)は、「日本が絶えず戦争を繰り返せた背景には戦争好きの指導層がいたが、それに劣らず過度な軍事費予算を快く容認し、戦争を熱烈に支持した世論も欠くことができなかった」と指摘する。では、当時の日本国民はなぜそのように戦争を熱烈に支持したのだろうか。
【写真】『帝国日本のプロパガンダ―日本はどうして絶えず戦争を繰り返せたのか』貴志俊彦著、チョン・ムンジュ訳、チョ・ミョンチョル監修、タカース刊//ハンギョレ新聞社
本書の著者である京都大学地域研究統合情報センターの貴志俊彦教授は、戦争とプロパガンダの相関関係にその答えを見出す。20年間、東アジアの図画像を研究してきた著者は、帝国日本が強烈な視覚イメージを利用して国民の「戦争熱」をあおり、戦争に対する肯定的イメージを植え付けたとする。情報メディアを通じたイメージと情報の伝達は、単なる情報伝達にとどまらず、自国の世論を統制する手段であるプロパガンダの機能を持ったということだ。著者は、1890年代以降に帝国日本がどのようなメディアをプロパガンダに用いたのかを時代を追って検討しつつ、メディアとジャーナリズムが当時の日本国民の時代認識にどのような影響を及ぼしたのかを探る。
【写真】日清戦争を題材にした演劇用戦争錦絵「川上演劇日清戦争」=タカース提供//ハンギョレ新聞社
1890年代の日清戦争期には版画報道が流行した。石版画やコロタイプなどの版画技術のせいで衰退の道を歩んでいた多色刷りの木版画(錦絵)は、「戦争錦絵」で生き残りの道を模索する。日清戦争の開始とともに日本は「新聞検閲緊急勅令」を公布し、外交や軍事に関する事件を新聞や出版物に掲載しようとする時は行政庁または内務大臣の検閲許可を得ることを義務付けた。しかし、錦絵は検閲に時間がかかると販売に支障をきたす恐れがあるため、検閲結果がすぐに得られた。速報性を帯びた錦絵は大衆の人気を集めた。錦絵は戦争物の芝居の上演ポスターとして用いられたことで大衆文化として浸透し、プロパガンダとして作用する。当時の日本国民がどれほど戦争に酔っていたかというと、おもちゃ屋でも銃、軍帽などのおもちゃを売っており、酒場では「皇国」、「大勝利」、「百戦百勝」のような商標を付けた酒を販売していたという。
【写真】「帝国日本のプロパガンダ」の著者、貴志俊彦=@Miyuki Nakajima//ハンギョレ新聞社
1904~1905年の日露戦争では、印刷技術の目覚ましい発展に伴い、「写真」を載せた新聞や「日露戦争写真集」のような画報雑誌が人気を集めた。絵葉書も人気で、戦場の将兵たちに41種の「慰問絵葉書」が無料で配布されたり、逓信省から「戦争記念絵葉書」などが登場したりした。官と民で絵葉書が作られたため、戦争絵葉書を収集する人々も現れた。それだけではない。19世紀末には白黒の無声映画(活動写真)が登場し、日露戦争を扱ったショートフィルムは公開前にチケットが売り切れるほど人気を博した。
1910年代に第1次世界大戦が起きた時、戦争のための総動員体制が整えられたが、読売新聞のような報道機関はプロパガンダの役割を自ら買って出た。同紙は「戦時の婦人の心構え」などの報道もおこなった。また、進歩系といわれる朝日新聞でさえ「青島(チンタオ)陥落」を祝う企業広告を掲載したり、戦況を報道したりした。このように帝国日本期には、報道機関もやはり戦争の「火付け役」を果たした。
【写真】『支那事変聖戦博覧会画報』(1938年)=タカース提供//ハンギョレ新聞社
国家プロパガンダは1930年代に頂点に達した。中国との戦争を遂行するために軍官民産が密接に結びついた。この時代、すべての戦争報道は軍部の許可を受けなければならなかった。当時の内閣情報部は「写真週報」も作ったが、それには「愛国行進曲」を歌う少年少女の姿が掲載されるという具合だった。さらに朝日新聞社に至っては、陸軍省と海軍省の後援で「支那事変聖戦博覧会」を主催した。大衆に日中戦争が「聖戦」であることを刻印するための宣伝活動の一環だった。1943年、帝国日本は連合国に対抗するための国防強化策として「大東亜共栄圏」を構想し流布するが、「ダイトウアキョウドウセンゲン」という児童向けの絵本まで出版されている。
著者は各時期ごとに事実にもとづいてドライに叙述しているが、その事実に従っていくと国民全体がこのように異常なまでに戦争に没入しうるのかという衝撃が押し寄せてくる。特に当時の大人たちが、幼い子どもたちに対してさえ平和ではなく戦争を刻印するために、戦争に関する漫画やゲーム、芝居を作って流布したという事実には、ぞっとするばかりだ。そして、改めてイメージの持つ強い力を認識する。イメージをなぜプロパガンダとして利用するのかも理解できる。
今もロシアとウクライナの戦争は終わっておらず、イスラエルのガザ地区侵攻も続いている。戦争写真と戦況を伝える速報は、かつてないほど急速に全世界に伝えられている。本書を読んでからは、戦争に関するイメージに接する時、そのイメージはどのような主体によって、どのような目的で作られたのかをみなければならないという思いがする。著者もやはり「帝国日本期の姿が現代を考える契機になればとの思いで本書を執筆した」と述べている。
ヤン・ソナ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-08-30 05:01
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